剛能く柔を断つ
エリカが車の中で待っていると、まもなく恭輔と高橋が車にもどってきた。再出発だ。高橋に言った。
「さっきは助けてくれて、ありがとう」
早く言っておかないと、礼が言いにくくなりそうな気がしたのだ。
「先生、ちょっと聞きたいのですが…」
高橋が「どういたしまして」も言わずに別の話を始めた。この子のこういうところが苦手なのだ。
「先生は、『武器を持っている者がいるから平和が乱れる』と言います。たしかにそうでしょう。しかし現実に、ここは武器を持たなければ暮らせません。それについてはどうお考えですか?」
「高橋! 余計なことを言うな」
恭輔がたしなめたが答えることにした。逃げたと思われたくない。(こういうところが戦闘的平和主義なのだが)
「あいつらもあんたたちも、いっせいに武器を捨てればいいじゃないの。そうなったら軍隊も自衛隊も必要なくなるわ」
「しかし民兵という武装した集団が現実にいます。彼らがいなければ、我々は必要ない。それはそうでしょう。しかしそれは、火事がなければ消防士はいらず、犯罪がなければ警官はいらず、病気や怪我がなければ医者はいらないというのと同じ理屈ではないですか?」
この言い方にカチンときた。
「あのね、病気や怪我の原因のほとんどは、もともと自然にあるものでしょうが! だけどあんたたちは、自然とは関係なく存在している。武器をもった『人間』がいっせいに武器を手放せば、だれも武器を必要としなくなるのよ!」
「しかし現実に…」
これは水掛け論だ。結論が出るはずがない。恭輔が怒鳴った。
「高橋! いい加減にしろ!」
「しかし…」
「おれたちは毎日人殺しの訓練をしている。こいつは人の命と健康を救っている。こいつの仕事のほうが、おれたちの仕事よりも高尚なことは明らかだ。エリカに謝れ!」
「ですが!」
「命令だ、謝れ!」
「はい!」
となりで高橋がだらだらと詫び言を言っていたようだが、聞いていなかった。ある言葉がぐるぐるとエリカの頭の中を巡っていたからだ。
おれたち…。
「だけど恭輔、結局この子がさっき命令を無視したことへの罰はいいの?」
「おまえもさっき言ってただろうが。おれたちはそのおかげで助かったんだ」
「フン。あんたも若い女に甘いわね」
恭輔が振り返らずに言った。
「『あんたが負けたら、あたしは死ぬのよ』」
「…何が言いたいのよ」
「おまえだっておれに甘いじゃねえかよ」
その時無線機が鳴った。恭輔が取った。
「はい、第一分隊。はい…、はい…、えっ…。………。………。………。了解しました」
恭輔が無線を切った。
「三人とも聞け。第二分隊がミリティアの襲撃を受けた」
さっきとは別の意味で全員が沈黙した。最初に高橋が口を開いた。
「それで、被害は…」
「民間人か隊員かはっきりしないが、死者がひとり出た。数人負傷者がいるようだ。石井二尉はミリティアに気づいていたが、交戦規定のために手出しができず、包囲されてしまったらしい」
「わかりませんよ。もし中隊長が指揮を執っていたら、被害を出さずに済んだかもしれません」
「おれの方が石井より有能だとは決して言えない。それよりも、第二分隊はなんとか宿営地まで逃げ込んだものの、そこも安全とはいえず、民間人を宿営地からヘリで脱出させたそうだ。そこで我々も、宿営地ではなく海岸を目指す」
エリカは恭輔の言葉を途中までしか聞いていなかった。
あたしのせいだ。
あたしが、あの黄色いシャツのエルフの子供の診察を優先させたからこんなことになったんだ。
あたしのせいで、死んだ人がいるんだ。
「エリカ」
気がつくと、恭輔がふり返ってこちらを見ていた。
「おまえのせいじゃない」
「そんなことわかってるわよ!」
叫んだが、やはり罪悪感にとらわれずにはいられない。
黄色いシャツの子を先に診察しなければ、自分もあの日本人たちも捕えられることはなかった。
昨日捕らえられなければ、だれかわからないが今日死んだ人は、今も生きていた。
捕らえられたあとも、自分はミリティアに虚勢を張っていた。
あれがミリティアを刺激したのかもしれない。
自分が恭輔といっしょじゃなければいやだとわがままを言ったせいで、中隊が二つに分かれた。
彼らはミリティアの襲撃を受けて死傷した。
自分はここにいて、無傷で生きている。
自分も、他の民間人とともにミリティアの襲撃を受けるべきではなかったのか。
「もう一度言うぞ。おまえのせいじゃない」
顔を上げると、恭輔がこちらを見たままだった。ずっと自分の顔を見ていたらしい。
「石井二尉は有能な自衛官だ。そして彼に分隊の指揮をまかせたのはおれだ。おまえはエルフの女の子を先に診察したからこうなったと思っているらしいが、ものごとの原因っていうのはそんなに単純じゃない。おまえがキャンプで住民の意思を無視しなければならなかったのは、原因というより結果だ。この世界の文化からきた結果にすぎない。一応、キャンプの日本人ドクターが現地の文化を無視して診察の順番を変えたからということになっているが、ミリティアの中には無差別で地球人を殺すべきだと考えている者もいる。おまえの行動はただ名分にされたにすぎない。おまえが何もしなくてもあいつらは暴走したろう。死者が出たのはミリティアのせいだ。おまえのせいじゃない」
自分でも信じられないようなことを、この男はなぜたやすく信じさせてしまうのだろう。
「田中、直接海岸には行かない。街に寄っていく」
「買い物でもするんですか?」
田中がまた軽口を叩いている。
「そうだ」
どういうこと?
「…しかし、海岸までの途中の街は、ミリティアが支配しています。危険です!」
「水を調達する。第二分隊に多く持たせたせいで、こちらのは尽きている」
エリカは口を挟んだ。
「なんでそんなことを…」
恭輔が答えた。
「エリカ、医師として診断しろ。今のおまえの体は、脱水症状を起こしていないか?」
「…起こしかけている」
砂漠を走ったり、車の外に出て歩いたりした。それにエアコンがあると言っても、出てくるのは乾燥した空気だ。口の中の水分も奪われたのだろう。
「水が必要だ」
「何で用意してないの!」
「用意していた水は使った」
「だれが!」
「おれだ」
「飲んだの!」
恭輔は答えない。自分が飲むぶんがあるなら、あたしに分けてくれればいいのに!
高橋が答えた。
「中隊長が、あなたの下半身を拭くのに使いました」
やっぱりあたしは、この子が嫌いだ。
街の近くに車を止め、恭輔が水を調達しに行った。
田中が残っていてくれてよかった。高橋と二人だけで残されるのは耐えられない。エリカがそんなことを考えていると、田中が言った。
「夕べの倉庫では、ミリティアたちはあっけなく抵抗を止めました。廃屋では棍棒しか武器がなかったので抵抗できなかったのでしょうが、しかし彼らは第二分隊を徹底的に攻撃している。彼らの行動は、ある種の合理性によって貫かれています。彼らを知ることは、この先の我々の行動にとって大変重要です」
これだけでは何が言いたいのかわからない。言いにくいことなのだろうか。
「まず、倉庫では隊員の方がはるかに人数が多かった。抵抗してもどうにもならないと、一人ひとりが判断したのでしょう。なぜそういう判断ができたのか? 各国の軍隊というものはナショナリズムによって連帯しています。国民軍と呼ばれているものですね。これは自衛隊も旧日本軍も例外ではないです」
エリカは口を挟んだ。
「それが戦前多くの人権侵害と、原爆投下と敗戦を産んだわけね」
「その通りです。国家と民族のために自分を犠牲にするという文化の犠牲になったわけです。しかしミリティアはエルフの各部族のリーダーの私兵です。オークやコブリンはさらにその私兵だ。つまり、自分たちが不利なら戦いをやめるという合理性を持っています。むろん彼らが『専守防衛』とか『交戦規定』とかいう概念を理解しているわけではないでしょうが、『オークやコブリンだけならともかく、味方にエルフがいる場合は、こちらから撃たなければ撃ってこない』と学習したのでしょう。文化は違っても同じように『学習能力』も『合理性』も我々と同じようにあります。そして、どんな文化にも欠点もあれば長所もある。たとえば『自分のことは自分でする』という日本の文化は、これ自体はいいことなんでしょうが、これがなければ障害者やお年寄りはもっと気軽に人にものを頼むことができるでしょう」
「じゃあ、あなたはエルフの文化の長所を何だと考えているの?」
「子供が勉強しなくていい」
「あんたねえ! エルフの子供たちがどんなに勉強したがっているかわかって言ってるの!」
高橋が口を挟んだ。
「先生は、日本の子供が先天的に勉強嫌いで、エルフの子供は生まれつき勉強好きだとでも思っているのですか? もし日本の子供がこの世界に、エルフの子供が日本に生まれ変わったら、今とは反対になりますよ」
そんなことはわかっている。しかし、自分が青春を犠牲にしてでもやり抜いたことを、価値がないかのように言われたくなかっただけだ。
エリカは高橋を無視して田中に言った。
「だったら、『生前罪を犯した者が女に生まれ変わる』っていう教義に、どんな合理性があるの?」
「その宗教を作ったのはエルフの男だったんでしょうねえ」
「…なにそれ」
「冗談ですよ。男が作った宗教であれ、女たちもまたそれを信仰し続けているのも事実です。世界の半分は女です。世界の半分が抵抗すればあっという間に消えてしまいそうなのに、世界史の多くの部分で女性差別が行われ、いまだに続いています」
「『女たちは、弱者として扱ってもらった方が楽だと考えている。自分が弱いのは自分のせいじゃなくて、自分が女だからと思えるからだ』とか言ってた男がいたけど、あんたもそう考えてるの!」
女は楽ではない。むしろ歴史上、つらい役割を背負わされてきた。だけど目立つのは男ばかりだ。
むろん女が弱者だというのも間違いだ。女の体は子供を産むために男よりも苦しみに耐えられるように作られている。
だからこそ、世の男どもを、私たちは啓蒙しなくてはならない。
「そういうことではありません。『おまえの父親は差別者だ。祖父も曾祖父も、おまえの先祖はみんな差別者だ』なんてよそ者から聞いたら、男でも女でも不愉快だろうってことです」
「それを率直に受け止めて、ならばせめて次の世代に因習を引き継がせないように努力するべきでしょ!」
「それは理屈です。自分にとって大切な人が傷つけられれば、理屈通りに動くことは難しいでしょう」
「あなたはこの世界の文化にひどい偏見を持ってるようね!」
「これは、どんな文化で育っても同じことでしょう。自分だって(・・・)、(・)大切な(・)人を(・)失えば(・・・)ヤケ(・・)に(・)なる(・・)かもしれません」
このスカした男が冷静さを失うとは思えない。お調子者かと思っていたが、とんだ曲者かもしれない。
「結局何が言いたいの?」
しゃべっているだけで口の中が乾いていく。早く話を終わらせてほしい。
「たとえ女性でも、あなたの味方とは限らないということです」
そんなことは隣に座っている女を見ていればすぐにわかる。それに「味方」なんて、この世に一人いれば十分だ。
「そしてもう一つ、あなたに救われたエルフの元患者であってもあなたの味方とは限らない。あなたはこの世界を拾わない。いつかは出ていく人です。しかし、彼らはずっとこの世界で生きていかなければならない。あなたに救われたという過去があるからこそ、部族への忠誠を周囲に見せつけ、自分が裏切り者ではないことを証明しなければならない。彼らに部族や世界を捨てるカネなどありませんからね…」
恭輔は徒歩で街に入った。
ここが一番の大通りのようだ。
乾燥しているせいだろう。空気がどことなく粉っぽい。
建物は頑丈そうだ。石造りの建造物が百年近く経っても使われているらしい。気候が厳しいため丈夫な建物でなければどうにもならないだろう。
道の上では露天商が店を並べている。この道は扇形になっていて、進むごとに狭くなっているが、建物に沿ってというわけでもなく雑然と、屋台が置かれている。
活気があるというより、どうもゴミゴミした印象が免れない。
乾いた空気の中に、野菜、果物、穀物、食器、衣類、雑貨、家具、それくらいならまだいいが武器屋まである。中年男のエルフが客に何かしゃべりなら、カラシニコフを空に向けて撃った。ものすごい音がする。デモンストレーションらしい。
今にもバラバラになりそうなポンコツ車が、猛スピードで屋台の間を走り抜けていき、砂煙が上がった。若いエルフの女が、走り去った車に何か怒鳴っている。食べていたお粥に砂が入ったらしい。この街では男も女もやたら声が大きい。
エルフもオークもゴブリンも、いろんな種族が歩いていて、住民たちは他人のことには興味がないようだが、陸自の戦闘服を着ている以上長居はできない。こんな大通りにいたくはないが、路地裏で水を調達できるとは思えない。
地球から持ち込まれたのだろう、ミネラルウォーターを売っている露店を見つけた。
問題は金を持っていないことだ。万引きするか? いや、ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。
店番にエルフの母子らしい二人がついている。子供はまだ小さい。この街では珍しい、あか抜けた黄色いTシャツを着ていた。
ペットボトルを指さした。子供が手をさし出した。恭輔は顔の前で手を振った。子供も顔の前で手を振った。
交渉不成立だ。母親に、手を合わせてみた。
母親は、恭輔の腰を指さした。
エリカが田中たちと話を終えてずいぶん経ったころ、恭輔が帰ってきた。
助手席からエビアン水のペットボトルを渡してくる。
よくこんなものが手に入ったものだ。封は切れてない。キャップを回して飲もうとして、恭輔の腰に拳銃がないことに気がついた。
ドアを開けてペットボトルを放り投げた。
「あんた! 何考えてるの! あんたのピストルが人殺しに使われる! あんたのピストルで死ぬヒトが出る! あんたはそれをどう考えてるの!」
恭輔がドアを開けて外に出た。エリカの腕を乱暴につかんで外に出させた。
殴りたいなら殴ればいい。あたしは間違ってない!
いきなり鼻をつままれた。息ができない。思わず顎を上げて口を開けた。
口にペットボトルが差し込まれた。
むせてせきこんだ。しかし、舌の上に水が乗った。
体が水を欲していた。
もう止まらなかった。次々に落ちてくる水を飲みこんだ。
ボトルが空になった。
恭輔が背中を向けた。
「どうやって水を調達したかの責任はおれにある。おまえには関係ない。…乱暴して悪かった。すまん…」
田中が叫んだ。
「敵襲!」
確かに街の方角から二台のトラックが走ってくる。ミリティアが乗っているようだ。
「乗れ!」
車に飛びこんでドアを閉めた。
「やはり…、街でおれを見かけた奴が知らせたか!」
田中が言った。
「砂漠に逃げますか!」
「いや、街に入る」
エリカは叫んだ。
「なんでっ!」
街にはミリティアがウロウロいるだろう。
恭輔ではなく高橋が答えた。
「わたしも街に入った方がいいと思います。砂漠に逃げるということは後戻りするということです。街からミリティアの車両がいくつも出てくれば、砂漠から出られなくなり、海岸に近づけなくなります。街を突っ切った方が確実です」
「行きますよ!」
エンジンはかかったままだ。田中はクラッチをつないでアクセルを踏みこむと大きくハンドルを切った。
街に向かうには、二台のトラックとすれ違わなければならない。
運転などできるのはエルフつまり「ヒト」だ。攻撃されないかぎり、こちらから攻撃はできない。
10時の方向の一台は日本車の軽トラだ。「鈴木とうふ店」と書かれている。12時の方向のもう一台は4トントラックだ。「アリさん引っ越しセンター」と書いてある。
この世界だけでなく、地球の途上国でも日本車の中古や盗難車が民兵たちの足になるのはよくあることだ。高性能の保証として日本語のロゴを消さずに使っている。これらのクルマも、豆腐を売ったり引っ越しの手伝いをしていたころは平和だったろうに。
とうふ店に向かっていけば、アリさんがぶつけにくるだろう。しかし巨大なアリさんに、とうふ店はぶつかってこられないはずだ。
正面からアリさんに向かって走る。ギアをトップに入れてさらにアクセルを踏む。
無論正面衝突すれば大破するのはこちらだ。後ろから女の悲鳴が聞こえる。
アリさんの運転手のエルフの表情が見えた。怖いのか。焦っている。ギリギリでハンドルを大きく右に切る。車体が右にずれる。左側の車輪が浮く。ダンッと音がする。車輪が地面を叩く。横転しない。こっちはただの四駆じゃない。戦闘車両だ。おなじ日本車といっても運動性能はケタ違いだ。
「いいぞ! そのまま街につっこめ!」
助手席の新条にレインジャー隊員としての返事をする。
「レインジャー!」
街が見えてきた。入口に向かって疾走する。西洋風の石造りの建物が林立している。
灰色の四階建てと、くすんだオレンジの五階建ての間を通って街に入った。大きな道に出た。舗装されていない。後ろに砂煙が上がるのがミラーにうつる。走るたびに道幅が狭くなっていくのがわかる。
真奈美が叫んだ。(田中は心の中でだけは高橋のことを「真奈美」と呼んでいる)
「6時の方向、RPG! 二本、四本、六本…、数えきれません!」
「そのまま直進しろ。道幅は狭くなるが、そのまま抜ければ海岸だ!」
「レインジャー!」
道の終点はすぐそこだ。あの幅ならぎりぎり通りぬけられる。スピードを緩める気はない。
しかしその出口に見えたのは、黄色いシャツのエルフの子供を縛り付けた磔柱だった。
間違いなくあの子だ! なぜあの子があんなことをされているんだ! 生きているようだ。遠目で見ているエリカにも、彼女が大声を上げて泣いているのがわかる。
自分がしたことは何だったんだ…。
「反転!」
恭輔が叫ぶ声が聞こえる。
「レインジャー!」
かん高い音を立ててタイヤが鳴った。体が振り子のように回転し、乱暴にドアに押しつけられる。いつのまにか車両の向きが反対になっていた。フルスピードでもと来た道を驀進している。
エリカは大声を上げた。
「なんなのあれ!」
恭輔が答えた。
「防盾だ」
「だから、なんなのあれ!」
「だから、タマよけだ!」
銃を抱えたエルフの男たち、女たち、子どもたちが、棍棒を握ったオークたち、ゴブリンたちが、次々に建物から飛び出してくるのが見える。フロントガラスの向こうには肩にミサイルをかついだエルフが何人も見える。恭輔が言った。
「田中! まかせる!」
「レインジャー!」
エリカは兵器にくわしくはないが、見ただけでわかる。あのごついミサイルが当たれば、車の装甲など紙のように貫くだろう。
高い音を立ててミサイルが飛んでくるのがガラスごしに見える。田中がギリギリでハンドルを切る。次のミサイルが来る。もどす。ミリティアが撃ったミサイルが、次々に直進してくる。そのたびに田中がギリギリでかわしていく。しかしこんなこといつまで保つんだろうか。
いきなり体をぐっと倒された。高橋の体が自分の上半身を覆っている。この時ばかりはありがたかった。恭輔が何か叫んでいる。
「エリカ、約束を覚えているか!」
「約束?」
この男がしてくれた約束ならたくさんある。
「おれがいるかぎり…」
高橋の膝の上で叫んだ。
「あたしは死なない!」
何発かわしたかわからなくなったころ、わずかに時間が空いた。田中はクラッチを切ると思い切りハンドブレーキを引っ張った。ギャァァァッという音を立ててサイドブレーキが軋み、後輪がロックされる。前輪は駆動したままだ。四つのタイヤがかん高い悲鳴を上げながらドリフトする。車体は左に90度回転し、わずかな時間、ミサイルに対して長大な腹を見せて停止した。ブレーキを下ろしながらクラッチをつないでアクセルを踏み込む。重い車体が覚醒したように動きだす。加速させながらそのまま路地に突っ込んだ。ルームミラーの端から端まで、RPGが噴煙をなびかせて飛ぶのが見えた。狭い路地でもスピードを緩めない。両脇に迫った石の壁がものすごい勢いで後ろにとんでいく。木箱、外に出された家具、そのほかいろんな物を蹴飛ばしながら直進する。建物の上からカラシニコフの銃弾が雨のように降ってくる。さらに、矢が空気を切り裂きながら降ってきた。オークやゴブリンが投げているのだろう、石や棒切れが降ってくる。屋根にガンガンぶち当たる音と衝撃が伝わる。真横から攻撃される恐れこそないが、袋の鼠には違いない。幅員ギリギリの小道をアクセル全開で走る。出口が見えてきた。RPG7を持った、真っ赤なシャツのエルフがひとり飛び出してきた。真奈美が叫ぶ。
「12時の方向、攻撃機動!」
まだあのエルフから攻撃されていない以上、こちらの銃座から撃つことはできない。交戦規定に反する。
左右に避ける幅はない。後退しても命中する。あの距離から撃たれて外れるわけがない。ならば…。
「田中! わかってるな!」
「レインジャー!」
剛能く柔を断つ。
エルフが出口の中央に立ち、RPGを構える。かまわずトップギアのままアクセルを踏み込んだ。このままいけば車はRPGに貫通されて炎上、中の人間は蒸し焼きだ。しかし燃え上がったラブは慣性によって直進、あいつを轢き殺すだろう。
「田中ぁ、あいつが『日本軍』に特攻かけられるかどうか、見てやろうぜ!」
あと2秒で出口というところで、赤いシャツを着たエルフが壁の向こうに退いた。ラブはそのまま路地から飛び出した。
少し広い通りに出た。建物に夾まれた状況が終了し、装甲に銃弾と矢と石と棒が当たる音が止んだ。
田中が(恭輔もそうだろう)ラブをエルフに向かって直進させたのは、ただの希望的観測による行動でもなければ、自暴自棄でもない。
さっき大通りでミリティアはRPGを、全て(・・)ラブ(・・)に(・)向かって(・・・・)撃ってきた。
田中はそれをことごとくかわしてみせたが、しかし彼の技術でもどうにもできないやり方がミリティア側にはあった。
大通りに全員でラブの幅より狭い間隔に並んで立ち、同時にRPGを発射するのだ。
弾幕射撃である。
こうすれば田中がどんな機動を取っても、絶対にどれかのミサイルが当たることになる。ラブは所詮軽装甲機動車なのだ。無反動砲であり、空中の軍用ヘリを撃墜する能力があり、対戦車ロケットとしてさえ使われるRPGなど一発もらえばおしまいだ。
無論彼らにもそんなことはわかっているだろう。
しかしミリティアはこの方法はとらず、個人でバラバラにラブに向かって撃ってきた。
なぜか。
弾幕射撃とは、当たらないタマがあるのを承知で敵の逃げ場をふさぐやり方だ。したがって当たったタマを撃った者も、当たらないタマを撃った者も、上官から見たら同価値である。
軍隊だけではない。近代組織とはすべて「任務の束」である。個々が任務を遂行することによって作戦目的、たとえば「敵車両を破壊する」という全体の目的が達成される。そしてひとりの任務は自分の担当正面に向かって撃つことであって、結果として敵に当たっても当たらなくても、彼の評価には関係がない。
この世界のミリティアのリーダーのことを「山賊のお頭みたいなものだ」と言っていた者がいたが、田中の感覚では「戦国大名みたいなもの」だ。
それも、信長以前の大名である。
信長や秀吉の軍隊では「抜け駆けの功名」など認められない。しかし信長以前には、手柄を立てた者だけに恩賞が与えられたため、大将の制止を振り切って突入していく武士たちがいた。
つまりこの世界のミリティアたちは、「自分の撃ったタマが当たらなくても敵の逃げ場をふさげばいい」などと考えていない。自分が撃ったタマが当たらなければ自分の手柄にはならない。手柄を立てなければ自分は何ももらえない。つまり戦う意味がない。だから全員が同じ標的を撃つのだ。
だから昨夜の倉庫で、あっさりと抵抗するのをやめた。
数が違いすぎる。手柄など立てようがない。彼らに、敵わぬまでも最後まで抵抗するという文化はない。たとえ全滅しても、少しでも敵の兵力を削り、後に控えた味方を助けるという価値観はない。
この価値観が最も旺盛だったのが日本軍だ。そしてこの価値観のために多くの人が死んだことは、エリカが指摘した通りである。
一方部族社会と言われながら、この世界のミリティアが戦うのは各個人ひとりひとりまで自分のためだ。しかし「特攻」は、自分を犠牲にしてでも敵を滅ぼすやり方だ。「民族」なり「国家」なり「地域」なり「宗教」なり、自分以外のもののために戦う者でなければ取りえない戦術なのだ。
どちらがいいとか悪いとか、正しいとか正しくないとか、そういうことではなく両者は全く別の文化なのである。
そうは言っても、信長以前の戦国時代と同じとは、ずいぶん古くさい文化であるが。
オークやコブリンは、私兵であるエルフのさらに私兵である。自分の主への忠誠心なのか、命令されて戦っているだけなのか、それはわからないが、何かの概念のために命をかけるなどあり得ることではない。
あの赤いシャツのエルフは、自分の姿を見てラブが急停止すると思ったのだろう。そこにRPGを撃ち込めば自分の手柄だ。しかし突っ込んできた。たとえ敵を撃破しても自分が死んだら何にもならない。すぐに離脱した。
「田中! 左折しろ!」
「レインジャー!」
このまま直進しても海岸には出られない。思い切り左にハンドルを切った。
あの大通りにもどるのは危険すぎる。小路を縫うように走るしかない。狭い路地を見つけてとびこんだ。フルスピードで走る。ここを抜けて、海岸に…。
いきなり路地の出口に幹が二メートルくらいある丸太が転がってきた。
バリケードだ! 思い切りペダルを踏み込んでクラッチを切る。シフトレバーをトップからローに直接ぶちこむ。クラッチをつなぐ。ガクッという勢いでエンジンブレーキが効く。車体も中の人間も思い切りつんのめった。同時にクラッチとブレーキを踏み込んだ。ラブのボンネットは丸太の数センチ手前で停止していた。フロントガラスいっぱいに横になった幹が映っている。
「後退!」
新条の号令の前にクラッチを踏み込んでいた。レバーをリアに放り込む。もう一度クラッチを上げる。
「レインジャー!」
エンジン音が低くなる。タコメーターの針が下がる。クラッチがつながっているのは間違いない。しかしいくらアクセルを踏んでも、車体はピクリとも動かない。この程度の荒っぽい扱われかたで故障するようなクルマではない。
丸太だけじゃなくて、油か何か撒いたか…。新条がこちらに背を向けた。
「どうするんです!」
「外に出て前から押す!」
「待って下さい!」
その時、ハンドルに、アクセルペダルに、ごく自然な手応えが伝わってきた。
グリップした!
「行け! ライトアーマー!」
バックギアが許すかぎりのスピードで、ラブは一直線に後退する。
腰を回転させて上半身を進行方向に向ける。100メートルくらい、小路の向こうの出口まで半分くらい進んだとき、出口を覆うように、軽トラックが横付けしたのが見えた。鈴木とうふ店だ。テクニカルと呼ばれる車両だ。荷台に重機が載せられている。銃口がこちらを向いた。真奈美が叫ぶ。
「6時の方向、12.7ミリ機銃が一丁! 攻撃機動!」
カラシニコフと弓矢の土砂降り射撃に耐え続けたラブだが、重機ではそうはいかない。前面装甲ならともかく、背面にあんなものをぶちこまれたら、ラブといえどもただではすまない。12.7ミリということは、一個ずつのタマの長さではなく直径が、一センチ以上あるのだ。すぐに破られることはないにしても、長くは保たない。しかし今はバックし続けるしかない。
真奈美がとんでもないことを叫んだ。
「銃座についてRPGを撃ちます!」
たしかに攻撃されているのだから応戦は可能だ。鹵獲品のRPGが、汎用ロケット砲が積んである。しかし銃座につけば上半身は直接敵に晒される。しかもラブの中は狭いため、四人とも防弾ベストはおろかヘルメットさえつけていない。新条が叫んだ。
「よせ! 危険だ!」
鈴木とうふ店の機銃が火を噴いた。荷台に小柄なエルフが立って、機銃の引き金を引き続けている。ごつい弾帯が蛇のように車体の外にまでうねっている。金色の大蛇が振動とともに長い銃身に飲み込まれていくのが見える。空薬莢がきれいな半円を描いて飛び出す。カラシニコフの土砂降りみたいな音とは違い、ハンマーでぶっ叩かれたような衝撃が間断なく伝わってくる。いきなり衝撃がやんだ。
ジャミングだ…。
カラシニコフには滅多に起きない現象だ。銃器もまた機械である以上、整備しなければかならず故障する。銃というものはそんなに複雑なシステムではない。火薬の入った薬莢を撃針で叩いて爆発させ、長い銃身を通してタマを前に飛ばす。それだけである。
しかし、火薬を爆発させれば必ず機関にススやゴミがつく。これが故障の原因になる。つまり、撃ったら必ず分解して掃除しなければならない。
しかしタマが行き交う戦場で、じっくり分解している余裕などめったにない。カラシニコフという突撃銃は、極力それをせずにすむように設計された。
銃器に限らず機械は全て部品が組み合わさってできている。そして部品と部品が隙間なく、キッチリ組んであればあるほど精巧な動きをする。そして故障しやすくなる。
その点カラシニコフは、まるっきりスカスカなのだ。無論命中精度は落ちる。しかし相手が見える距離で殺し合いをしなければならない歩兵にとって、必要なのは精度の高い機械ではなく、引き金をひけば確実にタマが出る鉄砲なのだ。
それはそれでいい。しかしミリティアたちはカラシニコフの頑丈さに慣れてしまったのだろう。重機関銃も同じだと考えていたらたちまち故障する。
こちらにとっては好都合だ。このままバックして軽トラを押し、道の外に出る。
可能か…? 軽トラといえどもタイヤが進行させたい方向の横を向いている。文字通りの「横車」だ。摩擦が大きすぎる。
「今だ! 銃座につきます!」
真奈美がまた叫んだ。
「危険だ! やめろ!」
新条が上半身をねじって手を伸ばしている。しかし狭いラブといえども、座席を挟んで動きを封じるのは無理のようだ。
真奈美が抱えていた藤原医師をつきとばした。新条が叫ぶ。
「エリカ! おまえが止めろ!」
「えっ、えっ、えっ、えっ…」
いきなり突き飛ばされた藤原は、突然の命令にただキョロキョロしている。
何なんだこの女は!
いくらただの民間人だと言っても、おまえ医者だろう!
もうちょっと冷静になれないのか!
真奈美がこんなことを言い出したのはおまえのせいだろう!
もう少しこいつに気を使ってくれれば…。
何が反差別だ! この職業差別者のレイシストめ!
真奈美がRPGを取り出して天井のハッチを開けた。
「真奈美! よせ!」
思わず叫んでしまった。
「あんたに命令される筋合いはない!」
真奈美は藤原が言いそうな子どもっぽいセリフを叫ぶと、座席の上に立った。藤原がその隣で縮こまっている。止めてくれよ!
今、真奈美の上半身と敵との間をさえぎるものは何もない。
今はただ、無事にすむように祈るしかない。
プシュッという発射音と、シュルシュル…という飛行音が開いたハッチから聞こえる。場面の重さに対していやに軽い音だ。
この距離で外れるわけがない。
爆発音がした。真奈美の体の向こうにリアガラスを通して、軽トラが炎上するのが見える。
その時、銃声ではない、タマが空気を切り裂く音が聞こえた。
いきなり高橋の体が振ってきた。エリカは両手でそれを受け止めた。血まみれだ。恭輔が叫ぶ。
「建物の上から狙撃された!」
陸上戦においては、上空にいる者が絶対的に有利だ。
「たぶんカラシニコフだろう。それだけですぐに死ぬことはまずない! エリカ! どんな具合だ!」
エリカはこんなことを聞かされたことがあった。
カラシニコフは歩兵同士の戦闘のために開発された。軍用小銃は、撃った相手が確実に死ぬことを求められていない。味方が撃たれて死んだら死体をそこに置いていけばいいが、重傷者が出たらそうはいかない。野戦病院まで引きずっていかなければならない。それには二人の健康な兵士が必要だ。つまり一人死ねば一人無力にできるだけだが、一人に重傷を負わせれば三人無力化できる。だから歩兵用のライフルに大口径の銃は使われない、と。
エリカはこれを聞いたとき、軍人ってなんて残酷なんだろうと思った。
これが高橋にとっていい結果になるだろうか。
「エリカ! 高橋はどうだ!」
「頸動脈を切られてるわ! 出血がひどい! 傷口が首じゃなければ縛って止血することも可能だけど、撃たれた位置が悪すぎる。だけど15分以内に手術室に運べれば…」
「結論から言え! 助かるのか!」
エリカは恭輔の顔を見てはっきりと首を振った。手術室どころかメスの一本もない。医者だろう何だろうが、道具がなければ何もできない。高橋がもうすぐ死ぬのがわかるだけだ。
何か叫び声が聞こえた。後ろをふり返ると炎上した軽トラの向こうに棍棒を手にしたオークとコブリンたちが、喚声を上げながらこちらに走ってくるのがリアガラス越しに見える。
「ライトアーマー放棄! エリカ! 車の外に出ろ! 田中! 89式をかせ!」
「だけど…」
「いたい、いたい、いたい…。くるしい…」。
高橋が小さな声をあげつづけている。
「田中! 何をしてもいいからエリカを外にひっぱり出せ!」
田中は運転席から出ると、後部座席にまわってドアを乱暴に開けた。エリカは思わず身をすくませた。田中がエリカの髪をつかんでぐいぐいひっぱる。たまらなく痛い。この田中の態度には「八つ当たり」のようなものを感じる。その時「いたい…」という高橋の弱々しい声が聞こえた。思わず手を離した。そのまま外に出されてしまった。田中に乱暴に腕をつかまれ、横になっている丸太に向かって走った。確かに車では無理でも、徒歩なら簡単に越えられるだろう…
恭輔は車の外に出て高橋二尉がいる方のドアを開けた。
エリカは15分以内に手術室に運べば助かると言っていた。しかし敵がすぐそばまで迫っている。背負って逃げることはできない。
しかし、このままここに置き捨てていけばオークやゴブリンたちのなぶりものにされるだろう。
ロックを外し、コッキングハンドルを引き、小銃を構えた。
「たすけて…、しにたくな…」
高橋が大量の血を流しながら、力を振り絞ってこちらに這ってくる。しかし恭輔が銃を構えているのを見て、フラフラした動作ながら腰の拳銃を抜いてこちらに向けようとした。
引き金を落とした。
乾いた銃声とともに高橋真奈美の眉間に穴が開いた。
差し出していた拳銃を奪った。死者の武装を剥ぐなどやっていいことではないが、これが必要になるだろう。
拳銃をホルスターに入れ、高橋に向かって直立不動の姿勢をとって挙手の礼を捧げた。
敬礼から直ると、ラブの給油口の蓋を開けてキャップを外した。
気化したガソリンが大気中に拡散する。
恭輔は丸太のバリケードがわに、ラブから十メートルほど距離を取った。
89式小銃のセレクターレバーを動かして単発から連発に切り変える。右の二の腕に床尾板をしっかりとつけ、左手でバレルジャケットを握る。
敵が、オークとゴブリンたちが、12時の方向からやってくる。棍棒をふりかざし、喚声を上げながら走る。
敵の先頭がラブの屋根に乗ったとき、引き金を絞った。
台尻からの衝撃を体全体で受け止める。フルオートの弾丸が、ラブに吸い込まれるようにとぶ。一斉射が終わったころ、気化したガソリンが発火した。
ラブは大爆発を起こして敵と高橋の死体とともに吹き飛んだ。キノコ形の火炎が上空を覆う。
恭輔は踵を返し、丸太を乗り越えて海岸をさして走った。
そしてエリカはいま、海岸の防風林の中にいた。
ドラム缶を乗り越え、街を横切り、ここまで走ってきたのだ。
目の前には照りつける太陽と白い砂浜、蒼い海が広がっている。
景色だけ見ればどこかのリゾート地のようだ。
しかし上空に、激しいローター音を響かせながら自衛隊のヘリが旋回している。
そしてエリカのすぐ近くに、田中祐一と新条恭輔がいた。
エリカは後悔していた。自分を責めていたと言ってもいい。
昨日からエリカは何度も後悔し、何度も自分を責めてきた。しかし彼女はいま、これまでの自分の生き方そのものを否定せざるを得ないと思っていた。
高橋真奈美が死んだ。
ついさっきまで生きていた、しゃべっていた、自分を抱きかかえていた女が死んだ。
今まで医師としてたくさんの死を見てきた。
だけどこんな気持ちになったことはなかった。
何年も顔を見ていないが、エリカの母も父も兄も存命している。
親しい人の死など見たことがなかった。
高橋は、特別親しかったわけではない。むしろ「いやな子だ」としか思っていなかった。とうぜん向こうもそう思っていただろう。
だけどほんの少し前自分と言葉を交わした若い女が、もうこの世のどこにもいないことがショックだった。
そしてこのように感じている自分がショックだった。
さっきの戦闘で、高橋がロケット砲を撃って軽トラの荷台にいたエルフが火だるまになった時にもこんなことを感じなかった。
あの、黄色いシャツを着たエルフの子どもが磔にされていたときに自分が考えたことは、「自分のしたことは何だったのか」だった。
自分にとって大切なのは、あの子の命よりも自分の仕事だった。
倉庫で「あごひげ」は、最初は余裕を見せていたのに、「あたしたちが慎重に救いあげている命を、あんたたちは簡単に叩きつぶしてしまう」と自分が言うとともに激昂し、狂ったような暴力をふるった。
「あごひげ」はきっとわたしの態度から、わたしが「つくりかけの積み木細工を壊されて怒っている子供」でしかないことを感じ取ったのだろう。
「おれたちの命はおまえのオモチャか」という言葉はそれを表していたのだ。
自分は命そのものの大切さをわかっていなかった。
母はそれがわかっていたのだろう。
だからこそ、「死んだら楽になれるんじゃないか」と口走ったとき、ビンタを張ったのだろう。
それを「日本人の死」によって思い知らされた。
エリカは以前、「原爆資料館に行ったら、ゲラゲラ笑っている中国人の団体に遭った。日本人の痛みは日本人にしかわからないのだ」と言っている男に、「どうしてその団体が中国人だとわかったんだ。おまえは中国語がわかるのか? ただ日本語以外の言葉をしゃべっていたっていうだけじゃないか」と言って黙らせたことがある。しかし自分が、「日本人の痛みしかわからない」人間だったのだ。
自分は医師になるとともに海外に出た。日本人の患者を診たことがない。外国人ばかり診ているうちに、いつのまにか「死」はただの失敗のように、医者の仕事を人間の体を継ぎはぎする職人のようにとらえていた。
自分は、自分の醜さと向き合わなければならない。
あれほど差別を糾弾してきた自分が、とんでもない人種差別主義者であることを認めなければならない。
自分の差別意識、いや差別無意識だろうか。
そちらの方がタチが悪い。
日本人の体と亜人の体、日本人の命と亜人の命を別のものとしてとらえていたことから目をそらしてはならない。
そして変わらなければいけない。
自分たちに襲いかかってきたミリティアにも、大切な人がいる。
襲いかかってきたミリティアも、だれかの大切な人なんだ。
だれの命だろうが、同じように尊い。
そしてこの世界に「武器」を持ち込んだのは地球人だ。
ミリティアも自衛隊員も、武器を持っていなければこんなことにならなかった。
確かにどんな職業も社会にとって必要だろう。トイレを掃除する人、死骸を運ぶ人、みんなが嫌がっても、いやみんなが嫌がるからこそやってくれる人が必要だ。
だけど、「人を殺す職業」など不必要だ。
さっき、恭輔がオークとゴブリンを焼き殺すのを見た。
もしエルフだったら、ただ走ってくるだけの者を攻撃したりはしなかっただろう。
恭輔は、エルフと他の亜人とを残酷なまでに差別している。
だいたい「亜」人という言い方自体が差別的だ。
そして恭輔が、高橋さえも撃ったのを見た。
この男は人殺しだ。
恭輔は高橋を殺したあと、彼女の死体に敬礼した。
自分が殺した女に敬意を表す。
この行為を見たことがたまらなかった。
敬礼するより、命を助けるべきなんだ。
あのまま置いていったら、オークたちになぶりものにされた挙句、殺されたかもしれない。
しかし「かもしれない」は所詮、「かもしれない」にすぎない。
自分は恭輔を許してはならない。
「エリカ」
返事をしなかった。
「30分以内におまえを日本まで送りとどける」
馬鹿な。ここから日本までどれだけ離れていると思っているんだ。
「あいつらは海の上には絶対に手出しできない。地球の、この世界との出入り口の『渦』のすぐ近くに、海上自衛隊の護衛艦『いずも』が来ている。自衛隊の支援活動の基地として使われるためだが、ソマリア沖で海賊退治をしている艦隊と合流した。地球上のどこにいようと、自衛艦の中は国際法上の日本領だ。おまえが大嫌いな、日本の常識と法律が支配している」
まぎらわしいことを言うんじゃない。だったら、なんでさっさとヘリが下りてこないんだ。
「12時の方向は海で、8時あたりで防風林が途切れている。2時の方向に樹木が密集しているのが見えるだろう。今、敵が400名ほど隠れている。RPGのような重火器を装備してな。しかしヘリってものは案外脆い。下手に低空飛行してRPGを一発でもくらえばおしまいだ。それを避けるために先制攻撃が必要なワケだが、おまえが知っている通り自衛隊は『専守防衛』に基づいた『交戦規定』に縛られている。向こうが撃ってこない限りは撃てない」
何を言っている。さっき高橋がロケット砲を撃っていたじゃないか。それにあんたも車を撃って爆発させて、オークとコブリンたちを殺したじゃないか。
「あの局面では、その前にライトアーマーが重機で撃たれていた。交戦条件をクリアしていた」
「さっきオークやコブリンは、走ってきただけで、弾なんか撃ってないわよ」
「コブリンは亜人でヒトではない。交戦規定は適用されない」
「動物とおんなじってことね」
「しかし、あそこにはエルフがいる。エルフはヒトだ。交戦規定では向こうから撃ってこなければ反撃できない。ヘリが飛んでいる以上は向こうも簡単に手出しはできないだろうが、林を通ってここまで来たらすぐにおれたちをみつけるだろう。向こうは約400人。棍棒弓矢カラシニコフのほかにRPGまである。こちらは2人、自動小銃が一丁と拳銃が一丁。兵力が400対2っことは、自乗均等の法則からすれば戦力は160000対4だ。あのヘリにしたって、林の中のことは上空からは見えない」
あんたの言うことはすべて偽善としか思えない。あの、高橋真奈美の死を見たあとでは。
尊厳やプライドよりも、命が何よりも大切なんだ。
どんなに痛々しくても、惨めでも、屈辱を味わおうとも、生かすべきなんだ。
高橋は「死にたくない」と言っていた。
死んであんたに敬意を払ってもらいたかったわけじゃなかった。
生きていたかったんだ。
「敵に辱められるよりは死ね」というのは、男たちのわがままだ。
「生きて虜囚の辱めを受けず」と何が違う。
沖縄の集団自決と何が違う。
女性差別そのものだ。
ひとの命をなんだと思ってるんだ。
あたしは女を殺して敬礼したあんたを決して許さない。
「エリカ…、目を閉じてくれないか」
田中がそっと自分の背後にまわった。気を使っているらしい。二人とも何を勘違いしてるんだ! 叫んでやった。
「いやっ!」
「自衛隊というのは、名誉とか理念とか普遍的な正義とか、そういう抽象的なものを守ったりしない。もっと具体的な、日本と日本人を守るための軍隊だ」
「日本」のどこが具体的な存在だ。見ることも、触ることもできないじゃないか。結局は「日本軍」じゃないか。それがどんなに多くの血を流したか、わかっているのか。
「おまえは医師としての文化の中で生きているだろう。おれも自衛隊員としての、文化の中で生きている」
文化なんていう曖昧な言葉でごまかされるか!
「文化っていう言葉が大雑把なら、知ったかぶりをして社会科学用語でいう行動様式って言おうか。おまえはだれだろうがヒトだろうが亜人だろうが、けが人がいたら診察する。そういうエートスを持っている。だけど、おれにとって人間は平等じゃない」
だから、自分の部下なら殺してもいいと思ったのか。その後敬礼したのはただの自己満足だ。死体はもうモノだ。あれは高橋真奈美ではない。
「おまえは日本なしでも生きられるんだろう…。だけどおれはそうじゃない」
そう言って恭輔は、エリカ(・・・)に(・)対して(・・・)挙手の礼をした。
背筋から指の先までピンと伸びた、美しい敬礼だった。
「何のつもりよ…」
恭輔はいつか「人間は全て恋でできている」と言った時のように、にやりと笑った。
「決まってるじゃねえか…、日本を(・)守る(・・)んだよ」
そして男は、はじめて彼女を「エリカ」と呼んだときのように、にっこりと笑った。
「おれはずっとおまえの味方でいる…。言葉どおり、『死が二人を分かつまで』」
「ちょっとそれは…」
あの夢にでてきたセリフじゃないか! 何で知ってるんだ! 背後から田中の声がした。
「先生…。寝言をはっきり言い過ぎです」
顔がどんどん紅潮していくのがわかる。知っていながら知らない振りをしてあたしに話していたのか! 知らない振りをするならずっとそれを通すべきじゃないのか! いきなり背中に衝撃を感じた。砂の上にうつぶせに倒される。田中が背中にのしかかってきた。
「何するのよ!」
「交戦条件を作るんですよ…。一尉が飛び出したのは、撃たれるためです!」
いつの間にか恭輔がいない。砂浜を走っている。
「あいつ! 何してるのよ! あたしの前でカッコでもつけたいの!」
何が「おまえが生きていればいい」だ! あたしはどうなるんだ!
「カッコなんかつけられません! この作戦には、痛々しくて、惨めで、屈辱そのものの『死』が必要なんです!」
田中は左手をエリカの顎の下に通し、しっかり組み伏せている。痛みこそ無いが、一切身動きができない。
「離せえ…。日本が…、あたしのふるさとが…」
殺される!
異世界の、地球のそれよりもはるかに大きな太陽がぎらぎら輝いている。恭輔がだれもいない砂浜を走るのが見える。あいつが…、あの男だけが! あの殺伐とした故郷での、たった一つの、宝石みたいな思い出!
恭輔は頃合いと思ったのか、くるりとこちらに振り返った。腰の拳銃を抜くと肘を曲げて頭の上に持っていく。空に向けて撃った。右手を伸ばして拳銃をぽとりと落とした。
「離せ…、日本が死ぬ。日本が死ぬ! あんた自衛官でしょう! 日本を守りなさいよ!」
エリカの悲鳴をカラシニコフの斉射が打ち消した。
あの、根を生やしたかのようにしっかりと立っていた恭輔が、重さを持たないかのようにふきとぶのがはっきりと見えた。手を伸ばせばさわれそうな距離で、日本が殺されようとしている!
うつぶせのまま両手をせいいっぱいに伸ばした。
何もつかむことはできなかった。
「あなたの日本は死のうとしている。だけど新条一尉の日本は、生きています! 中隊長はあなたを守り通すというただ一つの目的のために全ての意志と力を集中しました。そのためにずいぶん無茶をやった。赤ん坊を殺そうとしたのは、実際に殺したわけじゃないから何とか言い逃れができるでしょう。中隊を勝手に二つに分けたのも、何とかなるでしょう。しかし国から預かっている銃を、現地の人間に与えたことはどうにもなりません。そして何より真奈美の件です。自衛隊では上官に、旧軍のような部下への生殺与奪の権があるわけではない。作戦中の自衛隊員は地球上のどこにいても国内法に支配されています。新条恭輔は日本に帰れば第一中隊長でも一等陸尉でも自衛官ですらない。ただの殺人犯です!」
「あんたとあたしが黙ってればすむことでしょうが!」
「あんなバカ正直な人が、そんな嘘をつき通せるわけがないじゃないですか!」
「う、うそつき…。ついてこいって言ったじゃない! ついてきていいって言ったじゃない! 連れて行ってくれるって言ったじゃない! あんた、あたしを守りに来ただけなの。迎えに来てくれたんじゃないの!」
自分が何をしても、例え恭輔を許さなくても、恭輔が自分を見捨てることだけはないと信じていた。
「うそなんかついていません! 恋と戦争は自分で終わらせなくてはならないと。言葉通り、死が二人を分かつ『まで』と! 自分が息絶えた時この恋を終わらせると! あなたのような考えの人はこう言われれば不愉快でしょうが、つまりもう、二度とあなたを失いたくないんです!」
ふ、ふざけるな!
「あいつがいつあたしを失くした! 出会ってから一秒の例外もない。ずうっとあたしはあいつのものだ!」
エリカはすでに、平和主義者でも、命を守る者でも、医師ですらない、ただの女だった。
向こうの林の中から、喚声を上げて十人くらいが飛び出してきた。「あごひげ」の姿が見える。
たちまち恭輔の体を取り囲む。
「あ、あいつら…、何してるのよ!」
「あごひげ」たちが倒れている恭輔のズボンに手をかける。恭輔も手をベルトにかけて防ごうとするが、撃たれている上に多勢に無勢だ。「あごひげ」がズボンを無理矢理脱がせた。エルフの子どもが恭輔のズボンを持って彼らの周りを走り回る。オークの男たちがピューピューと口笛を吹いている。ゴブリンの女たちが甲高い声でゲラゲラ笑っているのが聞こえる。ズボンの下の下着まで無理矢理ぬがせた。オークの五、六人で胴上げのように仰向けの恭輔の体を空に突き上げ、下半身を露出させた姿を晒した。上半身が戦闘服のまま、靴を履いたままなのが余計惨めだ。あの黄色いシャツの子のエルフの母親がいる。どこかで見たような拳銃を腰に差している。恭輔の下着を汚そうに親指と人差し指でつまみながら、せいいっぱい腕を伸ばして自分の体から遠ざけ、もう一方の手で鼻をつまんで顔をそむけながら、ニヤニヤ笑っている…。