その6 柏木注意報
すーっ、はーっ
「よしっ」
深呼吸して自分に気合いを入れた。
私は放課後、柏木の家の前に来ていた。
「これは由綺の為」
もう一度自分の目的を確認して、ドアホンのボタンに手を伸ばす。
ピロリンピロリン
音が鳴って少しして、少し高い柔らかな女性の声がスピーカーから聞こえてきた。
「どちら様でしょうか?」
「あの、あたし、大沢と言います。同じ学校の同級生で、その…… 今日、柏木君がお休みという事でプリントを預かってきました」
「そうなの、ありがとうね。ちょっと待っててね。すぐ出ますから」
レンズに映る同じ学校の制服を着た私に警戒を解いてくれたのだろう、言葉から警戒感が消えた。
「はい」
本当はクラスも違うんだからプリントなんて預かっているはず無い、今、手に持っているのもダミーだ。
まずは、第一関門クリア。
ドアが開くと、見た目優しそうな女性が姿を現わした。
この人が柏木のお母さんか。若く見えるけどおいくつだろう? 第一印象はなんとなく由綺と気が合いそうな人に見える。よかったね由綺。
「いらっしゃい。わざわざどうもありがとうね。プリントを預かるわ」
「えーと、説明しないといけない所があるので、上がらせて頂いていいですか?」
さあ、第二関門だ。
そう言うと、お母さんは少し困ったような顔をして申し訳なさそうに話してくれた。
「あの…… うちの子、朝から熱を出してて今日は誰にも会いたくないって言ってるのよ。私がその説明を聞いたのでは駄目かしら?」
「すみません、ちょっと直接でないと説明しにくくて」
「そう、困ったわね…… ちょっと待っててね、聞いてきますから」
「はい」
そう言ってお母さんはまた家の中に姿を消し、私はしばらく待つ事に。
第二関門厳しいかな、と思いつつ待っていると、戻って来たお母さんに「貴女に風邪がうつるといけないから少しだけね」と言われて中に通して貰えた。
よかった、第二関門クリア…… いよいよ決戦だ。
家に入ると、お母さんが柏木の部屋を教えてくれた。柏木の部屋は二階の一番奥らしい。
お母さんにお礼を言って階段を上がって部屋の前まで進み、ドアをノックした。
コン、コン、コン
少し間が空いて、どうぞ。という声が中から聞こえた。
「よしっ」
気合いを入れ直して、ドアを開いて部屋の中に入る。
由綺より先に柏木の部屋に入るのは悪いな、と思いつつ、自分自身男の子の部屋に入るのは初めてで、親友の彼氏の部屋とはいえ少し緊張する。
部屋に入ると男の子の匂いがした。それが決して不快ではなくて、柏木っていい匂いするんだな……などと、ふと思って慌てて首を振り、その思いを振り払う。
何を考えてるんだ、あたしは。今はそれどころじゃ無い、肝心なのは由綺の事だ。
「大沢さん?」
いきなり目の前で首を振り始めたあたしに柏木が怪訝そうな顔をした。
「なんでもない」
その、柏木の声にしっかりと気持ちが戻ってきた。よし、落ち着いた。
「プリントは?」
「そんなの持ってない…… って言うか、わかってるんでしょ?」
「うん。由綺のことだよね」
わからないなんて言ったら殴ってやろうかと思ってたけど、流石にそれはなかったか。
「なんで逃げたの? 由綺、今日もすっごく泣きそうだったんだよ?」
「…………由綺に他に彼氏が居るって言われて、そんなこと無いって思いながら、それでも俺自身に自信が持てなくて…… 俺よりその大野って人の方が由綺には相応しいんじゃないかって、そう思ったらもうあの場所から逃げずに居られなかった。それで落ち着いてきたら今度は由綺に合わせる顔がなくて……」
「あんた、ばっかじゃないの!?」
「え?」
「由綺にとって誰が一番かなんて解らないの? 確かにあんたと大野さんなら大野さんの方が断然格好いいし、由綺にお似合いだって思うわよ。でも由綺はあんたをずっと想い続けて誰の告白も断って柏木!あんたを選んだんだ。そんなあんたが大野さんに負けるわけないじゃない!!由綺の積もり積もった純粋にあんたを想う気持ちを見くびってんじゃないわよ!!」
「大沢……さん……」
駄目だ感情が抑えられない……
「なんで由綺はあんたじゃないと駄目なのよ。おかしいわよ。誰が見たって大野さんよ。馬鹿よ由綺は!!」
涙が溢れてきた。
私は堪えきれなくて抑えられなくて、柏木の目の前で大声で泣いてやった。
しばらくそのまま泣き続けて、やっとそれが治まったとき柏木からお礼を言われた。
「ありがとう、大沢さん」
「お礼を言うなんて、馬鹿じゃない? あたしはあんたを散々馬鹿にしたのよ?」
「うん。でもありがとう。本気で怒ってくれて嬉しかった。お蔭で目が覚めた。もう大野って人には負けない…… いや、由綺のことで誰にも負けるつもりは無いよ」
「気付くのが遅いわよ」
「そうだね、由綺にも謝らないと」
「早く行ってあげて。きっと待ってる」
由綺もきっともう答えを出してる筈。その答えも聞くまでも無くわかってる。
「もう遅い時間だけど……」
「それでも待ってる」
「うん。大沢さんが言うなら間違いないね。わかった行ってくる」
「あんまり由綺を待たせるんじゃ無いよ?」
「わかった」
「………………………」
「………………………」
「早く行きなさいよ」
「………………………」
「………………………」
「あの……大沢さん?」
「なに?」
「着替えたいんだけど……」
「え? あ? ごっ、ごめん」
私は慌てて柏木の部屋から飛び出したのだった。
家を出て、玄関先で柏木と話す。
「それじゃ行ってくるよ、大沢さん」
「下の名前で呼んでいいよ」
「え?」
「柏木は由綺の一番だし。だからあたしとも付き合いの長い親友になるんだから由佳里でいいよ」
「えーと、大沢さんも――――」
「由佳里」
「あ、えーと…… 由佳里も由綺の一番だと思うんだけど」
「親友としての一番は勿論あたしだって思ってる。柏木は伴侶としての一番」
「はんっ………………」
そう言うと、柏木は絶句して、なんだか困ったような嬉しそうな複雑な顔をしてた。
反応が由綺とそっくりだ。この似たもの夫婦め。
「なによ」
「そうやって由綺の親友に言われるとなんだか照れるね。そうなれるように頑張るよ」
そう言って、にこっとはにかんだ笑顔で言われた。その顔になんだかどきっとする。なに? これ、反則じゃない?
「ありがとう。それじゃ行ってくる」
そこから一転、真面目な顔に戻った柏木の顔に更にどきっと…… ちょ、ちょっと待って、なし、これはなし。
「い、いってらっしゃい」
「じゃ」
そう言って走り去っていく柏木の背中を私はじーっと見つめてた。
おかしいな…… 柏木は親友の彼氏で、あたしには深月さんっていう格好いい彼氏が居るのに……
なんだろう、これ……
駄目だ。よくわからないけど、それに気付いてはいけない気がする。
そう思いながら、あたしは、ずっと見えなくなるまで柏木を見つめていた。