森の老人
ラグナに乗り、森の近くまで行くと、ラグナは歩を進めず、嫌がる素振りを見せた。
アレックスはラグナから降り、労わるようにラグナを見つめ、ラグナの鼻筋を撫でた。
「ラグナ…。怖いのか。」
ラグナは頷き、アレックスの黒いマントを咥えて、丸で行くなという様にアレックスを見つめた。
「大丈夫だよ。もし俺が戻って来なかったら、あの雑貨屋に戻るんだ。親父が俺が死んだと分かってくれたら、ミリイの所へ戻り、マリーの所へ行け。出来るな?」
不安そうにアレックスを見つめるラグナのたてがみを撫で、アレックスは森に入った。
森は確かに異様な雰囲気だった。
森というのは、木が鬱蒼と茂っているから、どこの森でも薄暗いものだが、この森は群を抜いて暗く湿って、別の要因で暗いのかと思うほど、重い空気が流れていた。
この森は、小さな国1つ分位はある。
この森に阻まれているお陰で、ワイバーンは軍勢を送ってこれないのかもしれない。
足元は泥濘んで、馬は走れないし、方々に木の根が飛び出して罠の様に張り巡らされている。
攻め入る道も、退路もここしかない。
攻め入るときはまだいいかもしれないが、撤退となったら、人も馬も走れない。
退路の確保は、どんな戦でも大前提だ。
ーここの木は人間を拒絶している…。
アレックスはそう感じた。
木が人間を拒否していなければ、これだけ木があるところだと、木の話が、なんとなく聞こえるのだが、ここは全く聞こえず、木という木から、見張られている様な気がした。
暫く探索していると、見た事も無い、紫色の美しい花が咲いているのを見つけた。
格別花好きというわけでも無いアレックスでさえ、目が離せなくなる程の美しい花だった。
花の大きさは、10センチほど。
花弁には露が付き、心地よく、全てを忘れさせるようないい香りがしていた。
マリアンヌの土産にと思い、少し近付いたアレックスは、異様な雰囲気に気付き、立ち止まった。
花の周りには、何も無いのだ。
他の場所には、木の根や湿った草が足に絡みつくほど生えているのに、その花の半径1メートルほどの地帯には、何も無く、木さえ無い。
アレックスはしゃがみこみ、その花の周りの地面を見つめた。
よく見ると、草が枯れて、干物のようになって落ちていた。
手に取ると、その草は灰になって、アレックスの手からこぼれ落ちて行った。
「この花の仕業か…」
アレックスが呟いた時、背後に人の気配を感じた。
素早く剣を抜きながら振り返ると、灰色の立派な羽根を持った老人が立っていた。
「竜国の騎士様がこんな所で何をしている。それはエミール様の剣では無いのか。」
「これは父上から貰った物。父上の剣は金色。俺のは銀色。父上の物とは色違いだ。」
アレックスは剣を下ろさずに答えた。
羽根があるから、アーヴァンクの人間で間違いは無いだろうが、アーヴァンクの人間が忌み嫌うこの森を彷徨いているというのは怪しい。
素性がわかるまで、信用は出来ない。
「竜国国王はエミール様と同じ金髪の癖っ毛のはずだ…。漆黒の真っ直ぐな髪という事は、変わり者の第二王子か。」
「そうだ。」
「なぜ、世界を統べない。あんたは、その力を持っているはずだろう。」
「色々な国がある。色々な考え方の人間がいる。色々な文化がある。それでいい。1つの国に統一する必要は無い。」
老人は笑い出した。
「惜しいな。あんたが竜国を継げば良かったのに。」
「竜国の国主は兄上だ。俺には務まらない。ところで、お前は誰だ。父上を知っているのか。」
「知っている。娘の命の恩人だ。
俺の娘は羽根を持たないアーヴァンク人だった。
村人は女房が他国の男と浮気したのではと疑った。
しかし、女房はそんな事はしていない。
女房は娘に羽根が生えなかった失意と身の潔白を証明する為に真冬の川に飛び込んで死んだ。
不吉の前兆と言われる羽根を持たぬ娘は、他国に流さなければ、村人に虐められ、生きていけない。
しかし、他国に流したところで、羽根を持たないアーヴァンク人など、奴隷になるしか無い。
困り果てて、娘を連れてこの森に入り込み、心中しようかと思い悩んでいる時、エミール様がワイバーンに殴り込みに行く途中、ここを通った。
俺の様子を見て、心配してくださったエミール様は話を聞くと言った。
羽根を持っていようが、いまいが、同じ人間じゃないか。
アーヴァンクでは羽根がなけりゃ半人前かもしれないが、他の国で、羽根を持っている人間など居ない。
なんで羽根が無い位で、全てを諦めねばならんのか。
そんな必要は無い。竜国に来てもいいし、ここでひっそり娘と暮らしてもいいじゃないか。
死ぬ必要など無いと諭して下さった。
俺は随分小さい事で大事な娘の命も自分の命も諦めようとしていたんだなと気がついた。
エミール様にくっついて、竜国へ行く事も考えたが、行っても、何のお役にも立てない。
それで娘とここに住む事にした。
そうなると、村の奴らがバカに思えて、帰りたくもなくなったしな。
そして、ここに住んでいる。
あんたの命は取らない。
エミール様のご子息とあっては。
逆にお困りなら、お助けしよう。」
アレックスは剣を鞘に収めた。
「有難う。ではお願いしよう。この森は何故人間を拒絶している。この花はなんだ。」
「流石エミール様のご子息だ。木の気持ちが分かるのか。この森は、人間の醜さを山ほど見てきた。
ここへ羽根を持たない我が子を連れて来て、殺す民の姿。
泣き叫ぶ我が子を捨てて行く親の姿。
ワイバーンの奴らが、アーヴァンク人を皆殺しにするんだと息巻いて、疫病で亡くなった自国民の死体を物の様に扱って、引きずってアーヴァンク国に入れる様。
さっきあなたが言った様に、この花は他の生物の命を吸って生きている。
こんなおぞましい花を生み出したのも人間だ。
それらを見てきて、人間は信用ならぬ生き物と思ったそうだ。
40年近くここで暮らして、やっと木が話してくれるようになり、そう聞いた。」
「あなたは木と話が出来るのか。」
「まあ、ここの暮らしは暇なんでな。自然と出来る様になった。だからこの花の事もある程度は知っている。」
「教えてくれ。」
「この花は、古代アーヴァンク王子、つまり、ワイバーンの初代国王となった、羽根を持たない王子が、城を着の身着のまま、丸で野たれ死ねといわんばかりの状態で追い出され、血の涙を流すまで、アーヴァンク国を、全て消えてしまえ、灰になってしまえと呪った時、王子の血の涙で咲いた花だそうだ。
その後、アーヴァンクで羽根を持たぬ者が続出し、皆、王子を頼って、ワイバーンに逃げた。
その時、1人の人間が、この花の美しさに魅せられ、花を摘んだ。
花は手折られた時に大量の胞子を出し、摘んだ者は全て吸い込んだ。
すると、この花同様、触れる者、息を吹きかける者、草木に家畜、全てのものを一瞬で灰に出来るようになってしまった。
ワイバーン国王となった羽根持たぬ王子は、その者にアーヴァンク国に行き、復讐をして来いと命じた。
その者はアーヴァンクへ戻り、今でも語るのもタブーとされている呪いの疫病を流行らせたと、木が言っていた。」
「この花は怨嗟の花というわけか…。こんな物まで生み出してしまうとは、人間の怨みの念というものは、恐ろしいものだな…」
驚く事ばかりだったが、謎も解けてきた。
謎の疫病はこの花が原因だったのだ。
そして、恐らく王妃が言ったレーベンの病気というのもこれだろう。
花が大好きだったレーベンが花を摘みに来たら、真っ先にこの花を摘むのではないか。
そして、古代の人間同様、謎の疫病の大元になったとしたら、国王夫妻が隠し立てする理由も分かるし、衛士の遺体を誰も見ていないのは、灰になって見えなかったからと納得できる。
それ以降、レーベンが花を要らないと言う様になったのも、枯れさせてしまうからだとしたらと考えていくと、全ての謎が解決される。
「レーベン王子がこの花を手折ってないか。」
「聞いてみよう。」
老人は深呼吸をすると、口中でブツブツと言い、木々と話し始めた。
「うん…。確かに身なりのいい男が、1人で森に入り、この花を手折ったそうだ。」
「やはりそうか…。ところで、あなたのお嬢さんは今どこに?」
「ー死んだ。この花には近づいてはならんときつく言ってあったのに、この花の美しさと芳香に魅入られてしまい…。」
「折角助けたのにか…」
「そうだな…。しかし、これも運命なのだろう。」
「ー亡くなったという事は、この花を手折ってしまうと、死ぬということか?」
「そうだ。花と同じになってしまうのだ。娘は徐々に衰弱し、1年後に息を引き取った。この花の様に、他の生物の命を吸っていれば、永遠に生き延びられると木々が教えてくれたのだが、娘は自分が悪いのだからと、それはしなかった。」
「立派なお嬢さんだ…。」
「有難う。」
「では、レーベン王子も危ないか、あるいは命を繋ぐ為に人を手にかけているかだな…。いずれにせよ、止めなければ…。」
老人はまた木々と話し始めた。
「レーベン王子が居なくなった夜、木々の上をワイバーンから見たことも無い空飛ぶ乗り物が北の塔に向かって行き、暫くしてまた戻って行ったそうだ。
そして、レーベン王子がこの花を手折った時、ワイバーン人と見られる男達数人が、この花を見ながら飲んでいたそうだ。
その男達は、レーベン王子が来ると隠れ、様子を見ていたが、レーベン王子が立ち去ると、直ぐにワイバーンに戻って行ったそうだ。」
「ーワイバーンはカラクリ国である、ヤクルス国を占領している。
空飛ぶ乗り物を作らせる事も可能かもしれない。
そして、レーベンが人間兵器になったのを知った…。
やはり、レーベンを攫ったのは、ワイバーンか。
だとすると、レーベンはもう人間兵器として、ワイバーンの手先になっているかもしれない。
国王達は、だから見つけたら殺せと言い出したのか…。」
「どうするね。アレキサンダー王の生まれ変わり。」
「やめてくれ。そんな記憶など無い。」
アレックスは苦笑すると、きっぱり言った。
「やはりワイバーンに乗り込むしかなさそうだ。」
「命知らずはエミール様譲りのようだが、あの頃と今じゃ、ワイバーンの規模も戦力も桁外れだろう。1人でどうする気だね。」
「賞金稼ぎは軍隊など持っていない。」
老人に笑われてしまった。
「世界の二代大国の竜国の第二王子が賞金稼ぎとはな。本当に変わり者の王子だ。」
アレックスも仕方なさそうに笑い、気配がした方を見ると、ラグナが歩きづらそうにこちらに向かって来ていた。
「ラグナ。もう大丈夫なのか。」
そういえば、さっきから、木々に監視されているような居心地の悪さは無く、暗さも普通の森になっており、重苦しさは無くなっていた。
「あなたの事は、いい人間だと、森も認めた様だ。」
「それは有り難い。」
アレックスは嬉しそうに笑うと、老人に礼を言った。
「お陰で謎が解けた。頼みついでにもう一つ。お嬢さんのお参りをさせて頂けないか。」
老人は喜んで、アレックスを娘の墓に連れて行った。
「羽根があろうが無かろうが、幸せに暮らせる世の中にしなければな…」
「どうしたらそうなる。アレキサンダー。」
「アレックスにしといてくれ。その名はまだ重い。俺はやはりレーベンだと思う。彼が素晴らしい君主になり、心から羽根のあるなしを考えなければ、国民もついてくるのではないのか。」
「だからあんたが、世界を統べりゃあいいんだよ。」
「ご老体、それとこれとは話が別だと思うが。」
「いや、別じゃないだろう。俺はこれでも、ここに入るまでは、政治学者をしてたんだ。アレキサンダー王の研究もしていた。あの人の時代は本当に良かった。」
アレックスは、突然立ち上がった。
「世話になった。ワイバーンに行くにせよ、一度装備を整えなければ。では失礼。」
そう早口に言うと、ラグナの手綱を引いて行ってしまった。
「全く、勿体無い。兄貴に何を義理立てしているんだろうな。」