前篇
あやかしというのもが何故生まれるのか、それを知っているものは誰もおりません。
たとえばそれは、どこからでも生まれ出でるものです。水からでも、木からでも、雪のひとひらからでも。そしてそれは、生き物からでも。
けれどもどうして生まれるのか。その答えを持ち合わせているものなんてどこにもいないのです。
ひとが、自身がどうして生まれるのかを知らないように。
その雪ん子は雪の一片から生まれてきました。冷たく凍える風の中、厚い雲からひらりひらりと舞い降ちた一片は、いったいどういうことなのか地に落ちる瞬間にひとつのあやかしになったのです。
生まれてから数年、艶やかな長い黒髪を持った可愛らしい雪ん子は冷たい山の中ではねまわって遊んでおりました。山の中はいつもふかふかとした白い雪が降り積もっていて、木々はすべて凍りついています。そんななかで雪だるまを作ったり、樹氷をぱきぱきと折って遊んだり、雪うさぎと追いかけっこをしたり、それはそれは楽しい日々でした。
しかし数年もたつと、雪ん子はそんな毎日にすっかり飽きてしまいました。その頃には白い着物からすらりと伸びた手足は「雪ん子」と呼べるものではなくなりつつありました。
美しい少女の姿に成長した雪ん子は山を下ってみることにしました。喉が渇くかのように猛烈に「ひと」に会いたくなったのです。雪ん子は知っておりました。それは生まれた時からの本能のようなものでした。
たぶん「気に入った人間」というものに会って、その精気を食らうのが「雪女」の運命というものなのです。
たぶん、気に入った人間を食らえば「雪女」になれるんだ。
雪ん子はそう思いながら北風を纏って跳ねるように山を下って行きました。
切り立った山々を越え、なだらかな稜線を描く山に入ったころで、雪ん子は「それ」に出会いました。
「それ」はひとつの大木に括り付けられておりました。太い荒縄は「それ」の胴を締め付け、そうして二本の手と一本の足を縛り付けております。
そろそろと近寄ってみると、それはどうやら人間のようでした。二の腕から背中までの線はがっちりと硬く、粗末な着物の下の身体も雪ん子のそれとはまったく違うようでした。
「これ、人間の男だ」
側に寄った雪ん子はわくわくと「それ」を眺めます。男は顔を俯けたままぴくりとも動きませんでした。ぼさぼさの髪の下の顔に血の気はなく、その両の目は硬く閉じておりました。
「死んでるのかな」
雪ん子は屈みこんで顔色の悪い男の顔を覗き込みました。ちっとも怖くはありませんでした。だって、男の両の手と足の一本は木に括り付けられていて動けないようだったからでした。もう一本の足は太もものところでちょんぎられて、はじめから「ありません」でした。
雪ん子は動かないその顔にふうと冷たい吐息をかけてみました。すると閉じられていた男のまぶたがぴくりと動きました。
「つめてえ……」
「あっ、生きてる」
紡がれたのはかさついた声でしたが、雪ん子はきゃっきゃと喜びました。
「なんだ、ようやく山神さまが来なさったのかよ……」
雪ん子の声を聞いて、男がぼそぼそとつぶやきました。雪ん子はぷうと頬を膨らませます。
「ヤマガミ? 違うよ、あたしは雪ん子だよ」
「……なんだって」
男がのろのろと顔を上げました。そうして瞳を目の前にある雪ん子に向けます。雪ん子はそれをまじまじとみて、首を傾げました。男の右目は雪霞のようにまっしろに濁っていて、残る半分の左目のはんぶんも灰色がかっていたのです。男はその左目のほうを細めつつ雪ん子を見て、そうして落胆した風に声を出しました。
「山神様じゃねえのか……雪ん子……? なんだ、まだちいせえ娘じゃねえか……」
「おまえ、そんな目でちゃんとあたしのことが見えるの?」
へんてこな目の色が不思議でそう問うと、男はあっさりと答えました。
「右は火にやられちまってもう見えねえよ。左はようやっと、といったところだな……それぐらい近くに寄ってくれたらなんとか見える」
雪ん子はふうんと頷きました。
はじめて出会った「人間の男」に、雪ん子は興味津々でした。年はそう若くは見えません。三十か、そこら。
「ねえねえ、おまえはここで何をしているの? どうして縄で括られてるの?」
無邪気な少女の声に、男はかすかに苦笑したふうに白く濁った瞳を細めます。そしてかすかすの声で答えてくれました。
「生贄になっているんだよ、山神様の。それでこっから逃げられないように括られてんだ」
「ヤマガミ?」
「俺の住んでいたタタラ場が山神様の怒りに触れてんだ。それで男の贄が必要になったのさ。山神様ってのは女なんだろう、だから俺が選ば……なったんだ」
「ええと、じゃああんたはヤマガミに食べられるの?」
「……ああ、そうなるだろうな。もっとも、俺みたいなちんけなものじゃあ山神様はお気に召さないかもしれねえが」
男は自嘲するようにかすかな笑みを浮かべました。雪ん子はそれをみながらううんと唸ります。ヤマガミのイケニエ。それでは雪ん子がこの男の精気をすするのはよくないかもしれません。
「……ちょっとでも、駄目かなあ」
「何がだ」
男が問うのに、雪ん子は無邪気に答えました。
「だから、あたしがあんたを食べるの。ちょっとだけでも駄目かなあ」
「……」
「あんまり痛くないと思うよ。ええとね、接吻するの。あのね、口からね、あたしが凍えた気をあんたのおなかに送り込んだら心の臓が凍り付いて止まるの。だからあんまり痛くないよ。それにね、全部の精気は食べないから、ちょっとだけ。ヤマガミの分は残しておくから」
男は黙ったまま雪ん子を見つめました。何故だか土気色の顔が、さきほどよりも強張ってみえました。
やがて男は答えました。
「……駄目だ。お前は山神様じゃねえんだから」
「えー」
雪ん子は頬を膨らませました。せったくの人間の男なのに、もったいないなあと思いながら。
「でもヤマガミって本当にいるのかな。よくわかんないけど、そんなすごいものがこのあたりに居る感じはしないんだけど」
「……いなけりゃあ困るな。俺は、そのために贄になったんだから」
男の困ったような声に、雪ん子は首を傾げます。なんだか不思議な人間だなあと思いました。そんなにも生贄になりたいのでしょうか。あやかしが、神様が、そして死ぬことが、怖くはないのでしょうか。
ふしぎふしぎ。
雪ん子は立ち去り難く感じて、男の側から離れたくなくなってきました。
「ねえねえ。じゃあね、ヤマガミが来るまで、側に居ていい?もっとお話ししたいよ」
男は再度沈黙しました。白と灰色の目を雪ん子に向け、さぐるように瞳を細めます。
雪ん子はわくわくとその瞳を見つめ返しました。
やがて男はふうっと息を吐きました。その顔にはどこかやさしげな苦笑が浮かべられていました。
「……ああいいよ。どうせ短い間だろうから、それでよけりゃあな」




