-CLIENT- 人工知能 1
現代/下北沢/継士
「ああ、うん――その日なら予定はないけど。分かった。じゃあ、そこで」
通話を終えた燠継士は、携帯に新着のメールが届いている事に気付いた。
メールの送信元は、地元の探偵会社だ。続けて表示された本文を眺め、そして深い溜め息を吐く。
収穫は依然として、なし――。ベッドに携帯を放り投げると、継士は養分を吸い取られて萎れた苗木のように、ソファに力なく倒れ込んだ。
彼は三年前に突如として蒸発した、かつての思い人を探していた。
事件に巻き込まれたか、或いは何か悩みでも抱えていたのだろうか?
確かに彼女には両親がおらず、どこか人生について達観している節もあった。
彼女がそんなつまらない事で自身の生活を投げ捨てて蒸発してしまうとは到底思えなかったが、事実、彼女は姿を消した――継士宛に送られた、『ごめん、行ってくる』とだけ書かれた一通のメールを残して。
彼女が消え、継士は自身を構成する部品、それも一部分ではなく大部分が根こそぎ抜け落ちたような気がした。
その後彼は、抜け殻となった自分が次第に学校で、そして家でも居場所を無くしていくのを第三者的な視点から俯瞰していた――特に興味のない朝のニュースを無我に眺めるかのように。
上京してからも彼を取り巻く状況は変わらなかった。両親とは連絡を一切取っていないし、大学では授業の関係から多少の人間関係を他の学生と築いてこそいたものの、砂場に作られたトンネルのように、気分次第でいつでも壊す事が出来た。
ぶつぶつと言葉にならない何かを呟きながら、継士は部屋の壁から死んだ蛇の様にぶら下がる懐中時計へと目を向けた。
木目調の洒落た懐中時計は、継士が生まれた時に両親が記念として購入した物だった。
上京当日、親に「持っていけ」と差し出された時、継士はその行為について、特に何も考えなかった。思えば自分と両親、ひいては地元との繋がりの一部であるこの時計が親の手から放棄された事が、既に彼らの中で自分の存在が過去の物、あるいは無かった物として処理されている――そう認識する為の根拠に繋がった。
継士にとってそれはどうでも良い事だった。連絡に加え、親からの仕送りもかれこれ一年程途絶えたままだったが、かえって彼らを思い出すきっかけが減り、結果として心のゆとりに幾分か、寄与しているという事実は否定出来ない。
地元との唯一の繋がりがこの探偵会社への依頼となる。
継士の父親と親しくしていたこの探偵会社の社長は、当時、直視出来ない程に取り乱していた継士を不憫に思ったのだろう、無償で彼女の捜索に手を貸してくれていた。しかし、三年間経った今でも一つとして進展がない事から、やがてはメールも形骸的なものと化し、そのまま疎遠になってゆくに違いない。
時刻は午前一〇時、あと一時間もすれば大学の授業が始まる事を鳩時計のさえずりが知らせてくれた。
二限の授業、応用経済学の準備は万全だった。基本的に経済学は需要曲線、供給曲線という二種類の曲線を覚えておくだけで様々な応用が聞くので学習はしやすい――だからそこまで深く勉強した事はない。
シャワーを浴びて髪を整え、着ていく服を選ぶまでを一〇分で済ませた継士は、部屋の扉を開けると、重い足を踏み出した。
時刻は夕方の七時を少し回った頃だろうか。
青山通りには仕事帰りの会社員か、男の方が少し裕福そうで女の方が多分に毳毳しいカップルの組み合わせがちらほら見受けられる。
無表情の継士と違い、会社員は皆疲れきった様な顔で、対照的にカップルは皆幸せそうな顔で通りを歩き、夜の街に彩りを加えていた。
大学を出て、通りを駅に向かって少し歩いた所にある喫茶店に、継士は入った。店内はそれほど込み合っておらず、継士と同じように帰り際に立ち寄って一人の時間を堪能する学生が何人かいる程度だ。
コーヒーをブラックで頼んだ継士は席に腰掛けると、六限の講義のノートを取り出した。そして蛍光ペンを取り出すと、一時間前に自分が書いた黒文字を黄色く塗り潰す。
ほぼ毎日、授業がある日は必ずこの習慣を欠かさないようにしていた。講義についていけないという事は、彼にとっては堪えられず、また奨学金を取っている以上、あってはならない事でもあった。
暫くは無心にノートに記載された自身の文字と格闘していたが、携帯が振動した事で、継士は現実へと引き戻された。
復習をはじめてからかれこれ一時間強が経過しており、店内の客層も学生から夜の空気を楽しむ大人へといつの間にか移っている。
周囲を意識してしまったせいで、人々の喧噪が一気に身体の中へと流れ込んできた。居心地の悪さを感じた継士は勉強道具を畳むと、早々に店を後にした。
携帯の電源を切っておけばよかったと後悔しながらも、既に断ち切れた流れを紡ぎ直す事もまた難しかった――溜め息を吐くと、駅に向けて帰路を歩く。
人の姿はまばらとなり、遠くの高層ビルの明かりは半分が消えていた。脇道には洒落たバーや居酒屋が光を燻らせ、帰路につく継士を帰らせまいと手招きしている。
ここで一杯というのも一興ではあったが、今日はそんな気分ではなかった。そういった渋い大人の遊びはまた別の日にしよう――そう考え、先程自分を現実へと連れ戻した張本人である携帯を取り出すと、メールの画面を開く。
受信箱には合計二通のメールが入っていた。一通はどこかのサーバから無作為に送信された出会い系のメール。そしてもう一通の送信者を見た瞬間、継士の頭は真っ白になり、金縛りにあったかのように身体が動かなくなった。
煌々と輝く液晶画面にはたった一文字、送信者の名前が表示されていた。
「……ありえない、そんな」
無意識に紡ぎだした言葉と共に、意識が戻った。足は止まり、人が流れ、闇が押し寄せる。
「どうして、今になって……」
驚きと嬉しさ、その二つを飲み込む位の闇が周囲の風景に溶け込み、アスファルトを伝い、身体に入り込もうとしていた。歪みに気付き、それらを振り払うと、継士は宮益坂を駆け下りた。
今にも叫びだしたい気分だった。しかし同じように坂を下る数人の通行人に対する羞恥心が、行為を寸前で押し止めて理性を維持するよう継士に語りかけている。
どうして、三年前に失踪したはずの彼女――何度メールを送っても返信が無かった――それが今になって、わざわざ連絡をよこして来たのか。
勝手に指が携帯のボタンを叩き、彼女に電話を掛ける。しかし今迄と同じく電話は通じない。何度掛けてもそれは同じだった。
坂を下り交差点で立ち止まると、電信柱に凭れ掛かる。
柱は通行車の排気ガスを多分に浴びて煤で汚れている筈だったが、そんな事を気に留める余裕はなかった。信号を待つ群衆のうち一部の目が自分に向けられているような気もしたが、それも最早どうでもいい事だった。
呼吸を整えると、携帯を再び開く。送信者の名前を見て口から心臓が飛び出そうになるのを堪えながら、メールの本文を確認する。
そこには何も書かれていなかった。曇りの無い白色の光が輝くのみで、一文たりとも文字は見当たらない。
やはり何かの間違いなのだろうか――そう思った刹那、そのメールの末尾に添付ファイルが含まれている事に気付いた。震える指で圧縮された添付ファイルを展開すると、中身を覗く。
「……何だ、これは」
添付ファイルは画像データであり、そこにメッセージが書かれている――そんな事を期待していたが思惑はあっさりと裏切られ、代わりに現れたのはよく分からない、見た事もないような形式――拡張子のないファイルだった。
クリックし、ファイルを開こうとした継士は待て、と心の中で呟いた。もしもこのメールが彼女を語る他の人間からの、悪意あるメールだったとしたら。それこそ、毎日大量に来るスパムメールの業者よりもたちの悪い奴らによる、犯罪を前提としたものだったとしたら。
だが結局、継士は誘惑に負けてしまった。ファイルを実行すると速やかに地図のアプリが開き、数秒に渡る待機動作の後、ある一点の場所を指し示す。
ここから徒歩で十数分はかかるだろうか――墓地の隣に位置する小さな都立公園に目的地を示すピンが刺さり、彼の現在地からの道筋が青い点線で示されていた。
大学近辺は青山通り沿いしか歩いた事がなく、もちろん大学から多少離れたその公園には足を運んだ事もない。
しかし、継士の足は自然のうちに液晶ディスプレイ上の点線を辿り、目的地へと継士を案内しようとし、その歩幅は次第に大きく、かつ早足となっていった。
下から駆け上がった為、先程宮益坂で追い抜かした会社員の群れと再びすれ違った。数人に怪訝そうな顔で振り向かれるが、継士は構わずに携帯を片手に翳しながら地図上の点線を辿る。
時刻は午後八時を少し回った所だった。初夏のからっとした、それでいて夜の冷気を浴びた風が建物の間を吹き抜け、それが合図となったかのように店からは酒気を帯び、すっかり頬を赤らめた人間の群れが通りへと躍り出た。
眠らない街。昼の渋谷が若者の街だとすれば、夜の渋谷は大人の街だ。一秒たりともこの街が休む事は無く、昼夜問わず何らかの役割を持った人々がこの街に息衝き、金を落とし、去ってゆく。
学生時代、宮益坂を登ったところにあるスタバを昼夜問わずよく利用してました。今はビルの取り壊しに伴い閉店してしまいましたが……。