糸紡ぎ
白を基調とした壁。
そこに貼られた、病気の予防を呼びかけるポスター。
孝志郎はそれを正面に、待合室備え付けのビニール張りの椅子にもたれかかりながらため息をひとつ。
『病院なんて行かなくたってすぐ治るってのになんだって……』
『そりゃしかたないだろ? ケガして倒れてる現場が見つかっちまったワケだしな』
声には出さずにおいたぼやき。それにヨナキの思念が被せられる。
『分かってるよ。だから怪しまれないように治癒力を抑えてるんだろ』
孝志郎はそれに、うんざりとした調子で相棒へ思念を返す。
先日。結界からの脱出に成功すると同時に倒れた孝志郎は、治療のために病院へと運ばれた。
孝志郎が目を覚ました時には、すでに病院のベッドの上であり、母をはじめとした大人たちに囲まれている状態であった。
そうしてケガは手当てしてもらったものの、キズそのものは強い契約者ならばしばらく休めば治る程度のものであった。
そのため孝志郎としては病院通いなど、ただわずらわしいだけのものでしかなかった。
しかし無駄に疑惑の目を集めるのもよろしくないとして、わざわざ自然治癒力の強化を打ち消し続けているのである。
もっとも、目を覚ましたらまたあの奇妙な結界世界の内で、再度脱出を試みなくてはならない状況に置かれるよりは、はるかにマシなのではあるが。
『まあ……面倒なだけでまだ悪くない状況には違いないからな』
比較的マシな状況にあることを振り返りながら、孝志郎はぶつけどころのない感情を息にしてはき出す。
「お待たせ。お会計済んだわよ」
そこへ治療費の支払いを済ませた母の実里が声をかける。
「うん。了解」
孝志郎は実里へうなづき、腰を上げる。そして出口へ足を向けた母に続いて歩き出す。
「おだいじに」
出入口近くに控えた看護師。浅く頭を下げての礼に、日野母子は会釈を返しながらすれ違う。
「傷の具合はどうなの?」
「骨が折れてるワケでもなし、もう後は湿布薬の交換だけでいいんだってさ」
実里が先立ってガラスの自動ドアを抜けながら、息子の治療具合を尋ねる。
それに孝志郎は医者の見立てを正直に伝える。すると実里は、胸に手を当てながら息をつく。
「治りが早くてよかったわ。ね?」
「うん。長引かなくて助かったよ」
回復効果を抑えてごまかす期間が短くて助かるのは間違いないので、孝志郎は素直にうなづく。
「おかげで裕香ちゃんとのデートに包帯付きにならずにすみそうだものね」
「ちょ、母さんッ!?」
微笑みながらの実里の一言に、孝志郎は弾かれたように母を見る。
照れから瞬く間に赤く染まった孝志郎の顔。
そんな息子に、実里は口元を隠した手から笑みをこぼす。
「もう、からかわないでくれよッ!」
忍び笑いする母から面白がられていることを察した孝志郎は、照れ臭さから目的の白い軽自動車へ足を急がせる。
「からかってなんてないわよぉ。楽しんでるだけ」
「おんなじだろ!?」
くすくす笑い続ける実里へ、孝志郎は歯を剥き突っ込み振り返る。
しかし当の実里は息子の怒り顔が本気のモノではないと知ってか、まるで気にした様子もない。
そして実里が笑みのままキーのスイッチでドアロックを解除すれば、孝志郎はつかつかと助手席側に回って乗り込む。
どっか、とシートに尻を預けて。しかしドアを閉める手には過剰な力が込められてはおらず、ムスリと腕組みそっぽを向いているのもただのポーズに過ぎないと見て取れる。
こうして露骨に怒っている風に見せるのは、ひとえに母への、身内への甘えゆえのものである。
「ふふふ。やりすぎたかしら? ごめんね」
「……まったくもう」
だから実里の方から謝ればその時点で終了である。
お互いが本気で叱る時や抗議する時ではこうはいかない。
ともあれ、持ち主を迎えた車は、キーを受けてエンジンを始動。
足を固定するブレーキを解き放たれて、ゆるゆると動きだす。
そうして動き出した白い車は、駐車場を出ていく。
実里が好んで聞く男性歌手の歌声が流れる中、孝志郎は家へと向かう道筋を窓の外に眺める。
「そういえば何年か前に、裕香ちゃんも一時ずいぶんと服が汚れたり破れたりしてたわよね」
「あ、ああ……そう、だね。そうだった」
ふと浮かんだ昔話を口にする母に、孝志郎は窓へ向けた顔を強張らせながら、ぎこちなくうなづく。
「同じ年頃になったからって、いきなりマネしても無理よ?」
「知ってるよ。てゆーかあの動きのキレとジャンプの高さは半端な訓練じゃとどかないよ」
心配そうに言う実里に、孝志郎は苦笑い気味に返事を。
幼いころから受け身などの基礎を積み上げ作り上げた思い人の身体能力を、付け焼刃だけで真似しようなどとできるはずもない。
そもそも孝志郎にとしては、契約者として身体能力を強化しているからこそ、どうにかついていくことができるとさえ思っているのである。
中途半端な鍛え方で真似しようなどと考えるだけ思い上がり、失礼に当たるというものだ。
強化無しの素の能力では納得のいくものになるはずもない。だから惨めな真似事などするつもりもない。
「それにさ、俺が裕ねえと同じ道をいくのは違うって気がしてるからさ」
「そう……」
未来像を見据えた孝志郎の言葉。それに実里は隣の息子を一瞥して微笑む。
そうしていると、何年か前に特撮ヒーローの主題歌となった曲のイントロが流れ出す。
「お?」
それに釣られて孝志郎はカーオーディオのパネルへ目をやる。
瞬間。視界の隅に映った影に、孝志郎はその目を見開く。
驚きに大きく開いた目で、見つけた異常を追いかける。
コンビニの屋根。そこには見覚えのある八脚の巨体が。
車の速さにすぐに建物の陰へと紛れたその異形。 それは間違いなく、あの結界世界で孝志郎をなぶった化けクモであった。
「どうかしたの?」
「いや……なんでも?」
顔に疑問符を帯びた母に、孝志郎は頭を振ってごまかす。
『ヨナキ、ヨナキ! この前俺たちを捕まえた奴だ。なんとか出来ないかッ!?』
指輪を介して契約した鵺へ思念を送る。
『なんとかってどうしろってんだ!? ワシらだけで引きつけろってのか!?』
孝志郎のあいまいであやふやな救援要請。それにヨナキはぶつけるような思念を叩きつける。
そんな頭を直に揺らす荒々しい思念に、孝志郎は頭痛を堪えるように顔をしかめる。
『どうしろって……あれだ! ヨナキの分身にセンミンの砂分身を足して囮にするんだ!』
『……なぁるほど。それくらいなら何とかなるか! 任せろ、やるぞセンミンッ!』
『んあぁー……? 眠いんだなぁあ……』
『ああッ!? ざっけんなオイコラァ!?』
『ヒヒャハァアアアアッ! なら俺様がいくぜぇえッ!』
『……どぉーぞぉ……』
『アホかッ!? いいからワシの分身に砂混ぜろ! 煙も入れて構わんから!』
頭の中で繰り広げられる賑やかな幻想種の打ち合わせ。
思念を挿む間もないそれに孝志郎が閉口していると、右手中指にはまった契約の指輪から小さな光の塊が飛び出す。
二つ、三つと飛び出したそれを目で追いながら、孝志郎は窓をスイッチひとつでスライドダウン。
その小さく開いたすき間をくぐって、指輪から出た光が飛び出していく。
敵の影が見えた方向へ、砂粒散らして飛んでいく光。
『うまくヤツの注意を引くように誘導できないか?』
それを見送りながら、孝志郎は心の内で呟く。
敵に追いつかれるより先に家について、母と分散。そして変身までできさえすれば言うことは無い。
とにもかくにも、実里を巻き込まずに済めたのならまず初手のところは勝ちなのだ。
そんな願望を込めての呟き。
『いや。もう一度出したら独立しちまうし、そこまで自在に操ったりはできないからな』
しかしヨナキは、できることとできないことがあると否定の思念で応える。
『そうだったよな……』
ヨナキの細かい指示を受けつけずに飛び去り消える光。孝志郎はそれを見送りながら囮作戦の成功を祈る気持ちを強める。
『まあじきに孝志郎そっくりの砂人形にできあがるし、今のところはちゃんとあの気配の方向に向かってる。大丈夫だ』
『それに潰されても俺様の入れた煙が目をふさぐしな!』
そんな孝志郎の頭にヨナキとバンジョウの声が響く。
『そんなに心配ってんなら、適当な水場を通って俺も直に出るか?』
『……出るんならいってらっしゃいなんだなぁ……』
『おぉい! もっとテンション上げて行こうぜセンミン!?』
賑やかな仲間たちの思念に、心配とは別の方向で眉根を寄せる。
「どうかしたの? 気持ち悪い?」
「いや、平気平気。大丈夫だって」
実里はそうして小さく唸る息子を、心配してちらりと様子をうかがう。
孝志郎はそんな母に手をひらひらとさせて誤魔化す。
『孝志郎、分身がひとつ潰された! ヤツが動いたぞッ!?』
そうこうしている内に、孝志郎の頭に相方からの報告が響く。
その警鐘に孝志郎は窓の外を視線を走らせて車の外の様子を確かめる。
すれ違う車たち。
並び立つ民家。
しかし探しても目に入るのは、流れていくなんの変哲もない町の風景だけ。
『まただ! また潰された! だが近付いてはきてないぞ』
そこで再びヨナキからの報告が。
しかし囮が破壊されたという内容ではあるが、距離が離れていっているという安心できる話も添えられている。
『なら囮の追加を。頼む!』
『おう! 任せろ』
『えー……もう眠いんだなぁ……』
『もっと頑張れよ!? 孝志郎が危ないだろうがッ!?』
孝志郎からの囮追加の依頼。それにやはり眠たげなセンミンを中心に、ヨナキとエッジのツッコミの思念が孝志郎の脳内を右往左往。
『もぅ……分かったんだなぁ』
そのツッコミにセンミンがうるさげに不承不承と了解。砂を帯びた光の粒の第二陣が放たれる。
『いま三つ目がやられた! もっと追加するか!?』
そこでヨナキから三つ目の囮が破損したとの報告が上がる。
『ああ、頼むよ』
が、囮を追加しようと言うヨナキに孝志郎が返事をした瞬間、窓から出た光の球が弾けて割れる。
「え!?」
それに孝志郎が思わず声を上げた瞬間、車を突き上げるような衝撃が襲う。
「ひいぁあッ!?」
衝撃に運転席の実里が悲鳴を。直後、車の周囲に暗闇が張りつくように覆い尽くす。
そして衝撃が再び。
もう一度尻を蹴り上げてきたそれは、二人の身にシートベルトを食い込ませる。
そうして食い込むほどに固くシートに固定されたまま、二人は車をかき混ぜる衝撃に小刻みに揺さぶられる。
「あがが……舌噛んら……」
しかしそれも一瞬のこと。強烈な衝撃が駆け抜けたあとで孝志郎は目もとに涙を滲ませつつもつぶやく。
幸いにもとっさのサイドブレーキが間にあってか、車はエンジンを唸らせながらもその場に留まっている。
停止した車の中、孝志郎はベルトの上から体をさすり、舌の他にダメージを負った場所をいたわる。
だがシートベルトがなければ間違いなく、天井やガラスに体を叩きつけられて、舌の痛みにぼやく余裕もなかっただろう。
孝志郎はそんなもしもを想像してか、左鎖骨から肋骨にかけて撫でさすって深く息をはく。
「母はんは? 平気?」
そして痛みでぎこちない舌で尋ねながら、隣の実里へ目をやる。
するとそこには、うなだれてなんの反応もしない母の姿が。
「母さんッ!?」
話を振っても無反応。そんな実里に孝志郎は青くなって手を伸ばす。
シートベルトに支えられた実里を、背もたれに当てるようにして助け起こす。
すると実里は苦しげに眉を歪めた寝顔で小さくうめく。
気を失っている。が、ケガらしいところはみえず、呼吸もきちんとしている。
孝志郎はそうして母の息があることを確かめて、冷や汗をぬぐう。
ひとまずは安心できたことでその顔から引いていた血の気も満ちて、揺れていた目も落ち着きを取り戻す。
そうして定まった褐色の目が車の外を見回す。
するとまず目に入るのは朽ち果てた壁。
前も横も、後ろまで見回してみても、距離の多少はあるが、どこも光の射し入る隙間だらけの木壁がある。
おそらくは天井も同じ具合なのだろう。壁との間に張られたボロ床にも、降り注いだ光が点々と白く。
どうやって飛ばされたのかはともかく、いま孝志郎たちはただっぴろい木造廃屋の中へ、車ごと放り込まれた形になっている。
飛ばされたといえば、あの衝撃でよくも車体が床を抜かなかったものだ。
そんな感想を抱くほどに、目に見える壁も床も朽ちている。むしろ建物ごと崩れなかったのが不思議なほどである。
またそんな奇妙にも崩れないあばら屋の、あちらこちらに射し入ってくる光。それはおそらく月明かりなのだろう。
大量のすき間から入ってくる量は多く、夜にしては明るい。だが熱を含んではいない。
孝志郎はそれに、あの時上からこちらを覗いていた月の目を連想し、顔をひときわ強く引き締める。
「結局捕まっちまったってことか……ちっくしょう」
そして緊張感を帯びた顔を一瞬苦々しげに歪めると、車を降りる。
冷や冷やとした月明かりと共に、風が音を立てて吹き入る。
笛の様な音色を帯びてぶつかってくる夜風。
孝志郎はそれを仁王立ちに浴びながら、右手を拳に固めてその中指を飾る契約の指輪を弾く。
金色の雷光を漲らせた契約の法具は、その猿の頭を模した部位を巨大化。互いに近付いた孝志郎の頭にかぶりつく。
そこから雷雲が孝志郎の全身を覆い隠す。すると一拍の間を置いて雷鳴が轟き、黒雲が弾ける。
雷雲を纏う逞しい鵺の忍、幻雷迅。
逞しい特撮ヒーロー然としたその姿は、気を失った実里の乗った車から少しずつ距離を取っていく。
母の乗る車が戦いに巻き込まれないように。また実里を直接狙った場合でもすぐに対応できるように。そうした目的に適した距離に位置取りをしようと幻雷迅はゆっくりと足を進めていく。
ギシ、ギシ、とボロ板の床を軋ませながらの歩み。
だが幻雷迅は不意にその足を制止。そこから音を置き去りにして跳び退く。
稲光の如き幻雷迅の動き。
まさにその名の如く、とでも言うべき速さで駆け抜ける忍。
直後、幻雷迅がいた場所を細い線が走る。
「やっぱかッ!」
煌めく糸の軌跡。
弧を描いたそれを視界の端に捕らえて、幻雷迅は仮面の奥で歯噛みする。
そして駆け出した勢いをそのままに腕を一閃。手のひらに形成した雷光の手裏剣を投げる。
闇を切り裂き駆け上る雷手裏剣。
襲ってきた糸の出所を目掛けて走ったそれは、しかし暗がりの深みに届くよりも早く弾けて散る。
散り消えゆく雷光に照らされ浮かぶ半人半蜘蛛の人形の像。
陶器に似た質感の表皮を持つそれは、天井の穴の少ない箇所で逆さに張り付いている。
大きく膨らんだ蜘蛛の腹から糸車を突き出させた異形の人形。それが手繰り振るった糸に、雷手裏剣が散らされ防がれたのだ。
「このッ!」
暗がりに沈みながら、重ねて腕を振るい攻勢にでるアラクネ人形。対する幻雷迅は忌々しげに声をあげつつバックステップ。同時に両腕を交互に雷手裏剣を投擲。
糸が空を切って床板を叩き、また屋根を打った手裏剣が弾けて音と光を広げる。
『孝志郎! 左だ!』
「おおッ!」
額当てに収まったヨナキがナビ。それに応じて、幻雷迅は警告通りに襲ってくる糸をきりもみ回転に飛び越える。
逆時計の旋風を描く跳躍に乗せて反撃の手裏剣。
しかしそれもまた、網状に編まれた糸を焼き焦がすだけに終わる。
だが幻雷迅は防がれるのも織り込み済みとばかりに、着地しながら回転の勢いはそのままに右腕をアッパースイング。
その勢いに乗って、円盤状に固まった雷光が屋根へ飛翔する。
先に戦ったことで、アラクネ人形は月に見せかけた本体に操られた文字どおりの人形に過ぎないというネタは割れている。
つまり明後日の方向に向けてと見える手裏剣は、前回と同じく月が本体であろうと見こんでのものだ。
そうして放たれた手裏剣はその目論見通り、先に開けた屋根の大穴を、さらにその奥に輝く月を狙って空を駆け上る。
だが敵もやすやすとそれを許すほど間抜けでは無い。
穴を抜けようとした雷光はその直前ですでに張られていた網と接触。アラクネ人形を守った網と同じく焼けて手裏剣と共に消える。
『くそがッ! やってくれるじゃねえかッ!』
ヨナキが毒づく一方、本体へのさらなる攻撃を妨害しようと化け蜘蛛人形はさらなる糸の刃を繰り出す。
その攻撃に幻雷迅は掴んだ手裏剣をそのままにステップ回避。
そうしてジグザグに糸をかわしながら、投げ損ねた手裏剣を投擲する。
攻撃に使う糸を防御にも回させて妨害。手数を削る形で牽制する。
しかしそれは敵からしても同じこと。
天井方向へ攻撃を仕掛けようとすれば、決まって鋭い糸が捕らえようと伸びてくる。
「このッ! しつこいッ!」
繰り返される妨害に舌打ちまじりに跳びはねながら、幻雷迅は手裏剣の投擲を続ける。
しかし投げた手裏剣も弾かれかわされて、決定的な隙を生みだすことが出来ない。
『このままじゃ埒が明かんぞ! 仕掛けるしかないッ!』
「分かってる!」
長々と続く牽制の応酬。それに焦れたヨナキの叫びに、幻雷迅は強烈な踏み込みで応じる。
雷光一閃。
その踏み込みの軌跡は、稲光となって床に刻まれる。
鋭い光と焦げ跡を残し、瞬く間にアラクネ人形の懐へ潜り込む幻雷迅。
その速さに、アラクネ人形も慌てた様子で腕で鵺忍を挟むように振るう。
「おぉおッ!!」
だが幻雷迅は両腕を広げるように振り上げ、両サイドからの固い爪を弾き飛ばす。
そして振り上げた腕をすぐさま振り下ろし、つるりとした球体状の頭を支える首元に叩きつける。
直撃したダブルチョップはやすやすと陶器めいた硬質のボディを砕き、音を立てて割り入る。
砕けゆく体に首振り悶え、手と無数の足を振り回す。
そのために振るわれる爪と糸が幻雷迅の身を叩き、引き裂く。
しかし勢いが乗りきらず、完全な威力でないそれを幻雷迅は完全に無視。手刀でねじ込んだ腕をひねり、傷を広げにかかる。
『!? まずい! 車がッ!?』
だがそこで額当てのヨナキが叫ぶ。
その警鐘の声に幻雷迅が振り向けば、荒れ狂う糸が実里の乗る車の周囲を叩き、切り裂いている。
「バンジョォオオオオオッ!!」
『オウイエェエエエエアアッ!!』
声を張り上げ仲間を呼ぶ幻雷迅。それに応じる威勢の良い叫びと共に、忍の体は炎の様な赤に輝く。
額当てをムカデの顔に変えて、いくつもの節を持つ足鎧を装着。
バンジョウの力を纏った形態への二段変身。
火遁を得意とする姿へと変わった幻雷迅は、叩き込んだ腕を引き抜きその場に正座。高熱の黒煙を巻き上げて滑走する。
脛鎧に備わった無数の足による高速移動。
車への直撃コースを描く斬糸を追い越し割り入る、盾となる。
「ぐッ!?」
盾とかざした左腕の装甲を裂いて、巻きつき食い込む糸の刃。
しかし幻雷迅はその痛みに、仮面の奥で歯を食いしばり堪える。
『孝志郎、放すなよぉおッ!!』
「おぉお!」
手のひらにまで回った糸を握り締めて、幻雷迅は続いて襲ってくる糸をも振り回した左手に絡めとっていく。
そうしてより集めた糸はやがて縄ほどの太さに。
幻雷迅が左腕に絡みついたそれを引くと、その先に繋がったアラクネ人形がびくりと震える。
多数の足を踏ん張り、綱引きに抵抗する化け蜘蛛の人形。
だが幻雷迅は抵抗を受けるや否や、膝を折って再びその場に正座。高速滑走を再開する。
化け蜘蛛を中心として回るように、煙を尾と引いて滑走する幻雷迅。
それを追うようにアラクネ人形は糸を投げて罠や攻撃を仕掛けてくる。
だが幻雷迅は正座の姿勢のまま跳び、上体を反らして寝て攻撃のことごとくをかわしていく。
さらに濃い煙を円の中央にいる化け蜘蛛の人形へ集め、目くらましの幕を作る。
そうして熱い煙に巻きながら、幻雷迅は周回を繰り返して糸を逆にアラクネ人形へと巻きつけていく。
糸を操る蜘蛛人形を逆に縛り付けて動きを封じる。そして足が絡んでバランスを崩したところを一際強く引いて宙へ。
ぐるぐる巻きになった挙句、一本釣りに釣り上がったアラクネ人形。
「そぉおりゃぁああああッ!!」
そんな宙を舞う糸塊を見上げながら幻雷迅は弧を描くようにしてブレーキ。体を反りながら飛び上がる。
空中で身動きの取れない化け蜘蛛の人形。そこへ脛から全身を叩きつけて衝突。
同時に衝突面から熱煙を噴射。合わせて脛鎧に備わった無数の足全てを駆使して蹴りを打ちこむ。
『ヒイィヤッハァアアアアアアッ!!』
「猛煙烈命ッ! 清め……」
小足の蹴りにひとつひとつに火花が弾け、合わせてバンジョウが声を張り上げる。それに幻雷迅が止めと、浄化の言霊を告げるもそれは半ばで遮られる。
がんじがらめのアラクネ人形。その蜘蛛の腹から飛び出した糸車が人形から分離。ボロ屋根を突き破って夜空へと躍り出る。
瞬間、自身のパーツに見捨てられた人形の体は、亀裂を広げて崩壊する。
幻雷迅は砕け散った人形の残骸を突き破り、着地。
そして床がかすかにきしむのも終わらぬ間に、辺りの景色が歪み、崩れだす。
夜風吹き込むあばら屋は、幻であったかのように消えて。幻雷迅は元の住宅街に立ち尽くしている。
『追うか?』
そして元の猿の顔に戻った額当てが追跡を提案する。
確かに今ならまだ、部品を抱えて逃げた本体に追いつけるかもしれない。
多少無理をしてでも追いつめて、決着をつけられるなら追いかける価値はあるだろう。
「いや、いい」
だが幻雷迅は首を横に振って、ある方向を見る。
そこには路肩に寄せて止まっている母の車が。
気を失っているだけのようだったが、今は実里の方が気がかりであった。
目を覚ました時に息子がいなくなっていたら混乱もするだろう。
『いいのか?』
「ああ」
決着の好機を逃してもかまわないのかとの念押しに、幻雷迅は繰り返しうなづく。
確かに幻雷迅にとっても、この機を逃すのは正直惜しい。
しかし、今さら決定をひっくり返したところで追いつけるほど、敵も甘くはないだろう。
だから幻雷迅はこの場では追わないと決めたことを覆しはしない。
「今はいい。今はな……」
その意思を強調するように呟いて、幻雷迅は実里の車へと迷いの無い一歩を踏み出す。