破邪轟嵐
「ああやっと終わったぁ……父さんも母さんも説教が長いったらないぜぇ」
後ろ手にドアを閉めた孝志郎は、気だるげに肩を回して首を左右に鳴らす。
『よお、お疲れさん』
そんな孝志郎を迎えるのんきな声。それは窓際のベッドの上に丸まった黒雲、ヨナキからのものであった。
「……ったく、説教食らった原因の一部のクセしてくつろいでくれてよ」
そんなのんびりとした鵺の幻想種に唇を尖らせながら、孝志郎は大股に部屋を横切ってヨナキの隣に尻から飛び込む。
『うわお!?』
そのために生まれたバネの波。それにあおられてヨナキの体が浮き、転がる。
『ううむ、なんとも不可思議な寝具。このヨナキが封じられる前にこんなものはあったか?』
ヨナキは胴を包む黒雲から虎の足を出して、興味津々といった風に、マットレスを覆う布団をこねる。
「封印されたって、なにやらかしたんだよ?」
そんな契約相手を見下ろしながら、孝志郎はため息混じりの苦笑と共に質問を投げかける。
『いやな、ちょいとばかし人間を化かしとったら、ちょうどお前ぐらいの年頃の娘にボコボコにされてしもうてな? そのまま動くに動けんくなって……』
そう語る内に、ヨナキのサル顔はみるみる内に青ざめていく。
『そう、まさかあんな、頼政、頼光クラスの女子が……いや、あの娘はホントに人間だったのか?』
青ざめたサル頭を馬のそれに変えて、黒雲から出ていた虎の四肢共々に震わせる。
「ああはいはい、トラウマな。分かった分かった」
恐ろしい記憶に身震いする本性不詳の相方に、孝志郎はもう充分と声をかける。
そこで不意に孝志郎のポケットから呼び出し音が鳴り響く。
「もしもし、裕ねえ?」
呼び出しメロディから、それを設定した相手を察した孝志郎の動きは素早い。早撃ちガンマンさながらに、ポケットから抜いた携帯を通話モードにして顔の側面に当てる。
《もしもし孝くん? 実里さんから今日は異様に帰りが遅かったって聞いたけど、大丈夫?》
電話の向こうからの恋しく、愛しい女の声。心配そうな、焦り調子のそれに、孝志郎の頬は笑みに和らぐ。
「ああ、平気だよ。別にケガしたワケじゃないし……」
そこまで言って孝志郎は傍らのヨナキを一瞥。こちらを不思議そうに見上げるサル顔を見返してうなずくと、改めて電話向こうの裕香へ意識を戻す。
「ただ、幻想種と契約して戦いはしたけどさ」
《ええ!? け、契約ッ!? だ、大丈夫なのッ?》
真相を話すや否や返ってくる心配の声。自分を思ってのそれをくすぐったく感じながら、孝志郎は言葉を続ける。
「うん。裕ねえとルクスみたいな対等なヤツだし。はぐれモノ同士の戦いに巻き込まれたら、大丈夫でいるには仕方ないじゃん?」
《そう……》
明るい声音での事情説明に裕香は納得はしてくれた。だが電話越しにもひしひしと伝わる心配の抜けきっていない気配に、孝志郎は笑みを深める。
「大丈夫だって、いくら俺でも五年前とおんなじマネはしないから、信用してよ」
《いやその、孝くんの事を信用してないとかじゃなくてね? ほら、私も経験者だから分かるけど、どうしたって危ないじゃない? そこが、心配で……》
孝志郎の軽口に、裕香は慌てて言葉の不足を繕う。
「ゴメン裕ねえ、分かってるから」
そんな普段の落ち着きを放り出した年上の恋人に、孝志郎は小さく息を吐いて詫びの言葉を送った。
「それと、ありがとう。疲れてるだろうに心配してわざわざ電話まで」
そして立て続けに、心配しての電話に礼を言う。
母の実里が大げさに連絡をしたせいだろうが、故郷を離れてスーツアクトレスとして働いている裕香が、疲れを押して連絡してくれた事が、孝志郎は嬉しかった。
《ううん。私が心配だったから。本当はそっちに飛んでいきたいくらいだったんだからね?》
だが裕香は声に疲れを匂わせず、むしろ気のほぐれた調子で言葉を返してくる。
《それにしても……私、五年前にこんな心配をお父さんやお母さんにかけてたのね。実感すると今さら申し訳なくなってくるよ。孝くんも、難しいだろうけどあんまり孝太さんと実里さんに心配かけないように、ね?》
「いや、それは俺も五年前に通った道だからさ」
《うぅ、そうでした》
年上らしく忠告する裕香。それに孝志郎が軽くカウンターを返して、二人は気安いやり取りに揃って笑い合う。
「ところで、裕ねえの方はどうなの? スタントでケガとかしてない?」
《それはもう、いくら気を付けて受けたり倒れたりしても、アザなんてしょっちゅうだよ? 不思議なくらいに治りは早いけどね。それに取れる仕事も、すごい先輩がたくさんいるから、私が取れるのはまだまだ画面端レベルばかりだし》
内容に反して楽しげに弾む声で語る裕香。
「でもこの前、怪人になる高校生役で出てるの見たよ。おじさんとも話したけど、動きのキレからしてアレ変身した後も裕ねえだよね?」
《あ、うん。見てくれた? 今のところそれが今年一番の目立つ仕事かな。変身前からアクションの多い役だったからね。あ、そうだ! 今度の大集合映画でね、ヒーロースーツの仕事いくつか取れたの!》
「ホントに!? すっげえよ裕ねえッ!?」
念願の仕事を得た報告には、孝志郎も手放しで祝いの言葉を贈る。
《ありがとう、孝くん》
「うん! 上映したら絶対に見に行くよ! そういえば、おじさん達にはもう話した?」
興奮のあまり、前のめりになって電話を続ける孝志郎。
《え、まだだよ? これからメールするつもりだったから》
「よっしゃ、テンション上がってきたぁあッ! 俺からおじさんに話してくる、今すぐに!」
《え、ちょ、ちょっと孝くん!?》
孝志郎は昂ぶった心のままにベッドから跳ね上がると、その勢いに任せて部屋を飛び出す。
携帯を顔にあてたまま階段を駆け降りる孝志郎。
「どうしたの孝志郎? そんなに走りまわって?」
その足音を聞き咎めて、怪訝そうな顔をした実里が階段下に顔を出す。
「ちょっと隣に行ってくる!」
首後ろで髪をまとめたおっとり顔の母に、孝志郎はサムズアップしながら行き先を告げる。
「え? こんな時間に?」
それには実里ものんびり顔を引きつらせる。
「裕ねえから電話で凄い知らせがあったから、すぐにおじさんたちにも伝えたいんだよ!」
《ま、待って孝くん! お父さんには電話の後でメールするから。私、もっと孝くんと話したいよ》
「じゃあ裕香ちゃんとまだ電話中なの? 折角だからもっとゆっくり話してればいいじゃない、ね?」
顔の横と正面。二方からやんわりと止める声に、孝志郎は首を縦に振る。
「そうだね。いや、あんまりに嬉しかったからついはしゃぎ過ぎちゃったぜ」
家族より先に知らされた優越感も手伝っての暴走に、孝志郎は誤魔化すように笑うと半ばまで降りていた階段を昇って部屋へと戻る。
「ところで裕ねえ、大室先輩にはもう話したの?」
《ううん。いおりにもまだこれから》
戻りながら孝志郎は、恋人の五年前からの戦友の名を出して尋ねる。
「そっか、きっと知らせたら大室先輩も今の俺くらい大騒ぎするんじゃない?」
《あはは、そうかもね。ちょっと浮かんできちゃった》
ちなみに知り合った頃は孝志郎は違う呼び方をしていたが、しばらく前に執拗な矯正を受けて今に至る。
かつての彼女たちと並ぶ年頃になった孝志郎としても、あの当時の大室いおりの言動は行き過ぎだと思っていたりする。本人には「ドイツ語ネタはカッコよかった」としか告げられないが。
「あ、そうだ裕ねえ、まだ電話いい?」
《ん? 大丈夫だよ。なにかな?》
いおりの話題であることを思い付いた孝志郎は、後ろ手に部屋のドアを閉めながら裕香に時間の有無を尋ねる。そして快く先を促す裕香に笑みを深め、本題を切り出す。
「俺の変身した姿にさ。名前つけてよ」
《え? 私でいいの?》
変身後の姿の名付け親になって欲しいという頼みに、電話越しにも分かる驚きを含んだ声が返ってくる。それに孝志郎は電話相手にも関わらずうなづく。
「当たり前じゃんか。最後まで戦って無事だった裕ねえにつけて貰えたら、なんかお守りっていうか、そんな感じでさ。それに、好きな人のつけてくれた名前名乗ってたらさ、負けられないじゃん?」
《も、もう、孝くんってば……!》
最後は照れて尻すぼみになりながらも、確かに理由を告げる。すると釣られてか、裕香からも照れた声が上がる。
《でも分かったよ。そういうことならカッコいいの考えるからね》
「ありがとう、裕ねえ!」《で、どんな感じなの? 姿は?》
「ああ、和風ってか、忍者っぽいの」
《じゃあ契約した幻想種は妖怪系? あと属性は?》
「ああ、うん。鵺って妖怪。技も雷だったから属性は風だね」
快く引き受けてくれた裕香に、孝志郎は訊かれるままに情報を渡して行く。
そんな楽しげな孝志郎を眺めて、ヨナキはベッドの上で丸まりながら、大きなあくびをした。
※ ※ ※
そうして授かった名前を披露する機会も無く一週間。孝志郎は平穏無事な日々を過ごしていた。
「裕ねえの時はもっと頻繁に出てきてたような気がすんだけどな」
放課後に通学路を大回りに外れて歩く孝志郎は、この一週間に食らった肩透かしに落胆半ばに鼻を鳴らす。
『いいじゃないかよ。訓練もしてるし、こうして探知網を広げて警戒はしてるわけだしよ。備えは進み世は凡て事も無し、けっこうけっこう』
契約の証である猿を模した指輪を通してのヨナキの声。その通りに孝志郎は今、パートナーが身を分けて作った探知補助のアンテナを撒いて歩いている。
「そりゃあそうだけどさ……」
しぶしぶと言った顔で相棒の言葉に同意しながら、アンテナを離す自分の手に目をやる孝志郎。
その手から小さな卵の様な探知アンテナが離れると、それは瞬時にカナヘビやスズメ、カナブン、サワガニと、場所にあった生物に孵り、物陰や風景の中へ滑り込んで馴染んでいく。
「……コレさ、もうちょっとなんとかならなかったのかよ?」
自分の手から産み出され続ける新しい命。それを複雑な目で見送りながら、孝志郎はこの場にいないヨナキへ渋い念を向ける。
『いやいや、充分見た目から反感を買いにくいのにはしとるだろ? ゴキブリとかドブネズミには変化させとらんし』
「その二つは論外だっての」
相棒の出した例に、孝志郎は呆れ混じりに突っ込む。
「それよりよ、こんなに生き物そこらに解き放って大丈夫なのかよ? さんざん放り出しといて今さらだけど」
『ああ、その辺は平気だろ。生き物に偽装してるだけの分身だから食うものも出すものもないし、繁殖して増えるわけでも無し』
ようはエサの奪い合いも起きないし、勝手に増殖して本来の生き物の生活圏を侵食、圧迫する事もないと言うことらしい。
「へえ、じゃ縄張り関係でケンカが起こるかって程度か」
『そーゆーこったな。仮に猫やらに食われても腹ん中で運ばれて別の場所でまた動き出すだけで……っと、おいでなすったぞ孝志郎!』
「なに!? 場所はッ!?」
飛んできた不意の警告に、孝志郎は指輪に引き締めた顔を寄せて詳細を問う。
『こっからガッコーまでの間だッ! 場所は念で送る!』
「よぉし分かったッ! 変身ッ!!」
そして送られてきた返事に頷き、右手中指の指輪を弾いて額に近付ける。
すると金色の宝玉を咥えた猿の顔が大きく顎を開き、孝志郎の頭を口に含む。
直後、食われた頭から広がった黒雲が全身を包み込む。
そして雲の隙間を雷光一閃。
続けて黒雲の頂点から稲妻が真上に駆け上る。
そして民家の広がる町並みの上空。稲光を纏い前回りに身を翻した忍者ヒーローが姿を現す。
雷光に彩られた忍びは屋根の上に足を揃えて着地。すぐさま深く溜めたバネを解き放ち、その身に纏った稲光の如き速さで次の屋根へと渡る。
屋根から屋根、電柱から電柱。次々と迷い無い足取りで飛び移って駆けていく雷光の忍び。
「はぁああッ!!」
そして一際大きく跳んだ忍者は、落雷の如く舗装された地面へ降り立つ。
『ぶ、ぶひぃ?』
その目の前には、二本の足で立つ豚顔の化物の姿が。
脂肪でぶくぶくに膨らんだ白い胴体。それを支える短い足、そして肩からぶら下がった腕は筋肉以上に分厚い脂肪で包まれている。
贅肉のクッションの上に乗った頭の中心では大きな鼻がひくつき、肉に埋もれた目を屈強な忍に向ける。
『ぶふ? ぼやけてるけど幻想種の匂いと、人間の匂い? なんだお前?』
籠って濁った声で言いながら頭をねじる醜悪な肉塊。その周囲には、小学生程の小さな少女たちが倒れている。
「破邪轟嵐……幻雷迅ッ!!」
愛しい女から授かった名を名乗り踏み込む幻雷迅。
『ブフヒィイッ!?』
瞬速の踏み込みはまさにその名の示す通り。豚男が反応する間もなく、膨れ上がった顔面に拳が突き刺さる。そしてすかさず分厚い肉に沈んだ拳から稲光が爆発。豚男のだぶだぶの巨体を大きく押し込む。
その一撃に豚男は堪らず丸々と肥えた肉体を揺らし、短い脚で地面を踏み鳴らして後退り。
『ぷ、プギィイイッ!? い、いきなり何すんだオメェよぉッ!? オレっちはただ飯を食おうとしてるだけなのによぉおッ!!』
「このブタ野郎……」
鼻の焼けて歪んだ顔を上げ、倒れた少女たちを食料と言い切る豚男。それに幻雷迅は怒りを握りしめて跳躍。またも瞬きの間に間合いを詰めて回し蹴りを繰り出す。
『ブブギィッ!?』
雷を尾と引く蹴りは脂肪の土台に支えられた首を直撃。
『調子に乗るなよッ!』
「なに!?」
だが豚男はその鋭い一撃に僅かにぐらついただけで、忍び具足の蹴りを掴み投げ返す。
「クッ!」
放り出された幻雷迅は歯噛みしつつ腰からスネークフックを射出。食いつかせた壁を基点に振り子状に軌道を曲げ、深く身を沈めて着地する。
『こいつはオーク。豚の獣人型幻想種だ! 見た目通りにタフな奴だぜ!』
「だったら崩れるまで、叩き込んでやる!」
額当てのヨナキからの解説。それを受けて、またも雷鳴を後にして飛び出す。
対してオークは意識が戦闘に切り替わったためか、先ほどとは違い腕を立てて防御。
骨と筋肉を軸に、分厚く皮膚と脂肪を重ねた肉の盾。だが幻雷迅は、ぐらつきもしなさそうな盾を構わず蹴りつける。
そして深々と沈む肉を足掛かりに跳躍。飛び上がったその両手には歯車状に固まった稲光が。
「セイヤァアッ!」
『プギィ!?』
そして前回りに身を翻しつつ左右から同時に投擲。弧を描いた雷手裏剣はオークの両脇腹に突き刺さり、大きく火花を散らして爆ぜる。
オークがその身を駆ける電撃に痙攣している隙に、幻雷迅は背後を取る形で着地。
「イヤァアッ!」
『ブギ!?』
そして腕を開きながらのターンに乗せて、再び雷の手裏剣を豚の背に投げつける。
『ッこなくそがぁ!』
だが背中での爆発をものともせずに、オークは太い腕を振るいながら振り返る。
肘と背から倒れ込む様な突進に、幻雷迅は今度は細く伸ばした棒手裏剣を投げつけつつバックステップ。
着地と同時に弾ける稲光。その雷鳴の残響の響く中、幻雷迅は膝で受け止めた勢いを反転させて突進。稲光を握った拳を打ち出す。
「エェイヤァアアアアアアッ!!」
『ぶぎぃい!?』
程よくブレーキのかかったオークの巨体。歪になったその鼻に雷に包まれた拳が再び深々と沈む。
『ぶひひ……』
しかし顔面を砕くほどの強打を受けながらも、オークの口は笑みに歪み、肉に隠された眼が幻雷迅を捕らえる。
そこから背筋に走った危機の予感に、幻雷迅はとっさに腕を引いて身を引く。
「クッ……!」
それを逃がすまいと迫る張り手。
自身を押しつぶそうとする肉厚の掌に、幻雷迅はとっさに身を捩って回避を試みる。
「ぐ!?」
肩を掠めた張り手に幻雷迅は呻き、よろめく。
『ぶふふ』
姿勢の崩れた瞬間を狙い、振り上げられる腕。
『相棒ッ!!』
「……おおッ!」
そこで響いたヨナキの警告に、幻雷迅は蛇頭のフックロープを射出。伸びたロープが巻き取るに任せて、その身を空へ走らせる。
虎と雷を模した柄の忍び装束が拳の下から逃れた直後、一瞬遅れに振ってきた拳が地面を叩く。
地鳴りを後にして、幻雷迅はフックロープを解除。空中で身を翻して左手と大きく広げた両足で着地の衝撃を受け止める。
「なに!?」
だがすかさず手裏剣を投げつけようと構えたところで幻雷迅はその動きを止める。
『ぶふ……ぶひひ……』
固まった硬質な仮面の先には、少女を片手に握り持ち上げた豚男の姿がある。
「う、うぅ……」
『オレっちのメシになるだけじゃなく、盾にもなってくれるなんてよぉ、やっぱ最高だぜぇぶーひひひ』
小さく呻く女子小学生を前に出しながらほくそ笑むオーク。
さらに少女を突きだす卑劣な豚男に、幻雷迅は指の間に構えた手裏剣を手放す。
『ぶふひひひひひッ!!』
すると豚は抑えきれぬとばかりに笑いながら、空いた拳を握りしめ、脂肪で出来たハンマーを幻雷迅へ向けて振るう。
「が……ッ!?」
『ごぉ!?』
振り子のように勢いをつけて繰り出された拳は、無防備な忍び装束の腹を直撃。鎖帷子を腹筋へ食い込ませて屈強な体を吹き飛ばす。
「う、ぐあ……」
『うご、ご』
固く舗装された地面に叩きつけられ、人間幻想種揃って呻く幻雷迅。
『ぶひ、ぶひひ……散々痛い目に見せられたからなぁ。気持ちよくメシを腹に入れるために腹いせさせてもらうぜ』
楽しげに舌なめずりをしながら、オークはさらにもう一人の少女を掴んで忍者へ迫る。
「う、ぐ……」
荒々しく地面を踏み鳴らして接近する敵に、苦悶の呻きを溢しながらも急ぎ立ち直ろうとする幻雷迅。
『ぶっひゃあああああ!?』
「おぐ!?」
だが両手に抱えられた少女に身動きが取れず、オークの振り上げた足が幻雷迅の体を直撃。重いダメージの残響の色濃いところへさらに重打を重ねる。
『ぶひ、ぶひひひひ! 痛いか? 痛いよなぁ!? 正義の味方気取っていきがるからこういうことになる!』
見かけ通りの重い打撃に苦しむ幻雷迅を見下ろして、オークは心の底から愉快そうに笑う。
『ぶひひ、たまらんぜえ! 勘違いしたバカを叩き潰すのはよぉ!? いいねえ、女を食うことの次にいい!』
オークはさらに楽しげな哄笑を重ねて、横たわる忍者へさらに蹴りを重ねる。
「ぐ!? おぐぶっ!?」
『うぐッ!?』
その度に、鍛えられてはいるが装甲の薄い幻雷迅の体は内臓を揺さぶるほどの打撃に跳ねて、呻く。
「……負けて、負けてたまるか……こんなのに負けたら裕ねえに、合わせる顔が……」
しかし一方的な打撃に晒されながらも、幻雷迅は腕を杖に己を奮い立たせるように呟く。
だがその腹を、再びオークの大振りの足が蹴りあげる。
「ぐふ!?」
『がはッ!?』
揃って声を上げて宙を舞った幻雷迅は、地面をバウンド。そのまま転がって仰向けに倒れる。
『さあて、そんじゃあそろそろ自分の無力さってヤツを噛みしめてもらおうかなぁ?』
オークは倒れた幻雷迅を肉まぶたの下から眺めると、大口を開けて捕まえた女子小学生の体を口元へ運ぶ。
だが勝利の確信からくる慢心こそ、幻雷迅が耐え忍び待ち続けた機であった。
「……風、遁、黒雲嵐ッ!!」
『な、ぶぅぁあああッ!?』
幻雷迅が叫び、胸板の前で印を組んだ瞬間。その身を中心に瞬く間に黒雲が広がる。
驚く豚男もろともに雲が場を包むと、目開けられぬほどの雨と耳を破るような雷鳴が荒れ狂う。
「遁」という文字は本来、逃れるという意味をあらわす。すなわち遁術とは逃げ隠れるための技術である。
この風遁・黒雲嵐も、瞬間的に発生させた嵐により敵の視聴覚を奪って姿を隠すための術である。
そう、敵のから「姿を隠す」ための技術なのである。
ヨナキに渡した心命力によって生み出した轟嵐の中、幻雷迅は腰から蛇頭を飛ばしながら跳ねるように立ち上がる。そして全身に響く痛みは仮面の下で噛み殺し、立ち込めた雲の中を雲耀の如く駆ける。
先立って放たれた蛇は豚の足元へ巻きついて足首へと噛みつく。
『ぶひぃ!?』
食いつくや否や巻き取りを始めたフックロープは、虚を突いたオークのバランスをあっさりと奪い、雷鳴の中に地響きを響かせる。
そして倒れると同時に、両手の少女は宙へと投げ出される。
『しま……』
目も開けられぬ嵐の中、盾を失ったことを手応えで理解するオーク。
生み出した嵐の中を掌中の如く把握している幻雷迅は、躊躇なく手を叩き、雷の刃を呑んだ仕込杖を召喚。居合の形で構えてすれ違いざまにオークの巨体を切り裂く。
『ぶ、ひぃ?』
「轟鼓閃命……清めよ、その幻影……ッ!」
戸惑いがちな豚の声を背に、幻雷迅は雷光の刃を払い、納刀。
そして澄んだ鍔鳴りと同時に嵐は晴れ、夕日にさらされた肉厚の巨体から、雷光が広がり金色の魔法陣を空に刻む。
幻雷迅は宙を舞っていた少女たちをスネークフックのロープで保護すると、豚のいた場所で倒れ伏したスーツ姿の男を見やり、全身のダメージを追い出すように息を吐いた。