混沌態
「孝くーん!」
弾む声に呼びかけられて、顔を上げる孝志郎。
その服は学生服では無く、シーンズのボトムに黒い長袖のシャツ。その上に黄色いノースリーブのパーカーという私服姿であった。
「お待たせ! ちょっと並んでたから時間かかっちゃたね」
そう言って孝志郎の目の前で微笑み立ち止まるのは、長い髪をポニーテールにまとめた裕香だった。
白いガウチョパンツに、ライトグリーンの長そでと白の半そでシャツを重ね着にしたシンプルな装い。
メリハリの利いた豊かなスタイルを、動きやすそうな服に包んだ裕香。
その両手にはポップッコーンひとつとジュースをふたつ乗せたトレイを持っている。
「ううん。それよりゴメンね、並んでもらっちゃってさ」
「いいのいいの。私が自分から引き受けたことなんだから」
そのトレイを受け取りながら、買いに並ばせてしまったことに孝志郎は感謝と詫びの一言を。
しかし裕香はそれに微笑みながら頭を振る。
「それより早く入ろう? もう入場受け付けてるんだから」
そしてスタッフのいるゲートへ目を向けてそちらへとうながす。
今日二人が来ているのは映画館。
帰省した裕香と孝志郎は、公開中の特撮ヒーロー映画を見に来ているのだ。
最初孝志郎は、帰省した裕香とのデートにヒーローショーのやっている遊園地を、と考えていた。
だがそのプランは、早人とのじゃれ合いをきっかけにクラスメートらに広まってしまった。
わざわざ予定を合わせて尾行するほどヒマなのはいないだろうが、念には念を入れて映画へ予定を変更したのであった。
「そうだね。いこういこう」
ともあれ、浮かれた裕香に言われるままにうなづいて、孝志郎もゲート奥へ向かう。
歩き出しながら孝志郎は、ポップコーンとジュースのトレイを右手ひとつに持ちかえる。すると裕香がその空いた左手を掴まえて指をからめる。
指に触れた年上の恋人の手の感触。
激しいアクションと、その本番に備えて鍛え上げている手。
しかし孝志郎にとっては、どんな女性のものよりもその感触が好ましく、美しく。愛おしく感じられる。
なぜならば鍛錬の痕の刻まれた手のひらは、ひたむきに夢と向き合い続ける思い人の努力を表す一つであるから。
不意を突かれたことには戸惑ったものの。しかし孝志郎は左手からつながる裕香へ笑みを向けて、結んだ手を放すまいと握り返す。
手をつないだまま見つめ合い、はにかみ微笑みあう十九歳と十四歳の恋人。
そうして二人は見つめ合っての照れ笑いのままうなづき合い、改めて上映を控えたスクリーンへ。
※ ※ ※
「ああ面白かった!」
「うん! アクションもストーリーも熱くて! やっぱ特撮ヒーローは最高だ!」
映画の視聴を終えた裕香と孝志郎は、改めて恋人繋ぎに手を繋いで劇場から外へ。
「特にアレだよ! あの流れるように集団を掻い潜る格闘戦に、ワイヤーアクション! 共闘するライバルとの背中合わせ! 今回のもマジで強烈だったよ!」
しかし力強く語られる感想は、繋がれた手のように甘やかなものではない。
五センチ高い彼女と並んだ少年の目はキラキラと輝いて、まるで夢を疑うことを知らない幼児のよう。
「そうだ、今回のに裕ねえカメオで演てたよね? ウェイトレス役で」
「あ、気づかれちゃった?」
孝志郎がスクリーンに見つけた姿を指摘。すると、裕香は照れ笑いでそれを肯定。
孝志郎は得意になってうなづき、胸をはる。
「すぐ分かるって。今回のじゃ他にも、襲われたりなぎ倒されたりするスタントでいくつか見つけたよ。迫力出てていい感じだったよ」
「ありがとう。でもやっぱり恥ずかしいのはあるね。私だって分かって仕事を見られるのって」
出ていた場面を指折り数える孝志郎に、裕香は長い髪を指先に弄びながら、顔の朱を強める。
「恥ずかしがることなんか無いって! そういえば裕ねえって、テレビ放送のでもちょくちょくカメオやってるよね?」
照れ、恥じらう裕香に、孝志郎は話の中で思い付いた話題を振る。
なおカメオ出演とは、著名人や裏方担当が端役で出演ることを言う。裕香の場合は裏方出演の意味合いになる。
「まあね。スタント以外にも出たくて話があれば立候補してるから。でも、撮影の方で高校の制服を着る機会が来るとは思わなかったけど」
「ああ、こないだの襲われる女子高生もそうだったっけ?」
「うんそう。まだ十代だからそういう役任されても平気だけど、もう少し年取るとキツイかも……」
中卒で即養成所に入った裕香にとっては本来の用途で袖を通す機会の無かったもの。それを仕事で着せられていることに、裕香は苦笑を浮かべる。
年齢も上がって落ち着いたとはいえ、中学生の頃からそのスタイルで大人びた印象を抱かれがちであった裕香にとっては、いびつに見えないのかが心配なのだろう。
「そう? 裕ねえ四年前からほとんど変わってないし、まだまだいける気がするけど?」
「それはそれで、大丈夫なのかな……? でも、ありがとう」
実際はただ早熟な外見に年齢が追いついてきただけといったところなのだろう。
必要な心配なのかと首を傾げる孝志郎に、裕香は困り笑いながら年下の思い人に礼を言う。
「もうお昼時だし、あとはご飯食べながら話そうか? 孝くんはどこがいいかな?」
「フードコートでバーガーってのもいいけど、すぐ近くの「しめやか」もいいよね。迷うなぁ」
「お肉メインなのは絶対なのね」
昼食はどうするかと顎に手を添え迷う孝志郎。それに裕香は柔らかく笑みを深める。
「日野……くん?」
「お?」
「え?」
そこで不意に横からかかった声に、孝志郎と裕香は揃って顔を向ける。
「え? 望月!?」
そこにいたのは黒いロングスカートに、えんじ色のカーディガンを着たつかさ。
思いがけないクラスメイトの姿に、孝志郎は目を瞬かせる。
孝志郎と同じく、呆然と瞬きを繰り返すつかさ。その目は孝志郎の顔から徐々に下がり、ある一点で静止する。
つかさが瞬きも止めて見つめるそこは、恋人たちが指をからめてつなぎあった手。
知り合いに見つかった気恥ずかしさに、孝志郎は裕香と結びあった手を強ばらせる。
「ああ、裕ねえ。この子、クラスメイトの望月」
が、ためらいを空気と共に飲み込むと、微動だにしないつかさを裕香に紹介する。
その間、孝志郎は裕香と繋いだ手を離すことなくきちんと握り続ける。
そうして繋いだ手を隠すことなく、裕香とつかさとの間を開ける。
「で、望月。前にも話はしたと思うけど、この人が俺がおつき合いさせてもらってる昔馴染みのお姉さんの吹上裕香」
はっきりと。
きっぱりと。
胸の内をくすぐる照れを飲み込んで、裕香との関係性をきちんと口に出して紹介する。
裕香との関係を恥じらい隠すようなマネをして、愛しい女の心に悲しみと誤解を招きたくは無かったからだ。
「はじめまして。吹上裕香です」
そんな孝志郎の紹介に応じて、裕香は恋人のクラスメイトへ微笑み頭を下げる。
「……は、はじめ、まして」
対するつかさはそこでようやく思い出したのか、慌て、ぎこちなく礼を返す。
「ほ、本当に、キレイで……素敵な方なの、ね」
そして震える声で続けながら、一歩、二歩と、ふらつき後退り。
大きなその目は潤み、揺らいで。やがて溢れだすように縁から雫がこぼれる。
「望月!?」
突然の涙。
それに孝志郎がとっさに手を伸ばす。
が、同時につかさも自身のほほを伝う雫に気づくと、それを隠すように顔を両手で覆う。
瞬間、孝志郎の背筋を滑り落ちる冷気。
ぞわりとしたその悪寒に怯んだ一瞬のうちに、つかさは手で作った仮面をそのままに、二人の目の前から走り去る。
「あの子……もしかして、孝くんの事……」
つかさの涙の理由を口に出す裕香。
孝志郎もさすがに裕香に言われるまでもなく、つかさの持っていた思いは察する事が出来ている。
孝志郎と裕香の関係を知っているにもかかわらず、つかさは未だに涙を流すほどの思いを抱いていた。ということはつまり、孝志郎は以前から度々に、整理がつかずこびり付いていた思いを踏みにじっていたことになる。
「……三谷のコト言えないじゃないかよ」
裕香への思いがある以上、つかさの思いに応えられないという結果に変わりはない。
だが思いをまるで知らずに振った上で、さらに塞がる前の心の傷に塩を塗り込むようなマネを繰り返してしまった己の行いに、孝志郎は苦々しく歯を食いしばる。
無知ゆえに犯した己の罪。
無自覚に繰り返した残酷なそれに、孝志郎は深く、深くため息を吐く。
「……孝くん。追いかけてきてあげて」
「いいの、かな? ダメ押しになるだけ、なんじゃないかな」
裕香の言葉に、しかし孝志郎は迷いためらい、踏み出せずにうつむく。
「こういうのって、きちんとすっきりさせたほうがいいものよ。大丈夫」
そんな孝志郎の背を押すように、裕香の柔らかな声が。
「……分かったよ。ゴメンだけどちょっと待ってて」
その後押しに、孝志郎は迷いに曇っていた顔を引き締めうなづく。
「うん。いってらっしゃい」
裕香が着いていっても、つかさの傷をえぐるだけ。
それを裕香も分かっているから、ここは年下の恋人にまかせて、微笑で見送る。
そうしてふたりが繋いだ手を離した刹那。異様な妖気が押し寄せる。
「な!?」
「負の心の力!?」
波と叩きつけてきた冷ややかな波動。
暗きへ沈み、凍てついた心から放たれた心命力に、孝志郎と裕香は警戒も露わに背中合わせに構える。
そこへふたりの横顔を射抜こうと、矢が風切り迫る。
だが、背中合わせの恋人は短い息をひとつに身をかがめてその矢をかわす。
そしてふたりはすかさず分離する形でそれぞれの前方へ跳ぶ。
直後、二人の足元を狙った矢が床を叩き削る。
前回りに受け身をとり、顔を上げる孝志郎。
その一方で裕香は前跳びの勢いから腕の屈伸で跳躍。さらに続けて襲いかかる矢を飛び越えて見せる。
「裕ねえを狙ってるッ!?」
かつての戦士であり、現役スタント役者としての見事なアクロバティックアクション。
それに孝志郎は内心舌を巻きながらも、明確に恋人に向けられた害意に拳を固める。
しかし走りだそうとする孝志郎の正面に、うっすらと光を跳ね返す細いものが。
「う!?」
待ちかまえるものに気づいて、急ブレーキに体を止める孝志郎。
のけ反るその首元には細く鋭い糸が食い込んでいる。
皮膚が破れ、そこから伝った血の雫が糸の姿をあらわにする。
もし踏み留まるのがわずかにでも遅れていたとしたら、孝志郎の首は落ちていただろう。
そんな孝志郎のすぐ傍を、射かけられる矢に気づいた他の客が悲鳴を上げて走り抜ける。
が、その体は無傷。
閂のように張られたはずの糸の線上を横切ったにも関わらず、人々は何事もなかったかのように走り去る。
しかし、孝志郎の首に食い込んだ糸は未だにそのまま。変わらず肌を裂いて健在。
自分たちとそれ以外を分けるその差異に、孝志郎はその原因は何かと眉間に皺を寄せる。
だがそれはともかくと、疑念を振り切り頭を切り替える。
そして後方に倒れるように身を引き、横合いから飛んでくる矢をかわす。
「ヨナキッ!」
後ろ回りに転がった孝志郎は、制止と同時に相棒の名を呼び拳を振りかぶる。
だがそれと同時に宙返りを繰り返していた裕香の体を糸が絡め取る。
「くぅッ!?」
「裕ねえッ!?」
空中で大の字の形で縛られ、動きを封じられた裕香の姿。それに孝志郎は焦りのまま踏み込む足に力を込める。
「ぐぅう……キィィイイアァッ!!」
気合一閃。
激しい気合の声を漲らせ、裕香は体を丸めるように四肢をたたんで絡みついた糸を引き千切る。
人間離れした力技。
一見するとそうとしか見えない。が、その実は違う。
繰り返しになっているが、幻想種の力の強弱は最終的にはすべて心命力の差、すなわち精神力と生命力によって決定される。
確固たる信念と意思をこめたのならば、たとえ子どもの柔らかな拳でさえ、巨竜の脳髄を揺るがすことさえ可能。
幻想種と物質界の生命体の契約とは、極端なところその力を増幅し、容易に扱いやすくするだけのこと。
肝心の要はできると信じること。
動いたのならば、そのもたらす結果を信じること。
その心命力の理を正しく知っている者であれば、契約が成されていなくとも幻想種に太刀打ちする事もできる。そう、できるのだ。
つまり裕香は瞬間的に心の力をみなぎらせることで、糸を構成するエネルギーを上回り、振りほどいたのだ。
生身でそれを成した裕香に、孝志郎はかつて自分が勇気を振り絞って叩きつけたバットが幻想種を怯ませたことを思い出す。
「すっげ……」
しかし自分とは違い、真っ向から拘束をひきちぎってみせたその力に、孝志郎は助けを急ぐ必要を見失ってしまう。
だがそれも束の間。
落下を始めた裕香の足元に裂け目が開く。
「しまった……ッ!?」
完全に掴みどころのない空中。
生身では方向転換不可能なところに、待ち構えるように開かれた落とし穴。
変身さえできたのなら障壁を三角飛びにかわせたはずの穴へ、裕香はなす術も無く吸い込まれていく。
「おぉおッ!!」
その光景に、孝志郎は右手中指の指輪を弾き、黒雲をその身に纏いながら踏み込む。
「裕ねえ!」
雷雲を突き破り現れる手甲に包まれた手。
「こ、孝くん!?」
その幻雷迅の手に応えて裕香もまた手を伸ばす。
指と指。
二つの手が呼びあうように近付く。
が、いままさに触れようとした刹那、裂け目から伸びた糸束が裕香を捕らえる。
「なッ!?」
どちらからともなく漏れる驚きの声。
その直後、落下を早めた裕香の体は、幻雷迅の指を掠めて空間の穴へ。
「まだだぁああッ!!」
しかし幻雷迅は獲物を飲み込み閉じ行く穴へ向け、自身を稲妻の如く加速。
狭まった裂け目にそのたくましい体をねじ込む。
しかしヒーロー然とした忍装束は、くぐろうとする半ばで制止。
閉じた裂け目に腰でひっかかってしまったのだ。
「ぐぅッ!?」
噛み裂こうと高まる圧力。それに幻雷迅の仮面からも堪らず苦悶の声が。
『いかん、孝志郎! このままじゃお前の胴体がこっちと向こうで泣き別れだぞ!?』
幻雷迅の体を軋ませ、閉じようとする空間の裂け目に、額当てのヨナキが焦りの声を上げる。
だが幻雷迅は仮面の奥で苦悶のうめきを噛み殺し、身をよじる。
空中で腰だけで逆さづりになった忍者ヒーロー。その上半身が悶えるたびにその身から雷があふれて弾ける。
空間の裂け目を作っているのは幻想種の力。
そうして開かれた空間のつながりであるならば、心命力でこじ開けることもできるはず。いや、できるのだ。
「ずぅうぇえええええええいッ!!」
裕香が思い出させてくれた心命力の理を胸に迷いを振り切り、咆哮。
雷光を伴うそれは獣のそれとも、雷鳴ともつかぬ轟きとして繋げられた二つの空間に響く。
忍を中心に広がる稲妻。
それに合わせてこじ開けられる空間の裂け目。
そうして外れた挟み込みに、幻雷迅の体は解放されて落ちる。
前回とは違い、すぐ目の前にある地面。
顔から落ちていく幻雷迅はその床に手をついて前回りに受け身。
片膝立ちに踏みとどまってから、膝と背筋を伸ばして立ち上がる。
へし切られかけた腰をさすり、周囲を見わたす幻雷迅。
つるりとした石の壁に囲まれた空間。
明らかに人工的な建造物の中らしいこの景色。
その中で幻雷迅は、糸に包まれたものが通路の奥へ引っ張られるのを見つける。
「裕ねえ!」
曲がり角のその奥へ消える人影を追って走る幻雷迅。
しかし裕香の姿が消えた出入り口は、不意に落ちてきた物に塞がれる。
「でぇえぁああああああッ!!」
行く手をふさがれたにも関わらず、幻雷迅はブレーキをかけるどころかさらに踏み込む足に力を込める。
その勢いのまま振りかぶった拳に稲妻を纏わせて突き出す。
しかし雷撃を帯びた拳は、不意に割り込んできた巨大な手のひらに阻まれる。
衝突した拳を中心に爆発する雷。
しかし打撃と合わせた二つの衝撃にも、巨大な手のひらはびくともしない。
拳を打ちこんだ幻雷迅であったが、その身はまた広く分厚い壁に似た手のひらに力任せに押し返される。
「ぐッ!?」
幻雷迅は押し戻そうとする力に自ら合わせてバックジャンプ。
そのまま後ろ回りに宙返り。合わせて雷を固めた手裏剣を打ち、着地の瞬間にもさらにもう一発。
しかし弧を描いて薄闇を裂いた雷は、壁の様な手のひらにぶつかり、破裂する。
そんな硬質な手のひらは、広がったまま幻雷迅へ向けて襲いかかる。
斜めに振り下ろされる大張り手。それを鵺忍は横っ飛びに回避。
地響きの中、幻雷迅は起き上がり身構える。
その正面には巨大な腕を持つ怪物が。
つるりとした硬質な表面を持つ巨体。
そこから重機じみた印象を受けるが、その全体的なシルエットはトカゲのそれ。
「そうか……この間の!」
ざっと見て三メートルはある大トカゲの人形。そこから連想したクモとフクロウに、幻雷迅はこれが「アラタ」と呼ばれていた個体だと悟る。
対して巨腕大トカゲのアラタは四肢で床を叩き躍りかかる。
その巨体ごと圧し掛かるように振り下ろされるアラタの拳。
「あれをやるぞヨナキ! 出し惜しみは無しだッ!!」
『なんだと!? だがお前がやると決めたのならば!』
だが幻雷迅はその場を動かず、左腕を掲げて両足を肩幅に構える。
振ってくるは虫類の巨拳。
それを幻雷迅はやはりかわしもせずに掲げた腕ひとつで支えて見せる。
拳とぶつかった左腕にはやはり亀の甲を模したバックラーが。
しかしこの質量差はもはや盾の有無の問題ではない。
わずかな間の拮抗。
そして潰れる幻雷迅。
拳を中心にもうもうと巻き起こる砂煙。
黒いものの混ざった分厚いそれは、見る見るうちに渦巻き広がっていく。
それに異様さを感じてか、拳を引く巨腕トカゲ。
わずかに退いたその喉元を目掛け、煙を突き破って飛び出すものが。
それはムカデを象るすね当てとを着け、サメ意匠の刀手甲を右手にはめた幻雷迅。
仲間たちすべての武具を発動させた、「混沌態」とでも呼ぶべき形態となった幻雷迅は、まっすぐに右手の鰐鮫を振り上げる。
だがその突撃は、逆に頭を振り下ろしたアラタに迎撃されてしまう。
が、顎に叩かれた忍者の体は砂と砕ける。
そう。センミンの力による土遁・砂分身である。
そして分身が砕けると同時に、また別の幻雷迅が煙の中からアラタの巨体を駆け登る。
だが、火遁・燻巻きの煙から再び飛び出した幻雷迅はひとりではない。ふたりが左右の足それぞれから、正座の姿勢で作り物めいた巨体を登るのだ。
囮の砂分身と合わせて動いての撹乱。
それにアラタはどちらから払うべきかと迷ってか動きが止まる。
しかし巨腕の大トカゲ人形は、地面に両の張り手を。
乾いた音が弾けるや否や、波となった空気が辺りに立ちこめる砂と煙とを押し流す。
はたしてその衝撃波は、アラタを駆け登るふたりの幻雷迅をも、まとめて砂と砕いて散らす。
ふたりともが砂分身の囮。
煙幕と分身の素材を吹き飛ばしたアラタは、本命の幻雷迅本体を求めて顎を上げる。
「クソッ! 見つかった!?」
すると、天井から奇襲に落ちる鵺忍者の姿がそこに。
燻巻きと砂分身の合わせ技で目をくらませて、その隙にがら空きの頭上に回って仕止めにかかる。
その奇襲計画は惜しくも完成直前に看破。
しかしすでに落ち始めてしまった以上、迎え撃とうと身構えるアラタへ飛び込む他ない。
『孝志郎! 術を!』
「分かってる!」
拳を構えるアラタを見下ろして、幻雷迅は額当てが言い出すと同時に、素早く手に印を組む。
「風、遁ッ!!」
その叫びに続き、大トカゲの首から上を嵐が包む。
一瞬の、しかし雷雨を伴う激しい嵐。
だがアラタは、風遁・黒雲嵐の爆音と光を無視して拳を突き上げる。
しかし幻雷迅は迎撃に撃ち上がって迫る拳を見据えたまま印を組んだ手に力を込める。
直後、フル装備の鵺忍を包む黒雲。
だが今さら自分の姿を隠したところでどうなるはずもない。
そのままなに遮るものなく空を駆け上った巨拳が黒雲に届く。
拳に散らされる黒雲。
だがしかし、アラタの拳は何の手応えもなく雲を散らして天を指す。
改めて語るまでもない話ではあるが、雲を構成しているのは水と空気中の雑多な不純物である。
そう。雲は水なのだ。
その中に幻雷迅が姿を消したということは。
「デェイヤァアアアアアアッ!!」
水遁・渡り潜りにて、トカゲ人形の頭を濡らす水を経由しての奇襲を仕掛けるということだ。
トカゲ頭のすぐ上に飛び出た幻雷迅は、敵に反応する間も許さずに鰐鮫を振り下ろす。
唐竹割りに大トカゲの巨体を一刀両断。
そして片膝立ちに着地した幻雷迅は、青の光陣を境に割れた巨体を正面に鰐鮫の背ヒレ刃を左手の指でなぞる。
「迅流鋭命! 清めよ、その幻影ッ!!」
幻雷迅による鋭い言霊の詠唱。
続いて、青の円陣で出来た断面から光があふれ、硬質なアラタの体は爆散。
「……裕ねえ!」
幻雷迅はそんな敵の残骸に目をくれることもなく、攫われた思い人を探して走り出す。