諜報、防諜
雷雲を突き破り現れる鵺の忍。
雷光の如く夜闇を駆け抜けたそれは、腰のロープを投射。前方の影へ絡ませる。
『ウグゥエ!?』
毛むくじゃらな人型は首に喰いつき絡みついた蛇頭のフックロープにくぐもったうめきを漏らす。
締め上がった首を抑え、上体を折る猿の怪物。そこへ幻雷迅が跳躍と巻き取りの勢いを合わせて宙を滑走。圧し掛かる形で組みつく。
「ふんッ!!」
『おごぉ!?』
右手で頭を掴み、包むように首を抱え込んだ両腕に力を込める。
瞬間、猿の怪物は電撃でも受けたかのように痙攣。屈強な忍の腕の中でぐったりと崩れる。
幻雷迅は腕を解き、落ちた化け猿を解放。
音を立てて倒れたその後ろ頭を掴み、手のひらから放った黒雲で覆う。
「読めるか?」
『ちぃっと待っとれ。せっかちはいかんぞ、せっかちは』
つるりとしたフェイスカバー奥からの問い。それに軽い調子で応えるヨナキの顔をした額当て。
続いて小さくも分厚い黒雲にたびたびに稲光が閃き走る。
『読めた……が、大した情報は持っとらんな。別行動をしている仲間の居場所がいくつか。その程度だな』
「一番近くのは?」
『ここから南に三キロ』
「そうか」
落胆のため息と共にもたらされた情報。それに幻雷迅は軽く顎を引いてうなづき、黒雲に突っ込んだ右手に力を込める。
瞬間、猿の幻想種の頭を覆う黒雲が膨張。
爆発的な勢いで幻雷迅を化け猿もろともに包みこみ、勢いはそのままに拡散する。
そうして夜闇に散り消えたその後にあるのは幻雷迅の姿のみ。
この幻想種もまた礼の如く。契約者を依り代としていないものであった。
雲の欠片一つとして残骸のないアスファルトの地面。
それを見下ろし確かめて、幻雷迅は音もなく跳躍。目標への途上にある民家を八艘跳びにこの場を後にする。
夜闇の中を跳び渡り進む幻雷迅の正面。
その先には手足を生やしたコウモリの化け物が羽ばたいている。
標的を真正面に収めた幻雷迅は、気合の声どころか足音すらない無音で大きく跳躍。
コウモリの巨大な耳ですら察知不能。にもかかわらず疾風を超えるほどの速さで間合いを詰め、その勢いに乗せて蹴りを繰り出す。
『ぐげぁ!?』
無音瞬殺。
首元を正確に叩いた延髄切り。
それは文字通りにコウモリの幻想種の首を折り切り、地上へと落とす。
派手な音を立てて地面に落ちるコウモリの巨体。
それは大の字に放射状に二画足した形で地面に広がる。
幻雷迅は屋根のひとつを経由して広がった怪物の上に着地。そして先と同じく、雷雲でコウモリの頭を包む。
『コイツも大したことは知らんな』
しかしやはりと言うべきか、額当てにあるヨナキが語る結果は猿の時とまったく同じ。
『こうなったらいっそ、こいつらのまとめ役を仕留めた方が早くはないか?』
それに続けてヨナキは、現状打開につながるであろう策を提案。
ザコをいくら潰したところで情報源としては当てにならない。
加えてまとめ役が危機感を感じて呼び寄せたところで、末端の戦闘力は先の通り。
意識の外から攻撃を加えたなら浄化の言霊も必要なく一撃で沈められる程度でしかない。
リスクはそれほど大きくはない。ならばここで大きく攻めに出るのも選択肢としてはありだろう。
「それもそうか……行くか!」
幻雷迅はそう考えて、浅く顎を引く形でうなづき立ち上がる。
それに続いて、コウモリの幻想種を巻き込み、破裂するように消える雷雲。
雲と幻想種が跡形もなく消え去った直後、幻雷迅は跳躍。
ふたたび屋根や塀の上を駆け、飛び移り、一直線に次なる標的を目指す。
これまでと一転しての攻めの姿勢。
今まではなし崩し的に、襲われた端から迎え撃つ形を強いられてきた。
相手が無差別に動き、それに応ずる形であればいくらかは後手に回ることもあるだろう。
だが大きく動いたこの数回は、孝志郎とその周囲を標的としている節がある。
特に孝志郎を捕獲した蜘蛛女人形。否、その前の牛頭の怪鳥からはあからさまである。
そのために無関係のクラスメートや、家族までもを危険にさらす羽目になった。
このまま後手に回り続ければ、いずれその魔の手は裕香にまで。
これ以上は許せない。
孝志郎にとってはこれまでもを許した自分自身も許し難い。が、かろうじて被害を抑えたことで、この後の防ぎ方次第で返上はできる。
だから先手を打つため、母と共に襲われた一件から積極的な攻勢に出ているのだ。
そして今夜も何者かが放った心命力を収集する寄り代なしの幻想種を闇の中で狩り、黒幕へ通じる情報をかき集めているのだ。
墨染の空をかけるその速さは雷光の閃き。
しかし轟きは雨音一つほどもなく。
鵺の忍者ヒーローは静かに素早くこの近隣で最大の情報源を目掛けて走る。
『いかん!』
「む!?」
だがその途中。不意に額当てのヨナキが右手側を見て警鐘。
直後、短く唸って跳躍した幻雷迅の足の下を鋭いものが風切り過ぎる。
「シィア!」
飛んだ勢いのまま宙返りに身を捻り、幻雷迅はなにかの飛んできた方向へ雷手裏剣を打つ。
しかし円盤状の雷光は空中で何かと衝突、相殺。弾け散る。
打つ。相殺。打つ。相殺。
それを繰り返しながら、鵺忍は放物線を描いて道路へ落下。車が通りすぎたすぐあとに音も無く着地。
同時にこの瞬間を狙いすまして飛んできたものを、顔の正面で左手に掴み取る。
『うぉう!?』
「矢……?」
ヨナキの浮き彫りに鋭い先端を突きつけ止まったそれは一本の矢。
月明かりを跳ね返す鉄の矢じり。
そこから続く長い白木に、逆端に着いた羽根。
それを相棒の顔を浮き彫りにした額当てから避けつつ、幻雷迅はこの和弓用と見える矢の飛んできた方角をにらむ。
その先には電信柱の上に佇む影がひとつ。
大きく丸い頭に、爛々と輝く目がふたつ。
分厚い外套をはおり、左の手に長い大弓を構えている。
『フクロウのか?』
相棒の見立てを代弁するようなヨナキのつぶやき。
それに答えるかのように、フクロウの幻想種らしき影が矢をつがえる。
『孝志郎ッ!?』
「わかってる!」
相棒の警告と同時に幻雷迅はこの場を跳び退く。
同時に左手に掴んでいた矢を持ち主へ投げ返す。
雷撃に包んだそれを、フクロウらしき影は足場としていた電柱から飛び立ちかわす。
しかし、それからわずかな間で弛んだ弦を引き絞り、狙いを整えて矢を放つ。
だが幻雷迅にとって欲しかったのはそのわずかな間だ。
「セェアアアアアアアアアアッ!!」
飛来する矢に幻雷迅は青い光を帯びた右腕を一閃。
その一撃に、矢は上下に裂けてそれぞれに明後日の方向へ。
「頼りにしてるぞ、エッジ!」
『おうよ!』
刃手甲鰐鮫を装備し、額当てをエッジの顔に変えた幻雷迅は、手近な民家の屋根に着地。
すかさず重ねて飛んできた矢を切り払い、フクロウの射手へ向けて跳ぶ。
屋根や電柱。電線を跳び渡りながら、その合間合間に矢を射掛けるフクロウ。
そのことごとくを、幻雷迅は鮫の背ビレを模した刃で迎撃。同じく足場となる建物を次々に変えて、射手との距離を徐々に詰めていく。
近づいていくにつれて、いま戦っている相手の姿が月明かりにもはっきりとしてくる。
フクロウと人のキメラじみた印象に間違いはない。
だがその体表は陶器のようにつるりとした無機質なもの。
羽毛は一本もなく、大きな目も強くギラついてはいるが、レンズのよう。
そして弓を持っているはずの左腕は、完全に弓と一体化。武器がその肉体の一部となっている。
『コイツのこの姿……!』
「この前の蜘蛛人形と同じ!」
作り物めいたフクロウの姿。それは幻雷迅らのつぶやいたとおり、以前に襲ってきたアラクネ人形と重なる。
「飛んで火に入る夏の虫ってな!!」
打ち倒すべき襲撃者。それと深いつながりを匂わせる新手に、幻雷迅は右腕を構えて躍りかかる。
だがフクロウの射手は大きく跳んで鰐鮫の刃を回避。間髪入れずにつがえていた矢を放つ。
「セェアッ!」
しかし幻雷迅も、素直な一撃が避けられることは折り込み済み。短い気合と共に投げつけた雷の針を、矢じりと正面衝突にぶつけて迎え撃つ。
夜闇に眩く弾ける閃光。
しかし至近距離でのそれにも関わらず、フクロウの射手は怯む事なく新たな足場を得て、次の矢を放つ。
対する幻雷迅は鋭い呼吸と共に身を翻し、風切り迫る矢を後ろ回し蹴りに叩き落とす。
さらにその勢いのまま放つ腰のフックロープ。
大口開けた蛇の尾は、フクロウへ食らいつこうと一直線に。
だがやはりと言うべきか、フクロウの射手はすぐさま後方の足場へバックステップ。またも幻雷迅の攻撃から跳び越し逃れる。
「甘いぜ!」
だがこちらもやはり、幻雷迅は鋭い気を放って足場を蹴る。
同時に腰の蛇の尾を模したフックロープを巻き上げ加速。
その先端はフクロウの射手が足場とした屋根のさらに後方。別の屋根にしっかりと食らいついている。
そう、これが。フックをかわされることこそが幻雷迅の狙い。
それをさとったフクロウは空中で慌てて矢を放つ。
が、それは恐れずに加速した幻雷迅を掠めてそのはるか後方へ。
次の矢をつがえる間など無い。
加速した勢いに乗せて間合いを詰め、幻雷迅は鰐鮫の一太刀をくり出す。
「セェエイアアアアアアアアアアッ!!」
青い残光を引いた右の一閃。
しかしそれが切り裂いたのは夜闇のみ。
『どこいったッ!?』
「飛んだッ!?」
姿を消した獲物を探す額当てに対し、幻雷迅は首を上げて上を見る。
果たしてそこには、翼を広げて夜空を舞うフクロウが。
天の使いよろしく矢をつがえて放つフクロウの射手。
放たれた矢は幻雷迅の軌道を先読みして真っ直ぐに落ちる。
しかし鮫の力を加えた鵺忍者は舌打ちと共に右腕を振るう。
あわせて背ビレの刃に沿って水が鋭く伸び、矢を切り裂く。
水刃はそのまま矢のみならず、射手をも切り刻もうと伸びゆく。
が、それでおとなしく斬られてくれるほど甘いわけもなし。
フクロウは鳥のように飛べるとはとうてい思えない硬質な翼を羽ばたかせて上昇。
勢いの鈍った水の刃から悠々と逃れて次の矢を。
対して幻雷迅は、電柱に食いついたフックを解除。腰へ巻き戻しながら、柱を蹴る。
「おおおッ!!」
低く唸るような声を後に残しての三角跳び。
しかし矢をかわした跳躍の軌道は、上昇して間合いを詰めるではなく、逆に離す方向へ向いて。
射撃武器を近接武器で相手にしているにもかかわらず、間合いを開けるという下策も下策。
それに意表を突かれたのか、フクロウは次の矢をつがえたまま、狙いも引きも不充分なまま手放す。
ただ風と重力に流されて、幻雷迅を掠めもせずにひょろりと空を切る矢。
その間に幻雷迅は射手に背中を向けて屋根を駆け出す。
脱兎の如く。
まさにその言葉の通りに、鵺忍はフクロウとの距離を開ける。
『お、おいィ!? なんで逃げるッ!?』
「付き合ってなんかやれないからさ!」
幻雷迅は戸惑うエッジに短く返して、呆然とするフクロウを置き去りにする。
そこでようやく我に返った、人形じみたフクロウの射手。白黒させるようにそのスコープじみた目を輝かせて羽ばたき追いかける。
慌てて追いかけながら、しかし決して過剰に間合いを詰めることなく矢を射掛けるフクロウ。
幻雷迅はそれを肩ごしに見上げて確かめるも、ただ降ってきた矢を避けるだけ。逃げ足の勢いをまるで緩めない。
上体を振り、跳躍と同時に放ったロープでの空中機動。着地を狙ったものは捕まえて、その次の矢を迎え撃つ盾に。
そうして逃げた先には、また別の幻想種が。
空を泳ぐ大タガメといった風なその怪物は、幻雷迅の接近に複眼をざわめかせる。
『アレが狙いってことか!?』
一目散に逃げる大タガメ。心命力収集班長らしきこの幻想種の姿に、額当てのエッジが納得の声をあげる。
いちいち襲撃者を丁寧に相手どるのではなく、こちらが標的としたものを優先する。
幻雷迅が躊躇なく背を向けて逃げたのは、こういう目的があったのだと。
「そのうちのひとつな!」
幻雷迅は仲間にそう返すと、背を狙う矢を跳びかわして、手裏剣をタガメへ。
しかし円盤状の雷は上から降ってきた矢に狙撃。標的を打つ前に弾けて消えてしまう。
「ぐ!?」
幻雷迅は爆散する雷光から視覚を庇うように、左腕を盾に。
そんな鵺忍と大タガメとの間に割って入る様にして、矢を引き絞ったフクロウの人形が。
かわすことも受け止めることもどうしようもない至近距離。
弓本来の間合いではない。だがカウンタースタイルでの必中の確信に、フクロウの作り物めいた顔に笑みの色が浮かぶ。
「もらったぁあッ!!」
だが幻雷迅はその確信を押し潰すほどの鋭い気合を放ち、加速。
そのため、フクロウの左の弓から放たれた矢は僅かに狙いが逸れ、幻雷迅の硬質な仮面の頬を掠めて後方へ。
そこから幻雷迅は体の陰で振りかぶっていた右腕を突き出す。
鋭く抜き手に研いだ指先は、身を捩ったフクロウのつるりとした右脇腹の表面を僅かに削り滑る。
だがその後に続く鰐鮫は、サメの背ビレを模した刃は、作り物めいた体に脇から肩にかけて沈む。
そう。これが幻雷迅の本命の狙い。
心命力収集班長を狙う幻雷迅を襲ったことから、タガメの幻想種を守ることがフクロウの目的なのだろう。
だから護衛対象へ攻撃の矛先を向けたのならば、班長を庇うためにこちらの有効射程内釣り出せると見こんだのだ。
仮に見こみと違ってそれほど強制力がなく、体を盾にするほどのものでは無かったとしても、タガメを仕留めて親玉に通じる情報を探ることはできる。
空飛ぶタガメに接近できた段階で、どちらに転ぼうが幻雷迅の狙いからは外れない。
つまり、すでにこの勝負の決着は幻雷迅の手の内に収まっていたということなのだ。
食い込んだ鰐鮫の刃に、フクロウはわずかに身悶え。
しかし一たび入った刀は、まるで豆腐に包丁を入れるように硬質なその体を両断していく。
右腕と翼を残した胸から上。そしてそれ以外。
二つに分断されたフクロウの射手。
それが重力に引かれ出すよりも早く忍者戦士はすれ違い、その勢いのまま後ろに庇われていたタガメへ。
化けタガメが反応する間も無く、その複眼の間に刃が入る。
そしてそのままタガメの幻想種をも真っ二つに切り分ける。
断面から広がる青い円陣。
それを背に、幻雷迅は正面にあった民家の屋根を足場に跳躍。バク宙に反転する。
そして身を翻したままにフクロウの頭をつかむと、その勢いのまま射手の上半身を浄化陣から引き剥がす。
「迅流鋭命! 清めよ、その幻影ッ!!」
無力化したフクロウの一部を確保して、幻雷迅は浄化の言霊を詠唱。
残りは無用とぴしゃりとした声に続いて、空に浮かんでいた二体の残骸は青く爆ぜる光に消える。
「さて……頼むぞ」
『だとよヨナキ。休んでる分きっちりやれよ?』
契約した仲間に主導権を渡し、裏に引っ込んでいるヨナキへ向けての一言。
それを受けて、フクロウの頭を掴んだ幻雷迅の左手から黒雲が広がる。
もくもくと分厚い雷雲。
それはフクロウの頭のみならず、残った胸から上の全てを包もうとする。
敵黒幕との繋がりの強さで言えば、収集班長にも勝るとも劣らないだろう。
否、アラクネ人形を含めた奇妙な集団形態からすると、むしろより有用な情報が奪えると期待できる。
「む!?」
だが幻雷迅は微かなうめきに続いて雷雲に突っ込んだ手を手放す。
そして鵺忍がその場を飛び退いた直後、無数の細いものが煌めき走る。
四方八方から幻雷迅を襲った無数の糸。
それは今の今まで幻雷迅がいた場所に、一瞬でクモの巣を網上げる。
「この糸!? このクモの巣!?」
見覚えのある目の前の攻撃痕。それにスモークバイザーの仮面から驚きに引きつった声が。
そして着地した幻雷迅の足元が裂ける。
「しまッ!?」
がくりと下がる屈強な忍者戦士の体。
その瞬間に、幻雷迅は右腕の鰐鮫から水を放つ。
近場の風呂桶を当てに潜り渡って脱出するための布石としての水の散布。
しかしすぐ頭上に展開した水がかぶってくるよりも早く、幻雷迅の体は裂け目の奥へと引きずり込まれる。
「う……おおッ!?」
『なんじゃあこりゃあッ!?』
引きずり込まれた先。その光景に堪らず声を上げる幻雷迅とその額当て。
まず正面にあるのは白く乾いた塊。
凹凸激しい表面を持つそれは巨大な球体なのか、ゆるりと丸く弧を描くように拡がっている。
続いてその球体に引かれるように、宙に浮かんでいた幻雷迅の体に力がかかる。
空高くから飛び降りたような。そのような感覚でみるみるうちに視界いっぱいを埋め尽くすようになる白い塊。
仮に地上の丸さを認識できるほどの高さから体一つでダイブしたとしたら?
成層圏まで飛べるヒーローがいたとしても、何もせずにただ落ちてしまえば無事で済むはずがない。
「とにかく、落下の勢いをッ!」
その想像に幻雷迅はぐんぐんと近付く塊に対して四肢を広げて抵抗を強化。ブレーキを試みる。
「んな!? 全ッ然緩まないッ!?」
が、一向に落下速度が落ちる気配はない。
普通は大気との接触面が増し、その抵抗で多少なりは速度が緩むものであるはずなのに。
にも関わらず、落下の勢いはまるで緩まない。つまり、このことから導き出される答えは一つ。
「ここ、空気ねえのかよォオオッ!?」
仮にまったくのゼロでは無いにしても、地球の数パーセント程度の濃度。そして地表を僅かに覆う程度の厚みしかないのだろう。
なお幻雷迅は変身さえしていれば潜水していても問題なく活動できるほど、呼吸の補助は充実しているため、周囲の空気の有無は関係ない。
『おい! どうすんだよぉッ!?』
成す術もない超高高度スカイダイビングを強いられた現状に、額当てのエッジもまた悲鳴じみた声を上げる。
努めて落ちついて考えてみれば、空気がゼロに近いほど薄いということは、それをつなぎ止める引力、重力もまた弱いということ。
地球上で落ちることと比較すれば、まだ緩やかなことは確か。しかし同時に、微弱といえど巨大な塊に引き寄せられているのもまた間違いない。
衝撃が地球比の何割かに収まったところで、膨大な破壊力が幻雷迅を襲うのは確定しているのだ。
『お招きしておいて、まことに申し訳ありません』
そんな中、幻雷迅は不意に届いた声にその頭を巡らせる。
『タイムアップでございますゆえ、ここでお帰りください』
帰還を促す声。
へりくだってはいるが相手の意思など眼中に無いそれに続いて、不意に幻雷迅の落下にブレーキがかかる。
「ぐぅッ!?」
体前面に食い込むものに幻雷迅がうめき声を漏らす。
そこから反射的に動く間すらなく、広げていた両手足は糸に絡めとられてしまう。
『ドコに縛ってるってんだ!?』
額当てのエッジがわめくとおり、支えになっているものは何もない。だが、細くしかし恐ろしく剛健な糸は、忍者戦士の屈強な体を見事に空中に支えて見せる。
こうして、どうにか正面の巨塊の小さくも真新しいくぼみになるのは免れた。
『アラタ』
だがそれもつかの間。微かながら、しかしはっきりと何者かへ呼びかける声が響くや否や、幻雷迅の腹を何かが突き上げる。
「ごぶ!?」
重い。重い衝撃。
変身していなくては、確実に上半身と下半身が泣き別れになっていたであろうそれ。
それは空にはりつけられた幻雷迅の腸を押しつぶして、落下にかかっていた力すべてを一点から跳ね返す。
四肢を縛る糸は弾けるように千切れ、一気に持ち上がる幻雷迅。
そして怒濤のごとき浮遊感に襲われるまま、その身は白い巨塊の前から弾き出される。
身を覆う大気。そしてかき混ぜられたそのうねり。
それをヒーローじみた忍び装束ごしに実感するや否や、見えないなにかにのしかかられる。
幻雷迅の体はその力に圧されるままに、固い地面へ。
そして跳ね返されると、二度、三度とボールのように路面を弾み転がる。
「う、うぅ……」
舗装された歩道。そこにうつぶせに落ちついた幻雷迅。
その体は苦痛に絞り出すようなうめき声のあと、黒い雲に変わって孝志郎の体からはがれる。
『おい! 孝志郎!? 孝志郎!?』
「げ、がふ……おぅ」
右手中指のヨナキの指輪が呼びかければ、孝志郎は悶えるようなむせこみまじりに返事を。
『おお! 返事はできたか!?』
「げ、ぐ……それより、奴らの居場所は? 契約者は?」
苦しんではいる。が、意識の鮮明な相方の様子に喜色を浮かべるヨナキ。
対する孝志郎は自分のダメージ以上に、敵の情報に注目する。
『……スマン』
しかし、孝志郎の問いにヨナキが返したのは短い詫び。
それに孝志郎は歯を食い縛り、無言で続きを促す。
『あの場を満たしていた心命力はゴチャゴチャに混ざりあっとって、誰かのモンだとは分からなんだ……スマン!』
危険を侵し、痛みを負ってまで得た成果。それが手ぶらも同然という有り様に、孝志郎はただ固い地面に爪をたてることしかできなかった。
「……ちっくしょお……!」