減感作治療は
「……しろさん、清白さん」
肩を叩かれ、やけに重いまぶたをゆっくりと開けた奏は、そこが誰かの車の中であることに驚き、そして自分を起こした相手を見て、ここに至る経緯を思い出した。
「起こすのも申し訳ないかと思ったんだけど、寝顔ずっと見てるのも何かイヤラシイかなと思って」
どこまでもさわやかな笑顔。
涎でも垂らしてもいなかったかと慌てて手の甲で口元を拭う奏に、朗太は思いついたように、ああ、と口にした。
「清白さんって、マジで化粧してないんだね。色白いし、唇赤いから、ちょっとはしてるもんだと思ってた。みんなすげえ睫毛とかつけてんのに」
「不器用だからできないだけよ」
「いやいや。元がいいから必要に迫られないだけでしょ。めがね取ったらめちゃ美人だもん。あ、会社、これからも眼鏡かけてきてくださいね。そのダサいやつ。競争率あがるとヤダから。で、すみませんけど、5分くらい歩いてもらいますね。大丈夫です?」
矢継ぎ早に言われて、寝起きの頭では噛み砕くことができないまま、それこそ引かれる牛のように目当ての店まで連れていかれた。
そこは中華料理店で、だからと言ってラーメンやギョーザの注文が飛び交うような店ではなく、陶器に入ったスープの出てくるような、そんな店だった。
「ねえ、ここ高くない?あたしだって意地悪したんだから。あっちの中華レストランでいいわよ。っていうか別に中華じゃなくたって……」
「やだなあ清白さん。男のメンツってもん考えてよ。こういう時は黙って奢られるのが大人の女性ってもんですよ。はいはい。入って入って」
朗太はレディーファーストとばかりにドアをあけ、奏を促した。
さっそく現れたウェイターに朗太が名を告げれば、お待ちしておりましたと頭を下げ、席へ案内された。
奏が眠っていた間にどうやら予約でも取ったらしい。
朗太の手回しの良さに、女慣れを感じた。
「わー、なんかキンチョーするっ。女の人と二人でこんなとこ来んの初めてだから」
「あたしなんて男の子とじゃなくても初めてよ。言っとくけど、あたしお金持ってないからね」
「くどいなあ、清白さん。どんだけオレ信用ないかなー。それにオレ、男の子じゃなくて。オ、ト、コ、です」
子と男の部分にアクセントをつけ、心外だなとばかりに眉をよせた朗太だったが、次の瞬間また屈託のない笑顔を見せた。
「ああー!さっき初めてって言った?よっしゃ!清白さんの初めて一個ゲット!!」
恥ずかしいセリフを恥ずかし気もなく口にできる人間を見るのも恥ずかしい。
……ありえねー……。
「何にします?」
朗太がこちらにむけて差し出すメニューを、押し返して肩をすくめた。
「わかんないから何でもいいわ」
「はは。実は俺もわかんないから、お任せでいいかな?苦手なものは?」
聞かれて「あんた」と口にしそうになったが、そこはもう成人した社会人として留めておいた。
「中華」
「えええええ!?」
メニューを覗き込んでいた朗太が、慌てたように顔をあげる。
「嘘よ。ないわ。オールオッケー。不味くなきゃいいわ」
朗太は眉を上げて何か言いたそうな表情を見せたが、取り立てて言葉にはせず、慣れた様子でオーダーを入れている。
……何が緊張する、だ。
「堂にいってるじゃないの」
「えー、いっぱいいっぱいすよ、今。清白さんにこれ以上カッコ悪いとこ見せらんないからね。
本当に昨日はすみませんでした!!」
朗太は神妙な顔つきになると、テーブルに両手を載せ、オデコを擦り付けんばかりに頭を下げた。
「だからもういいって」
奏の言葉を受け、頭をあげた朗太は、打って変わっての笑顔を見せていた。
なんだか謝罪の価値が薄れるような変わり身の速さだ。
「で、確認なんだけど、相良さんと付き合ってないんだよね!?」
「ない」
「じゃ、もひとつ。俺のこと、嫌ってる?」
「嫌える程、あんたのこと知らないけど、かなり苦手よ。私、真正面からっての苦手なの。ひねくれてるから」
コーナーを狙ったようなボールは得意だったけど、真っ向勝負みたいな、一対一のボールは苦手だった。
「よかった」
何が良かったのかと朗太のニコニコ顔を見返せば、朗太は少し首を傾げて口を開いた。
「苦手は克服できるもんすよ。なんで、てっとり早く俺と付き合いません?」
それこそどまん前から蹴られたボール。
つい視線を逸らして、ちょうど届けられた前菜に目を向ければ、耳に朗太の笑い声が届いた。
「飯の話じゃないですよ。俺と、交際してくださいって話。ほら、杉の花粉症の人に杉のエキス塗って慣らす、みたいな治療法あるでしょ?あんな感じで」
それは、さも単純な、簡単なこととばかりの口調だった。