第八話 痛み、始まり
ずっと昔の話だ。
何学生の時かも何年生の頃かもわからない。
でも、確かにあった。
そんな話。
人の目を見て話しなさい。
昔、よく怒られたものだ。
それは、人とのコミュニケーションを真面目にしろという意味であったり、嘘をつくなという意味であったりする。
だけれど、私は、違った意味で人の顔を見て話すということが出来なかった。
いや、違ったというか文字通り、人と向かい合わせで互いの顔を見合わせて話すということが苦手だったのだ。
いわゆる話し下手な子。
それが私だった。
でも、言い訳と言ってはなんだけれど話をすることは下手であって苦手ではなかった。
家では、親や兄弟とならいつまでもいくらでも話ができた。
話題が尽きず、飽きもなかった。
貪欲と言っても過言ではないくらいに話しに話した。
しかし、いざ、友人(今考えれば友人と言って良いかわからない)やクラスメート、あるいは初対面の人と話すとなると話が違ってしまった。
話が出てこない。
いや、それも違う。
喉元まででかかった、無数の言葉が消えて行くのだ。
だからたいがい私は聞き役になった。
彼らの話す、どうでもいい言葉の羅列を、常識の域を出ないつまらない情報をただ利き耳から反対の耳へ聞き流す。
それでも適当に相槌をうっていたら、勝手に聞き上手という称号を与えられていた。
聞こえはいいが、結局のところ無口な奴。
話す話題のない、つまらない奴。
話すことのなくなった人々は私から離れて行く。
一体私をなんだと思っているのだろう?
いや、そもそも私はなんだというのだろう?
耳元で誰かの声が響いていた。
私は、それを認識しない。
理解しない。
それでも私は聞き上手。
相談事ならどんとこい。
適当に、適切に、望まれるまま、求められるまま、頷いてやる。
そして、みんなは私の周りからすこしずつ、すこしずつ離れて行く。
言いたいことを言って、吐いて、楽になって。
私はそれを見ている。
でも、踏み出しはしない。
声を出しはしない。
実は、好きなのかもしれない。
聞き上手という立ち位置が。
居心地は割と良かったのかもしれない。
だから、一か八かの賭けよりも緩やかに朽ちて行く道を選んだ。
そんな私は卑怯で臆病。
殻の中に閉じこもって、その中の快適さを、まやかしの温かさを振り切ることができない。
そして、私の周りからは誰もいなくなった。
私は、聞き上手という殻の持つ磁力すら失い、誰を惹きつけることもできない口下手と成り果てた。
知ってはいたけれど、わかっていたつもりではあったけれど、一人は辛い。
一人は恐い。
私は…情けなくなるくらい、自分で同情してしまうくらい、弱くて脆い存在だった。
そんな私の殻を誰かが叩いた。
軽くノックするみたいに。
こんこん、誰かいますかぁ。
「おーい、ちょっといいかな」
少年は私の目の前に立っていた。
久しぶりの来訪者。
しっかりと準備しなければ。
私は聞き上手じゃないけれど、それを演じなければならない。
でも、あれ?
これって、質問?
答えを、求められている。
いや、でも、私は…。
「ねえ、どうしてそんな困った顔するのかな?もしかして、僕、嫌われてる?」
少年は肩を落とす。
芝居がかったふうもない。
本当に、落ち込んでいる。
私に、何かを求めている。
「えと…そ、の…別に…嫌いでは…ない…よ…」
私の殻は相変わらず硬い。
なんとか飛び出した言葉は途切れ途切れで音量も小さくて、自分で批判してしまいたくなるくらい話し下手。
ああ、嫌だ。
彼も聞きづらそうだ。
でも、なんで?
そんな風に、聞こうとしてくれる?
聴こうとしてくれる?
くだらない、私の言葉を。
聞きづらい私の声を。
ああ、でも、なんだろ?
心地いい。
彼は私の方に耳を向けて、私の声を必死に聞き取ろうとした。
長髪とまではいかない長さの黒髪の耳にかかった部分をかきあげ、そんなに効果はないだろうに、私の身長と合うようにほんのちょっとだけ腰を落とした。
なに、それ。
話しちゃう…よ?
いいのかな…。
私は、私は。
「よかった。君のクラスに沙耶って子、いるでしょ?用があるんだけど…呼んでもらっていい」
他クラスはいるの苦手なんだ。
なんて彼は笑った。
私に、笑いかけた。
爽やかな笑顔に、人の好意になれない私は、情けないことに、せっかくでかかった言葉を結局飲み込んでしまう。
「う、うん。いいよ…ちょっと待ってて」
沙耶ちゃん…ああ、あの子だ。
あんまりクラスでは話す子ではないけれど、可愛いと評判な子。
私とは違う世界に住む子だ。
私はすぐ後ろにある自分のクラスのドアを開く。
すこしだけ、理不尽な悔しさを、やるせなさを胸に呼びかける。
「さ、沙耶さんっ!呼んでるよ」
勇気をふりしぼっていたけれど、そのわりに小さな声になってしまった。
それでも、なんとか沙耶ちゃんは気づいてくれた。
「はーい」
席を立ち上がり、とてとてと走ってくる。
髪の毛を結わえる大きなリボンが揺れる。
細い太ももがスカートと靴下の間からチラチラのぞく。
彼女と私との距離がゼロになって初めて、沙耶ちゃんのことをしたの名前で呼んだことに気がついた。
彼がそう呼んだから、こういうのに慣れていなかったからつられて…。
仲がいいわけじゃないのに、馴れ馴れしかったかな…どうしよう…。
私は、すこしだけ、慌てる。
でも、そんな心配は必要なかった。
全然、必要じゃなかった。
なんだよ、もう、かなわない。
「よかった。やっと話してくれた。カナコちゃん」
私の脇を通り抜けざまに、彼女は笑顔をたたえて言った。
私は、また、理不尽な悔しさとやるせなさを胸にしながらも、それに答えられなかった。
はじめから、あなたのものなのね。
私の中の黒い私は彼女に言う。
彼女は答えない。
当たり前だ聞こえていないのだから。
「待った?」
彼が言う。
「少しだけね」
沙耶が答える。
「じゃあね、檻村さん」
なんだよ、それ。
私は、困る。
私は、なんなんだよ。
それからだ。
なんのエピソードもなんのきっかけもない、私の勝手な恋情と劣等感が混ざり合った、恋の始まりは。
そして、それは、私の苦悩の日々の始まりでもあった。