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第六話 たこ焼きは好きですか

昼下がり。


ニコニコと満面の笑みで照りつけていた、あのしつこいまでの日の光も、今日は珍しく御機嫌斜めなようで、通りを歩く人々はその久方ぶりに訪れた涼しい一日を満喫していた。


いい天気というのは、基本的に晴れた日のことをさすが、太樹にはそうは思えなかった。


降水確率なしの曇り。


これが一番の天気だと思いながら、空を見上げた太樹は、すでに一時間はそうして待っていた。


というのは人を待っていたのだが、別に、待たされたわけではない、ただ単に大樹が早くつきすぎただけなのだ。


待ち合わせまであと五分。


早くつきすぎて何もすることないから、駅前のベンチに座って空を眺めていたわけではなくて、ただそうしてぼんやりと空を眺めているのが一番気分が落ち着いていいのだ。


ただ時たま思うのは本を持ってきていたらもっと良かったのにと言うことだけ。


大樹はわりと本が好きだった。


だけれど、とても人に読書が趣味ですと言い張れるほどではなくて、気乗りした時に気になった文庫本を手に取る、そんな具合だった。


そんな時に読みたくなるのはいつも、少し厚いもので、同級生にはよく勘違いをされた。


文学少年だとか、読書マニアだとか。


ひどい時には活字おたくとか。


そんなところからも人は物事の表面で決めつけてしまうところがあると言うところを発見した太樹だった。


まあ、そればかりじゃないけど。


大樹がふっと顔を正面に向ける。


パタパタと言う足音。


風をまとって走ってくる彼女は相当焦っていた。


まだ、二分あるのに。


「ご、ごめ…わ、私…」


「大丈夫。大丈夫」


対する太樹は笑いながら、広場の時計塔を指差した。


『1時45分』


「良かったあ」


ようやく、肩越しに時計を見た彼女が息ついた。


「まあ、僕のことなんて気にしなくていいのに」


こんな日は暇な時間も楽しいんだから。


大樹が笑うと大真面目に彼女は答えた。


「お母さんが言ってたよ。五分前行動しないと早く大人になれないって」


ムッとした顔はほおがプクリと膨らんでいた。


真っ赤になったその表面に玉の汗が浮かんでいる。


「早く大人になって、いいことってあるの?」


「わかんない。でも…お母さんが…」


「そもそも大人ってなんなのさ?」


「そ、それは…な、なんだろうね?」


「いやいや、それわかんなきゃなりたくてもなれないでしょ」


「うーん…そうかぁ…考えたことなかったなあ」


ドラマの中の子役みたいに大げさに首をかしげた彼女を見ながら、そもそも何かについて深く考えたことなんてあるの?と聞きたくなった太樹だが、それは言わないでおく。


そこまで言うのはからかうと言うより、いじめだ。


それに、大人がなんなのかなんて、大樹にもわからない。


それについて深く考えたことだってなかった。


それは、結局彼女と同じなのだ。


お母さんが決めたルールに従って、待ち合わせの五分前に着くために駆けてくる彼女と何ら変わりない。


そう考えると、自分は幼稚だなと太樹は思う。


彼女を見ていると、より、そう思うのだ。


だから、か?


無償にからかいたくなるのだ。


「それじゃあ、行こっか?」


太樹がベンチから立ち上がる。


「うん。行こう」


彼女はいつものように笑った。


きっとさっきの質問ももう忘れてしまったのだろうと勝手に結論づける。


彼女は柔軟で、でも、それはある意味では違ってて…。


ただ、忘れっぽいだけなのかもしれない。


でも、太樹だって彼女から教えられたことが少なからずあった。


たくさん、あった。


だから、こうして彼女のお願いにだって付き合うのだ。


恩人だから。


「うーんと、行こうとはいったけど、どこに行きたいの?」


「べ、別に………太樹と一緒ならどこだっていいんだけど…」


「ん?行きたいとこないなら、何で呼ぶのさ」


「はぁ…どうして太樹はそんなに残念なの?」


彼女がなぜか肩を落とす。


夏とはいえ、今日のような涼しい日にはそぐわないような薄着から、少しだけ胸元が覗きそうになる。


「さ、さあ…ね…」


慌てて顔を少しそらしながら、答える太樹。


「いいわ。決めた!今日は大樹改造計画と行きましょう!」


「いやいや、人をそんなロボットみたいな…それも試作品みたいな存在にしないでよ」


「人間はみんな試作品なのよ。それを人生と言う時間の中で少しずつ、改造して完成するのよ」


彼女はえっへんとほとんどない胸を張る。


これに反応するとは、僕は変態なのか?


「なに?そのいいこと言ったでしょ私!みたいなポーズと表情は?」


「ふふふ…ナギさん名言集九ページ四行目ね」


「なにそれ!いつの間にそんなの出来上がってたの?」


「自作自演よ」


今度は急に肩を落とす。


「いやいや、そこで認めちゃうの?」


「一応定価五千円なんだけど…」


「たかっ!設定たかっ!絶対普段本読んでない人の意見だよね?それにきっと迷言集だよね、それっ!」


「そうだよ。名言集だよ。さっき言ったじゃない。それに…まあ、普段本は読んでないけどさ…」


さらにどんよりとした空気に包まれたナギ。


彼女は一度落ち込み出すとどんどん負の連鎖を起こし、しまいには自分を嫌いになるという性質の持ち主なのだ。


太樹はせっかくの休日を落ち込んだナギを元気付ける時間にしてもよいと思えるほどのお人よしではない。


…ていうか、迷言ぐらいわかってくれよ!


と、言いたかったけど我慢だ我慢。


「うん。まあ、でも、本読んでるやつは僕みたいに暗いやつ多いからさ、案外読まない子の方が…」


「そ、そうよね?太樹はアレだもんね?クラスでめっちゃ嫌われてるもんね?」


「立ち直りはやっ!しかも、そんな古傷をズバズバ切り開いちゃうの?」


「生傷でしょ?」


グサリとナギの言葉が太樹を貫くが、なんとかそれに耐える。


全く、あつかいが辛い。


「ま、まあ…そうだけどさ…」


「ふふん。なにせこのナギさん以外話しかけてくれる人ゼロという奇跡的な状況に置かれてるものね」


「そんな奇跡は今後一切起こらないで欲しいけど…」


「そうね。でも、私としてはこの状況が嫌でもなかったり…」


真顔でそんなことを言うナギにすかさず太樹が噛み付いた。


「この、ヒトデナシっ!」


「あら、悪口は言った方がその通りになるそうよ。このロクデナシ」


「言ったそばから言い返してるじゃないかっ!」


「まあまあ怒らない怒らない」


なだめすかすように、太樹より少し高い位置から手を差し出して、ぽんっとその頭にのせる。


いつの間にかナギのペースにのまれていた太樹はハッとし、それから、頭にのせられたその柔らかな手のひらの感触を楽しんだ…と言ったら変態と思われそうだから、嫌そうに首を振る。


「なにするのさ!」


プーと赤くなって行くほっぺたや耳やらが熱かった。


ああ、くそ、夏到来。


「素直じゃない子は身長伸びないぞ?」


「う、うるさいっ!」


コンプレックスをつつかれ、怒っているのと恥ずかしいのとで、もう太樹の身体中がカッカし出す。


「へへー、でもでも、太樹が身長伸びたら、ちょっとまずいかなぁ」


「ど、どういう意味だよっ!」


「別にぃ。それより、そろそろ行きましょう。とりあえずデパートで太樹の改造部品を買い集めないとね」


「その設定まだ続いてたんだ?しかも、改造部品がデパートで買えるの?そんなちゃちな感じでいいの?」


「あら、最近だとスーパーでも良く見かけるわよ?」


「スーパーにゃ、ないでしょう?そんな野菜みたいな扱い受けてないでしょう?」


「昨日も特売だったし!」


「なにをたのしそうに嘘ついてんのさ!じゃあ特売品買っとけば良かったよね?」


「まあ、デパートの方が楽しいじゃない」


「やっと本音でたぁっ!長かったね、ずいぶん遠回りしたね、うん」


「それに、ほら、その…」


不意にナギがもじもじと自分の指をいじりだした。


顔はうつむいて、ナギらしくない態勢だ。


いったいどうしたのだろう?


「いい、やっぱり、いい!なんでもない」


そう強く言い張りながら、くるりと太樹に背を向けたナギ。


身につけたタンクトップの裾が風で揺れ、手に持っていたカバンがカシャカシャと音を立てた。


ようやく、機嫌を直したのか、日がな一日地上に顔を出さなかった日が急に現れ、太樹の視界を奪った。


だから、太樹には見えなかった。


見えない方が良かったのか、見えた方が良かったのかは、今でもわからないけれど、とにかく、それを見ることは、知ることはできなかったのだ。




散々言い合って、予定よりだいぶ遅れて入ったデパートはお昼時なのに、案外空いて見えた。


レストラン街が五階にあって、太樹たちがまだ一階フロアーを歩いていたからかもしれないし、このデパート自体、あまり人が入らないのかもしれない。


一階は化粧品売り場が主で、太樹は至極いづらかったが、傍のナギがキラキラした目で周りを見渡しながら、ご機嫌にその場でくるくる回り出す始末だから、仕方なく、その横を歩いていた。


そんな様子のナギがいつもより女の子らしく見えて、太樹は感心しながらその様子を眺めていた。


すると、不意に視線に気づいたナギが太樹へ向き直る。


血色の良い肌が熱でさらに上気していた。


そこに広がった笑みに太樹はどきりとする。


「どうしたの?」


柔らかそうな唇が上下して、声を紡ぎ出す。


太樹はわりとナギの声が好きだった。


聞いていると、心地よくて、なんだか落ち着く、そんな声。


だが、この時ばかりは落ち着かなかった。


顔の距離が近すぎるし、なんだか…。


「いや、その、なんだ…ナギも女の子なんだなと思ってさ…」


「っ⁉うわあ…これはナギさん傷ついたね…かなりこっぴどく心を傷つけられましたよ、はい」


ナギがご機嫌だった顔を演技でもなんでもなく、あからさまに陰らせた。


これは明らかに太樹が悪いが、どう返したらいいか言葉を見つけられず、黙っていた。


「………」


「ふーん。わかった。わかりました。もうナギさんは怒ったよ、非常に、たいへん、怒りましたよ。こうなりゃ太樹のおごりでたくさん食べるよっ!やけ食いだよっ!」


ナギはそれだけ言うと、エレベーターへ駆け出す。


タイミング良く開いていたエレベーター。


太樹もやれやれと置いていかれないように、走りだす。


そうして、前方にそれは見えてしまった。


取り出しかけた財布をしまって、足は止めないまま焦って時計を見た太樹。


『7月19日・PM2時10分・40秒』


そして、前方に見えるナギの背中には…


『七月十九日十四時二十分四十五秒』


まただ。


また、青く光る数字が…。


よりによって、どうしてっ!


ナギなんだよ…なんで…。


「はやくはやくー!」


怒ってたくせに、エレベーターにたどり着いた途端に笑顔で手を振ったナギ。


太樹はそれを見たくなかった。


「これでも急いでるんだよ」


必死で今にもこぼれ出そうな涙を堪え、走る速度をあげる。


なんでなんで、なんでっ!


やっぱりかかわらなきゃ良かったんだ…どうせみんな、みんな…置いて行くんだ…。


いつの間にか、エレベーターの扉が閉まりかけていた。


乗っている他の客がふざけたのかもしれないし、間違えて押してしまったのかもしれない。


少しずつ、少しずつ、ナギの顔が見えなくなる。


「ちょ、あの、まだ彼が乗るんですけど…」


そういいつつ、スイッチに手を伸ばしたナギ。


でも、遅かった。


チーンという音と共に扉は完全に閉まり、何階なのか、目的地へと客たちを引っ張り上げて行く。


「くそっ!ふざけんなっ!止まれっ!止まれよっ!!」


柄にもなく太樹は叫んでいた。


ガンガンと鉄かなにかでできた扉を拳が痛くなるほど叩いていた。


近くのショップの女性店員が数人、次のエレベーターを待つ客のほとんどが驚いて、奇異なものを見る目で太樹を見ていた。


だが、そんなの御構い無しで、散々扉を殴りつけてから、ふいに冷静になった頭で考えて、ようやく階段の存在を思い出す。


そのままエレベーターホールにほど近い白い塗装の真新しい階段をダンダンと登って行く。


きれた息も、運動不足のせいかガタガタする膝も関係ない。


今は、もうただ死に物狂いで走るしかなかった。


あいつはどこに行った?


やけ食いとか言ってたよな…だから、レストラン街か…。


レストラン街は…五階か。


そうしてようやくたどり着いた五階フロアの二つ並んだエレベーターはどれも上がってくるのを待っていた。


間に合った…。


ホッと胸をなでおろしてから、馬鹿かと自分をののしる。


何も解決してないじゃないか。


なにも…何も変わってないじゃないか…。


チーン。


開いたエレベーターの扉。


現れた彼女の顔。


わかっていても、一瞬だけ安堵する。


まだ、大丈夫。


いつまで?


だが、もう時計を見たくなかった。


泣いても笑っても、あと十分しかない。


立ち向かうことができるだろうか?


防ぐことなどできるだろうか?


そんな太樹をナギが驚いた顔で見つめていた。


当然だろう。


クーラーの効いたデパートの中で汗だくの上、置いていかれたエレベーターの目的の階に立っているのだから。


「太樹?どうしたの?そのかっこ」


まだキョトンとしたままのナギが言った。


指差した先には、体に張り付きそうなくらい汗を吸った太樹のTシャツがあった。


「………はぁ…はぁ…」


「あら、その様子だと、階段を登ってきたのね。そんなに私におごりたかった?じゃあしょうがないわね。たくさん頼んであげるわよ」


そう言って、一人で納得してしまい、おそらくカレー屋さんを目指して歩き出すナギ。


その足取りは軽い。


彼女はカレー好きなのだ。


それも辛ければ辛いほど言いらしい。


「ちょ、ちょっと待って…」


太樹は夢中で呼び止めた。


すると、少しペースを乱された彼女が長い髪を揺らしながら、振り返る。


「うん?」


少しだけその表情がご機嫌ななめになる。


でも、ダメだ。


料理が出てくるのなんて、待ってられない。


じゃあ、どうする?


「そ、そうだ。ナギはたこ焼き好きだったよね?」


「うん。好きだけど…カレ…」


「よし、良かった。じゃあ、たこ焼き屋に行こう」


彼女の意見を遮るように太樹が言葉をかぶせると、仕方ないわねえと彼女は頷いた。


「いいわ。でも、一パックじゃダメよ。八個入りにしろ、六個入りにしろ、絶対二パックは食べるからね?」


「はいはい」


二つ返事しながら、半ば強引に彼女の手をとる太樹。


彼女の手はとても熱かった。


握っているこっちまで、その熱で燃え上がりそうな熱さだった。


その上、それはだんだんと温度をましているようにさえ感じられた。


「ちょ、ちょっと…大丈夫だからっ!は、はなしなさい…べ、別にはなさなくてもいいけど…」


「そもそもたこ焼きなんてデパートにあるのかな?」


「言い出しっぺがなに言ってるのよ!」


「本当だ。なにいってんだろ…本当…」


「へ?なんで落ち込んでんのよ?ちょっと…っていうか、速すぎっ!足もつれそうだからもうちょっとゆっくり…」


「それはできないっ!」


大声になっていた。


走りながら、大声なんて出したことなかったから、ひどい声になったし、息が苦しくなった。


「太樹らしくないわね…なんかあったの?」


「い、いや…別に…なにも…なにもない。なにもないよ…本当」


「まあなんでもいいけど、デパートにもたこ焼き屋さん、あったみたいよ?」


赤い生地に黒い文字で『たこ焼き』とかかれた旗を彼女が指差していた。


本当に…あったんだ。


でも、あったから、なにが変わる?


何も変わらないじゃないか。


散々探したくせに、見つけたら、この場違いなたこ焼き屋に八つ当たりしたくなった。


膝に手をつき、背中を折って、息を整える。


そんな時間が欲しいけれど、そんなのよりずっと大事なことがある。


太樹は息の上がったまま、たこ焼き三パック!と声を張り上げた。




「おいしーい!このソースがなんとも言えないわね!ふふーん」


太樹の奇行に付き合わされ、少々ご機嫌ななめだったお姫様も気を利かせておいてあったベンチに座ってできたてのたこ焼きを一度食べてしまえばもうすっかり気分上上だ。


「太樹は食べないの?ならもらっちゃうよー」


太樹の答えを待たずに太樹のパックから爪楊枝でたこ焼きを一つつまむ。


彼女のもう片方の手の中にはまだ四つたこ焼きの入ったパックと手をつけていないパックとがあるのに、なんのためらいなく、行動した。


太樹はいつものように反応できず、ただなされるままだった。


ほとんど放心状態に近い。


「いやあ、それにしてもあるもんだねえ、デパートにもたこ焼き屋がさ」


ふんふんと鼻歌交じりに太樹のたこ焼きを堪能しながら、ナギは言った。


「………」


「覚えてる?昔夏祭りでこんなこと、あったよね。あの時はさ、沙耶ちゃんがいたんだけど、調子崩して先に帰っちゃってさ」


「………うん」


ほとんど反応できない大樹にナギは遠い目をして、話を続ける。


「あの時はまだ、あんまり大樹とは話してなくて、ほとんど沙耶ちゃんとばかり話してたから、気まずくて、ほとんど無言でさ」


てへへと照れ隠しに爪楊枝を持ったてでほおをかいたナギ。


「その時、太樹が言ったんだよ。『たこ焼きは好きですか』って。びっくりしたよー。なんか、大人みたいな言葉遣いだったからさ」


「うん」


ようやく、太樹は頷いた。


よく、覚えている。


人見知りが激しくて、強気な態度でいかないと舐められると思いながらも、踏み込んで砕けた言い方ができなかった。


さみしい自分。


でも、何か話さなくちゃと思って、無理やり目の前に見えた店の旗をそのまま話題にした。


「覚えてるかな?私はそれがあんまりおかしかったから、笑っちゃってさ、一気に緊張が溶けちゃったの。それで、『好きですよ』なんてふざけて大樹の真似したら、太樹も吹き出してさぁ」


ナギの目が少しだけ細められる。


ベンチから投げ出した細くて長い足をぶらぶらさせながら、続けた。


「その時からだよ。私がたこ焼きを好きになったのは」


ナギの目は太樹を見ない。


遠い昔の記憶を。


あの、明るい提灯の群れの中を、建ち並んだ屋台を見ているのかもしれない。


太樹にとってもそれは大切な思い出だ。


でも、今は…そんなのほっといて欲しい。


横にすわる自分を見て欲しい。


そう思うのに、口には出せない。


気持ちははやるのに、たこ焼きが飲み込めないくらい、喉や胸が詰まっているのに、うまく、言えない。


どうして僕はこんなに不器用なんだ。


自分の右手の腕時計がカッチカッチと音を立てている。


普段ならなんともなしに聞き流すその音が、映画の中で見たような時限爆弾を連想させた。


でも、それは僕についているものじゃない。


彼女についてしまっているのだ。


こんなことなら映画の中の爆弾の方がましだと太樹は思う。


外す方法も、無効化する方法もきっとある。


でも、ここにそんなものは存在しないのだ。


泣いても笑っても、青く光るあのタイムリミットからは抜け出すことができない。


それを認めたくなくて、太樹は考えた。


考えて、考えて、考え抜いた。


知恵熱でもなんでも出てくるくらいまで頭を絞り込んだ。


でも、見つからなかった。


なにも、なかった。


自分はあまりに無力だった。


それがわかっていても、どうして、親しい友がこの世から居なくなるのをおとなしく見ていられると言うのだろう?


「そう、なんだ…」


絞り出した声はさっきよりずいぶん音がちいさくなって、語尾はどこか沈んでしまった。


「そのこと沙耶ちゃんに話したら大笑いしてたよ。『太樹らしい』ってさ。もうお腹抱えて床を転げ回ってた」


ナギはまだ過去を見ていた。


嬉しそうにたのしそうに。


好きなCDをラジカセで再生させるように、頭の中でその時の映像を流しているのかもしれない。


太樹はそれを見ていられなかった。


あと、どれだけ時間があるんだ。


そう考えると、ナギの一つ一つの何気無い仕草や言動のすべてが本当に大切なものに思えてくる。


一度体験したくせに、改めて実感する。


時間の大切さ。


友達の大切さ。


そんなこと、恥ずかしくて言えないくせに、こういう時になってわかる、言いたい言葉は一つだけだった。


ありがとう。


それなのに、乾き切った唇を開くことができない。


もどかしい、気持ち。


こんな風になって思う。


信仰もなにも持ってないくせに、『ああ、神様、こんなのあんまりだ』なんて。


「そっか。沙耶らしいや」


「うん。沙耶ちゃんはなんでも笑うから。特に太樹が絡んだ話題ならなんでもツボだよ。足が転がっても笑っちゃう年頃ってやつだね」


「ナギだって、同級生、だろ」


「うわ、そっちに突っ込むんだ?普通、足の方に突っ込むでしょ。そのせいでドジっ子アピールがジジクサさを露見するだけの奇行になっちゃったじゃない」


「まあまあ、アピールなんかしなくても十分ジジくさいよ、ナギは」


「なに悟ったようなこと言ってんのよ…って…」


ようやく太樹の方を向いたナギが目を見開く。


それから、慌ててベンチの空いているスペースにたこ焼きのパックを置いた。


もう、一つしか残っていなかった。


「ちょ、ちょっと、なに泣いてるのよ…」


カシャカシャ言うカバンの中から、綺麗に折りたたまれたハンカチを取り出して、太樹に差し出した。


太樹は言われてから気がつく。


嘘みたいに流れ落ちてくる、大粒の涙に。


へんだな。


最近じゃトラえもんの映画ぐらいでしか泣いたことなんてなかったのに…。


普段なら弱々しくていじめにあう男の子が、いざ危機に立たされて、周りを突き動かすような勇気や優しさに溢れた行動を起こし、ハッピーエンドを掴み取る。


そんな主人公に自分を重ねて、しまうのだ。


そして、泣くのは主人公がじぶんにとって大切な何かなくしてしまう時だ。


ああ、そうか。


僕にとってナギは…あの主人公にとってのそれと同じくらい、大切なんだ。


でも、と太樹は噛み付いた。


現実は厳しいなぁ。


ハッピーエンドを掴み取る、チャンスすら与えてくれないんだから。


ハンカチを差し出したナギの細い腕が、青白い。


それは自然な青白さではない。


認めなければならない。


その時が近いのだ。


でも、時計はみたくない。


「ねえ、ナギ、ナギは将来なにになりたいの」


自分の異変にも気づかない彼女はまだ驚きを隠せないでいたが、太樹の唐突な質問にはしっかりと答えた。


「笑わないでね」


彼女はそうやって前置きしてから、言った。


「美容師になりたいの」


もう彼女の右腕全部がガラスのように透明感を持ち始めていた。


少し明るめのデパートの照明を受けてキラキラと輝く。


最後の輝き。


「どう、して?」


声が震えるのを抑えられなかった。


ダメだな最後くらい、少しはもともに見ていて欲しいのに。


最後という響きが自分で思ったくせに、笑えない冗談のように思えた。


「『女の子は髪型で別人に生まれ変わることができるんだよ』って、これ、誰の言葉か知ってる?」


「知ってる…知ってるにきまってる」


昔の話だ。


ナギが何らかのクラスのいじめにあって、落ち込んでいた時、見かねた太樹が言った言葉。


ボサボサとした髪の毛を指差して、言ったのだ。


『ナギが身だしなみを整えたら、みんな驚くと思うよ。こんな可愛い子がクラスにいたのかってさ』


そして、照れ隠しに続けた言葉。


『女の子は髪型で別人に生まれ変わることができるんだよ…なーんてね』


そんな昔のことを彼女が覚えていた。


それは、太樹にとってとても不思議な感覚だった。


そして、感づく。


ああ、もしかしたら僕もまた彼女と同じように、彼女にとっての恩人になれたのかもしれないなと。


「そっか。良かった」


そういいながら、ナギはベンチに置いたままのたこ焼きに手を伸ばした。


だけれど、自分の手が半分消えかかっていることには気づかない。


気づきようがなかった。


それを伝える意味もない。


伝えたってなにも変わらない。


諦めたくはない。


でも、その時を待つしかできなかった。


「忘れない。忘れないよ。絶対」


震える声で太樹は言う。


その深刻な空気に、ナギは戸惑う。


「どうしたの?さっきから、変だよ、太樹」


なにも知らない、ナギは長い髪の毛を耳にかけながら、いや、かけようとしながら、首をかしげた。


本当になにも知らないんだ。


なにも。


空を切った自分の腕も、ガラスのようになった自分の体にも。


「ねえ、僕と居てさ、楽しかった?」


まだ、震えがおさまらない。


なんだよ、カッコ悪いな。


これくらい耐えなきゃ。


これから、何回見ることになると思ってるんだよ。


でないと、お前が壊れちまうくせに。


「な、なによいきなりっ!そんな…恥ずかしいこと…言えるわけ、ないでしょ…」


「そっか。そうだよね。でもさ、僕は楽しかったよ。ナギが居てくれて良かった。話しかけてくれて、遊んでくれて、なにより、一緒に居てくれて、ありがとう」


太樹は恥ずかしさなんて吹っ飛んで行くのを感じた。


ここで言わなきゃ、後悔する。


絶対に、引きずる。


だから、一生の後悔より、一瞬の恥だ。


そう、思えた。


最後の最後にならなきゃ、こんな風に決意できないんだな、僕は。


踏み出せないんだな。


弱っちいや、情けないや。


本当に、嫌になるよ。


でも、その笑顔が見れただけでいいと思っちゃダメかな?


ナギ。


「へ、変なこと言いながら、また泣くなんて、変な太樹。そんなんだから、友達ができないのよ、もう…」


でもね、と彼女が消えかかったその手を伸ばす。


もう触れることのできないそれは太樹のほうを優しくなぜようとした。


「こちらこそ、ありがとうって、私は心の底から思ってるよ。太樹」


ぱぁっと彼女の体が霧散する。


嘘みたいに綺麗な光となって、大気に吸い込まれて行く。


ベンチに残った、食べかけのたこ焼きはやっぱり一つのままで、開かれることのなかったパックには八つたこ焼きが入ったままだ。


本来なら、彼女は数秒後、どんな照れ隠しをしたのだろうかと考えて見た。


考えてから、自分の失敗に気がつく。


そんなこと、考え出したら、余計悲しくなる。


ポタポタとしめ忘れた蛇口から流れる水みたいに、耐えることなく流れて行く、雫がズボンに、Tシャツに、自分のたこ焼きに雨となって降りかかっていた。


今さら驚いた。


おかしいじゃないか、今日は一日中曇り、降水確率ゼロだってのに。




そんな、夢を見た。


あんまり生々しくて、懐かしいというより、追体験とかタイムスリップを思ったほどだった。


起きた時、気がついた、瞼がうまく開かない感覚。


情けない。


また、泣いていたのか。


彼が言う。


そうだ、悪いか。


太樹は言い返す。


だけど、彼はそれきり口を開かなかった。


「太樹、珍しいな、授業中に居眠りか?」


聞き覚えのある声に顔をあげると彼ではない者が目の前に立っていた。


そうして、彼の顔を見上げる間、ようやく自分が学校にいることを思い出す。


騒がしい教室、大声で怒鳴る先生、書きつけられた数式の目立つ黒板。


ああ、夢か。


夢なのか。


おかしい。


ああ、良かった、夢だったなんて言えればいいのに。


「なあ、カケル」


「なんだよ」


「ナギって覚えてるか?一年の時、お前と同じクラスだった」


「ん?誰だ、そりゃ…ナツキの間違えじゃなくて?」


やっぱり、な。


諦めて首を振る。


「なんでもない。ただの夢だよ」


「おいおい、しっかりしてくれよ、太樹!もうすぐ試験なんだぜ。俺はお前だけが頼りなんだから」


カケルはおおげさに体をのけぞらせた。


少しでもちょっかいだしたりしたら、そのまま後ろに倒れそうなくらいに。


「この前の小テストの時も思ったけどさ」


太樹もカケルに負けないくらい大げさに肩を落とすとともにため息をついた。


「なんだよ」


「カケルは勉強しないだけでしょ。見ててムカつくんだよね、僕が真面目に授業の予習復習して身につけた知識をさ、わからないわからないって言いながら一回教科書読んだら理解できちゃうんだから」


言い終えてからもう一つ深くため息をついた。


今度のはわりと気持ちのこもったやつだ。


実際カケルは要領がいい。


勉強はやる気と教科書さえあれば、学年トップだって狙えるかもしれないほどだ。


その上、カケルの力はそこだけにとどまらない。


スポーツだってすごい。


体育の授業の花形だ。


なにをやらせても、できる。


ただ面白いのは一日目は全然ダメというところで、彼の真価は二日目から発揮される。


バスケに例えれば、一日目はドリブルがまともにできないやつなのに、二日目には経験者のディフェンスをごぼう抜きにして、単身レイアップシュートを決めてしまうようなやつだ。


「そりゃ、本気だしたら誰だってできるだろ?みんな恥ずかしがってやらないだけだ」


カケルは自慢の金髪の前のほうをいじりながら、しれっと言った。


「…やらないだけ…ね…」


お前は才能の塊だからそんなことが言えるんだよ。


そう、言い返してしまいたいのを飲み込んだ。


言ってなんになる?


問いかける。


これは自分の声だ。


彼じゃない。


そして、そのことに安堵する。


僕は僕のままだ。


「ま、いいけどさ、鈍感もほどほどじゃないと嫌われるよ」


「鈍感?俺が?ノープロブレム!そんなことは断じてないね」


「根拠は」


「言われたことがない」


「それってさ、あんまり重度だからみんな諦めちゃっただけなんじゃないの?」


身の回りだけでもいいからちゃんと見てみろよ。


そう、言いたい。


「そ、そんなことはないだろ。それはちょっと悲観的すぎるというかなんというか…」


カケルが予想以上に反応した上、自信なさげなのが面白かった。


これはあれだ。


最近太樹とカナコとの間ではやっている、暇つぶしにちょうどいい遊び。


その名もカケルいじり。


度々一緒に帰るようになったカケルを傷つくかつかない程度にいじり倒す遊び。


性格の悪い言葉遊びだ。


と言っても、カナコに比べ、語彙が圧倒的に少ない太樹が途中でついていけなくなるのだが、逆にそれがいい意味で遊びをいじめにさせないストッパーのようになっていた。


ストッパーがかかっているとしても、はたからみれば性格の悪い2人組が馬鹿を遠回しに罵倒している、そう見えてしまうようで、沙耶からは毎度なかなかに冷たい視線を浴びている。


かわいそうじゃない。


そう言いながら、たまにカケルいじりの内容がツボにはいる彼女が一番意地悪と言えなくもないが、それも太樹は言わないで置いた。


そんなことを考えると、時々思ってしまう。


友達がいない時はいつだって言いたいことをただ溜め込んで、爆発しないよう、抑えているので精一杯だったくせに、いざいい友達が増えてくると、今度は秘密が増えて行く。


言いたかったことは、言った方がいいことと、言わない方がいいこと、言いたくないこと、たくさんの項目に振り分けられて、自制と言うフィルターでろ過されて、角の取れた、優しく甘いものとなって放出されるようになった。


それは悪いことなのか、いいことなのか、それはちょっとわからないけれど、言えることは今の方がずっと楽しいということ。


だから、そんなこと深く掘り下げなくてもいい。


そう、思うことにした。


「それもそうだね、カケルは目つきも鋭いから、きっと鈍感なんかじゃないよ」


太樹は朗らかに笑った。


中身のない会話。


なにもさらけ出さない会話。


そんなものに意味はない。


そう、思った時期もあった。


でも、自分は、そんな会話の中で、こんなに自然に笑うことができるのだ。


それは、彼らにはないものだ。


「そうだろ!…って、目つきは関係ないだろ!何か全然嬉しくないぞ」


「いやいや、はじめから褒めてないし、むしろ悪口だし」


「ほほう、そうかよ。そういう太樹だって…」


なにが言いかけて、彼はやめた。


わかってるよ。


そんなの。


「とにかく、俺の遊んでいる間、太樹はノートをしっかりしてくれ!用件は以上だ!」


カケルがビシッと自分の手を伸ばして額に当てる。


それから、結構厚みのある胸をそらす。


こうしてみると、帰宅部なんて嘘見たいだなと太樹は思う。


どこかで見たことがある動作だった。


敬礼?


「ちょ、用件ってそれ?僕の心配じゃなくて、ノートの心配だったのか!しかも、頼み方が素直すぎて呆れるどころか褒めたいくらいだよ」


「どうぞ褒めてくれ」


敬礼?をしたままカケルがよく通る声で言う。


結構大きな声だった。


およそ授業中にはそぐわないような。


だが、まあ、彼のような教師を恐れないタイプの生徒にはそんなの御構い無しなのだけれど。


僕には厳しい。


いきなり向けられる無遠慮な好奇の目線。


それがただでさえ気分が悪くなりそうなのに、その数は数十になるのだ。


溜まったものではない。


ギロリと向けられる視線からなんとか意識をそむけつつ、カケルを鎮めようとする。


「わ、わかったよ。褒めるから、めっちゃほめるから、今は静かにしててよ。ね?」


そうすると、カケルは静かになる。


あんまりにも簡単に。


「それもそうだな」


それだけ言って、なにもなかったかのように、椅子を正面に向けた。


本当に、いろんな意味で鈍感なのだ。


こいつは。


ひとの視線の居心地の悪さをぜひともわかってもらいたい。


どうしてそんなに平然としていられるか、教えてもらいたい。


と切実に思う一方で、太樹はわがままだ。


分かり合えない部分があるから、固有の揺るがない価値観があるから、面白いのかもしれないとも思うのだ。


カケルと自分は本当に違う。


比べれば比べるほど、いろんな意味で差が見つかる。


少しでも話せば言い合いになる。


でも、だからこそみえてくる、新たなもの。


自分にはなかったものが手にはいる。


それは、素晴らしいことだ。


そんなことを考えながら、太樹が見つめた先には、真面目な顔のくせして一切ノートを取らないカケルの姿があった。


でも、ノートは取れよっ!


なあ、ナギ。


見てるか?


僕にも男友達ができたよ。


おかしなやつだし、真性変態バカヤローだけど、根はいい奴だ。


ここに、君がいたら、もっと、楽しかったよ。


ナギの席はもう学校に存在しない。


ナギの戸籍も存在しないし、ナギがいたという人々の記憶すらこの世からなくなった。


あの青く光る恐ろしく美しい漢数字の群れは、人を死にいたらしめる時間を表すものじゃない。


人を人の存在をこの世から消してしまうタイムリミットなのだ。


あんなに仲の良かった沙耶さえ、もう彼女の名前がわからない。


彼女のすべてが太樹を除いた世界中のすべての人々から消し去られてしまった。


でも、太樹は忘れない。


そんな理不尽なルールを受け入れるわけでもなく、同情でもなんでもない。


彼女がカレーに目がなかったこと、たこ焼きが好きだったこと。


美容師になりたかったことも。


みんな、忘れない。


彼女のために…ううん。


自分のために。


記憶の中で彼女はいつも笑っている。


長い髪の毛を揺らしながら、前を歩いている。



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