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第二話 スポンジ

夜9時頃。


あたりはすっかり暗くなっていたし、電灯のあんまりない通学路は余計に暗く感じられた。


あーあ。楽しかったなあ。


太樹は思わず口に出してしまいそうになるのを抑える。


現在、太樹は、休校と知らずに登校し、カナコと仲良くなったあと、帰り道でそのまま遊ぼうという話になって、三人で遊んだあとだった。


沙耶はカナコと信じられないくらい意気投合してしまい、それは気がつくと、少し、太樹だけ取り残されていた気さえするくらいだった。


まあ、でも、沙耶が幸せそうで良かった。


それに、カナコさんだって、なんか、もう、輝いていたし。


メガネだけじゃなく、全体が!


それにしても、カナコさん歌うまかったなあ…。


本当に、簡単に漏れてしまいそうな口を抑えながら、思い出す太樹。


人通りが少ないとはいえ、油断はできない。


狭い町だから、噂はすぐに広まるものなのだ。


それも、変な噂ほどその速度は加速するのだ。


そうして、ようやくたどり着いた我が家。


木造建築、二階建て。


築五十年。


太樹が生まれる前に、両親が越してきたという家だ。


外観からすると、少し、時代に乗り遅れたような塗装だったり、表札が錆びていたりするが、中はなかなか広くて、綺麗だった。


二人暮らしには少し、広すぎる。


そんな家。


さあて、今日の晩御飯は何かな…?


なんて、呑気に考えながら、太樹はドアノブを回す。


ガチャリ。


この音を聞くと、妙に安心するんだよな…。


それに、ツクヨさんの料理、ハズレないから………って、待て!今なん…


太樹が気がついて、腕時計を見た時にはもう遅かった。


『3月20日・PM9時20分38秒』


足はすでに、玄関をまたいでおり、眼前には、怒りに満ちた表情で仁王立ちする、ツクヨさん。


本来なら、女らしく、完成されたスタイルに、ほっそりとした顔立ちをいつまでも見ていたいとさえ思う太樹だが…。


ああ、これは、かなり…あれだ。


ただ、以前よりもパワーアップして見える、ツクヨさんの怒りの表情を前に、立ち尽くすしかできない太樹。


「おかえりなさい。タイちゃん」


だが、待っていたのは太樹が思っていたのとはずいぶん違ういつも通りのツクヨさんの声だった。


爽やかに耳元を通過する、透き通った声。


良かった、そんなに怒ってないんだ。


太樹はホッとする。


よくみると、ツクヨさんの表情はいつも通りだった。


どうやら、さっきのあれはきっと、太樹の作り出したイメージ映像だったのだ。


そうだよな…もう、高校二年だし、ツクヨさんもこのくらい遅くなったって怒らないよな。


うんうん。


「ただいま」


太樹も普段通りに返事をすると、ツクヨさんの脇で靴を脱ぐ。


そんなときだった。


不意に、ツクヨさんの腕が太樹の肩をつかんだ。


それから、ものすごい勢いで自分の方へ引き寄せる。


太樹は何が何だか、状況も把握できずにいた。


脱いでいる途中の靴が、手から離れ、パタリと落ちた。


そして、近い。


すごく近い。


ツクヨさんのそんじょそこらではお目にかかれないクラスのナイスバディと、その美貌が、目と鼻の先、というか…抱きかかえられていた。


「あ、あの…ツクヨ…さん?」


本当に、何がどうしてこうなったのか、わかっていない太樹は、かといって抵抗することもできず、密着したその体の柔らかさと温かさを頭から追い出そうと必死になっていた。


ツクヨさんはお姉さんだ。


ツクヨさんはお姉さんなんだ!


まじないのように、何度も何度も唱える。


でないと、思春期の男子には厳しいものがある状況だった。


「うん。タイちゃんだ…。良かった。良かったよ…無事で…」


ツクヨさんが小さな、小さな声で太樹の耳元に囁く。


そして、太樹はようやく思い至る。


ツクヨさんは心配してくれているんだ、と。


思えばあの時もそうだったのかもしれない。


あの、カナコさんに話した昔話…あのときもツクヨさんは、怒ってたんじゃなかったのかもしれない。


こうやって、僕のことを心配して、わざわざ食事の準備を終えた上で、待っていてくれたんだ。


もしかしたら、外を歩いたあとかもしれない。


ツクヨさんのつけたエプロンは肩口が均等に濡れていた。


そこだけ見れば、わかる。


それなのに、僕は…。


呑気に遊んで、ヘラヘラした気分で三時間も門限を過ぎて帰ってきて…


ああ、本当に馬鹿だ。


僕にだって、こうやって思ってくれる人がいるのに、それをないがしろにしたら、僕は…。


「ごめん…ツクヨさん。遅くなっちゃった…。本当にごめん」


太樹が今度は自分からツクヨさんの身体を抱き返す。


もう、あの呪文なんか必要ない。


たった一人の家族なんだから。


「ううん、いいの。タイちゃんが無事なら、それだけで…」


ツクヨさんが太樹のその力に負けず、劣らず、ぎゅうっと抱き返す。


もう、離さない。


そんな意志が働いているような、そんな、温かさを太樹は噛み締めた。




それから、数十分間、二人は抱き合っていた。


互いのなにかを確かめ合っていた。


それは、言葉にできない、なにか。


その間も空いた扉から雪と一緒に寒風が玄関に入り込み続けていた。


でも、二人は寒さなど、一欠片も感じることはなかった。


「よぉし、充電完了!それじゃあ、冷めちゃってるかもだけど、ご飯にしよっか」


と、照れ笑いを浮かべながら、ツクヨは言った。


それから、するりと太樹から離れる。


その感触に、一抹の名残惜しさを覚えながら、太樹が答える。


「そうだね。お腹減っちゃったよ」


それから、あははと頬をかく太樹。


「うん。私も。すぐあっためるから着替えて待ってて」


ツクヨさんはそそくさとキッチンの方へ小走りして行った。


太樹は開けっ放しの扉を閉め、鍵をかけると、靴を揃え、再び家に上がる。


そして、ふぅ…と息を着いてから、自分の部屋への長い廊下を歩く。


途中、目に入ったツクヨさんはなんだか、いつもより、元気に見えた。


というか、浮き足立ってるというべきなのか、わからないが、必要な動作を終えるたびに飛び跳ねている。


長年一緒に暮らしている太樹だからわかることだが、この動作はツクヨさんがあまりの嬉しさに飛び跳ねているというものだ。


おそらく、顔は喜びで笑みが溢れ過ぎて、水なんかけた時にはとろけ出しそうな状態になっている違いない。


本当に、可愛い人だよなあ。


そんなことを思いながら、少しだけ、ツクヨさんがぴょこぴょこ跳ねるたびに一緒になって踊っている、ポニーテールを眺めていた太樹。


そのうち、ツクヨさんが振り向かないまま、あの、綺麗な声を出す。


「おおーい、タイちゃーん、もう少しだよー」


そんなに大声を出さなくてもいい距離にいる太樹に気づくことなく、声を張り上げるツクヨさん。


その声を聞くと、ようやく我に帰った太樹はなぜか、スキップで部屋へと急いだ。




キッチン。


二人とも綺麗に使うので、いつでも清潔感に溢れた空間となっている。


もとは四人で使っていた長方形のテーブルに、対面するように席についた二人。


テーブルの上には温め終わった料理が綺麗に盛られている。


もう、いただきますの一言で食事が始められる、そんな時だった。


「それでね、タイちゃん、実は食事の前に重大なお話があります」


重大なお話…その響きがツクヨさんの真剣な表情と合わさり、深刻な空気を醸し出す。


太樹はわーい食事だ食事だとせっかく席につきリラックスしていたところなのに、自然と背筋が伸びるのを感じた。


「な、なに…その、重大なお話って…」


「実はね、今日、ニュースでやってたんだけど、門限を三時間二十分三十八秒も過ぎて帰ってきたっていう男の子の話をやっててね」


「ふーん、三時間二十分三十八秒も遅れてきた男の子がね…って…」


そこまで言われて、太樹は先ほどなんとなく眺めた時計の時刻を思い出す。


それから、彼女の言わんとしていることに気がついた。


そんな太樹の心情などお構いなしに話は進んで行く。


「うん、それでね、その人のお姉さんがね、心配で雪の中を探しに出て行ったんだけど、いくら探してもいなかったから、心配になって、学校まで電話したんだけど、繋がらなくて…」


うわあ、表現が露骨だな。


お姉さんって、もうちょっとカモフラージュしないとバレるっていうか、もうバレてるんだけど。


しかも、学校に電話まで…。


と、そんなことを思いながら、太樹はぐーぐーなっている腹を押さえる。


「そ、そんなんだ…休校とか、だったのかな…」


「そうなの!で、太樹はその男の子、なにしてたと思う?」


「う、うーんと…カラオケ…とか?」


「か、カラオケね〜…ふーん。なるほどなるほど」


ツクヨさんの目がスゥーと細められる。


ああ、これは…やっぱり…。


充電完了とか言った手前、改めて詮索するのが気まずくて、こんな遠回しなやり方に走ったということか。


もう、あんまり隠すつもりもないのか、それとも好奇心の方が気まずさに勝ってしまったのか、テーブルへと身を乗り出すツクヨさん。


無用心に開けた胸元に太樹がドキリとしたのは言うまでもない。


そんな太樹の心中などそっちのけで、遠回しな尋問は続く。


「じゃあ、タイちゃんなら、どんな人とカラオケ行ったりするのかな?」


「友達じゃないかな。たぶん、友達二人と三人で、とか?」


なんか、疲れるな。


建前やらなにやらで縛られた会話というのは…普段あまりこの二人の間に存在しないだけに、太樹の徒労感はわりと大きかった。


そもそも、ツクヨさんの真剣な表情はずっと崩れないのが、すごい。


真面目なんだよな…ツクヨさんは。


だからこそ、色々なものに縛られてしまう。


他人になるべく、迷惑をかけないよう、被害は最小限に、願わくばすべての不幸が自分に降りかかってくれれば幸い、そんな風にさえ見えてしまう。


そんな聖人か。


なんて、太樹は自分で自分にツッこんで見たものの、半ば笑えなかった。


どうしてこの人はこんなに、いい人なんだろう?


「じゃ、じゃあ、友達って言ったらやっぱり男子よね。うんうん。だって、思春期の男女が密室の中だなんて、ねえ?」


ツクヨさんが太樹の顔を覗き込む。


何かを懇願するようなその表情に、太樹は焦る。


正直に答えた方がいいのか、それとも、冗談で終わらせるべきか。


ツクヨさんの今にも泣き出しそうな顔が目の前にあるのだ。


でも、嘘は…すぐにバレる。


「まあでも、友達なんだから、女子だったりすることもあるんじゃないかな…たぶん」


口をついてでてきたのはずるい言い方だった。


これでは、嘘をついているのと変わらない。


でも、対するツクヨさんはその答えを絶対の真実として受け取る。


たとえそれが、あやふやな答えでも、下手な解釈や疑いなんかはいる隙がないくらい、まっすぐに受け入れてしまう。


水をかけられたスポンジみたいに、柔らかく、包み込んでしまう。


「………そっか。男女の友情だってあるもんね」


ツクヨさんは自分の流しかけた涙さえ吸い取ってしまう。


綺麗さっぱり、吸収してしまって、そこには乾いた笑顔だけが優しく花開いていた。


でもさ、いつか、漏れ出しちゃうよ。


そんなの、知ってる。


けれども、言えなかった。


太樹は、自分の作った逃げ道を使うことを選んだ。


「そろそろ、食べよっか。さっきからお腹ぐーぐー言ってて…ははは」


「………うん。ごめんね、変な話して」


ツクヨさんは本当に申し訳なさそうに、言うと、椅子に座り直す。


ツクヨさんが不意に、遠くにいってしまうような不安に、太樹は焦った。


言いたいことならたくさんあるのに。


ごめん。


謝るはずなのは僕なのに。


重大なお話が変な話になっちゃってるし…。


でも、太樹は追いかけることはしなかった。


その手を掴もうとはしなかった。


さっきまで、数分前まで、肌を触れ合っていたからか、テーブルごしの距離があまりに遠くて、切なかった。


「そもそも、遅くなっちゃったのが悪いんだから。それじゃあ、いただきます」


そう言って、太樹は自分用のハシを手に取り、目の前のプレートの上に広がるツクヨさんの料理へとそのままのばす。


食べやすいサイズに揚げられた、鳥の唐揚げ。


太樹のプレートに五つ。


ツクヨさんのプレートに三つ。


付け合わせのキャベツには太樹の好物である、『黒ごまドレッシング』がかかっている。


その脇におかれたミニトマトは太樹の嫌いな食べ物No.3に位置する。


光を受けて、テカテカしているその赤が太樹の嫌悪感を誘った。


でも…


太樹が手をつけたのはトマトだった。


二つ並んだそれを一気にハシで突き刺して、口の中に放り込む。


その様子を見て、ツクヨさんは一瞬目をパチパチさせてから、今度は手をパチパチとさせた。


「すごいすごーい!タイちゃんいつの間にトマト食べられるようになったの!」


その目がキラキラして、笑みがふわあっと顔中に広がり、その綺麗な顔立ちが一層際立つ。


食べるのなんかやめて、ずっと見ていたいくらいの、いい笑顔だった。


「うん。やっぱり、将来的にも苦手な野菜とかあったらカッコ悪いしさ」


思ってもないことを口にする太樹。


口の中でぐちゃぐちゃと音を立てるそれへの不快感を顔に出さないように、躍起になる。


そうしたら、元も子もない。


「えらい!タイちゃんもどんどん成長してるんだねぇ…あ、でも、無理に食べるのは良くないからね」


危うく、ハシを取り落としそうになった太樹。


でも、結果はおんなじ。


計画、失敗。


でも、太樹に落ち度はない。


ツクヨさんが優しすぎるのだ。


わかってしまうのだ。


そして、いつだって、相手を気遣っている。


かなわない。


本当に、ツクヨさんにはかなわない。


こういう時、太樹は不意に泣きたくなる。


いつになったら、対等になれるんだろうかと。


年の差だけじゃない、決定的な差があることが太樹にはわかっていた。


「いいんだよ、無理しなくて」


ふふっと、ツクヨさんが笑う。


その時になって、太樹は慌ててトマトを飲み込んだ。


あーあ、はじめから丸呑みしとけば良かったかも…そういう問題でも、ないけどさ…。


あんまり、慌てたので、喉に詰まってしまった。


本当に用意よく、置かれたコップいっぱいの水を喉に流し込む。


飲みながら、塩っ辛いものが目から溢れそうになる。


まるで、こうなるのをわかってたみたいじゃないか。


そんな、理不尽な結果論さえ考えた。


ツクヨさんが心配そうな声を出す。


「た、タイちゃん!だいじょーぶ?」


「大丈夫、大丈夫」


太樹は答えながら水を飲み干したコップをテーブルに置いた。


鈍い、音がした。


「もう、せっかちはダメだぞ!めっ」


ツクヨさんらしくない言葉が飛んできたと思ったそのとき、太樹の頭の上に現れた温かな感触。


白くて華奢な腕が、太樹とツクヨさんとをつなぐ、架け橋みたいに伸びていた。


つまり、ツクヨさんが、よしよしと、太樹の頭を撫でたのだ。


それから、一言。


「一度このセリフ言ってみたかったんだよねー。どう?似合う?」


それから、てへっ、と自分の頭を小突いて、照れ笑いを浮かべたツクヨさん。


「どう?似合う?って、服じゃないんだから…」


やばい。


にやける。


いつだって、最後には、こうやって、向こうから近づいてきてくれる。


どうしてこう、ツクヨさんは、こんなにもツクヨさんなんだろう。


やっぱりかなわないや。


でも、いつかは…。


太樹はもう一度、ハシに手を伸ばす。


もう、付け合わせを食べる気分じゃなかった。


豪快に、唐揚げのど真ん中を突き刺す。


それを、口に放り込む。


熱くて、火傷しそうだったけれど、口をはふはふさせて、なんとか咀嚼する。


想像以上に柔らかな肉の旨味と、溢れてきた肉汁とを堪能する。


「今日も、ツクヨさんの料理は最っ高だね」


満面の笑みで太樹はツクヨさんを見上げた。


本当、最高だよ。


「ありがとう、タイちゃん。作り甲斐があるよ〜」


ツクヨさんは嬉しそうに目を細めて笑っていた。


自分の料理に手をつけることもなく、ただ、太樹の食べっぷりをひたすら眺めていた。


そんなツクヨさんは今日も今日とてツクヨさんであった。





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