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その日の夜、コウがお風呂から上がると、部屋の中で聖は手鏡を持って何やらしている。長い髪の毛を拭きながらコウはきょとんとして尋ねた。
「何をしているのですか?」
「あ…」
コウが尋ねると、聖は少し気まずそうに笑った。
「いつも三つ編みばかりなので、髪形を変えてみたくて…」
「髪型?」
「はい。でも不器用なのでなかなか上手くいかないです」
しゅんとした聖は俯きながら小さく溜息をついた。まるで怒られた子供のように小さくなっている姿にコウは喉の奥で笑って、それから聖の後ろに回りこんで座る。
「私がして差し上げますよ」
「え?」
「きっとあなたよりは器用なはずですから」
楽しそうに微笑んだコウは、聖の畳にまで流れ落ちる艶やかな髪の毛を一筋手に取り、少し考える。
「きっと長すぎて貴方には手に負えないのでしょう」
柔らかな髪の毛はくせもなくまっすぐとしている。それを指にやさしく絡めながらコウは提案した。
「聖がよければ、腰の辺りまで切りますか?」
「切る?髪の毛をですか?」
思ってもみないことに、聖は目を丸くした。聖の生まれた地域の慣わしで、髪の毛を伸ばしてはいたが、膝の辺りまである長さは、確かに何をするのも邪魔にはなる。今まで短く切ると言う選択肢がなかったのでその発想は聖にはなかった。
「嫌でなければ、ですが。どうします?」
穏やかな瞳が聖の肩越しに見えて、少し考えた後、少女はにっこりと微笑んだ。
「もうこんなに長い必要もありませんから、切ります。先生にお願いしてもいいですか?」
「勿論かまいません。では鋏はありますか?」
「あ、はい」
鏡や小物を入れてある小さな箪笥から、鋏を取り出した聖はコウに手渡す。そのままコウは聖に前に座るように促した。
何度か櫛で聖の髪の毛を整え、長さを確認する。
「腰の辺りでいいですか?」
「はい。お任せします」
「あまりに短いのも、それこそ童ですから…私と同じくらいでいいでしょう」
くすくすと笑ったコウは腰の辺りで長さを決めて、聖の髪の毛を切り始めた。時々話をしながらまっすぐに綺麗に切っていくコウに、聖は全てを任せるように目を閉じて自分の髪の切られる感覚を感じていた。
さほど時間もかからず、切られた綺麗な髪の毛は一まとめにされて和紙に包まれた。
「どうですか?」
コウが確認すると、聖は自分の髪の毛に触れてなんとも不思議そうな顔をした。
「こんな短いのは子供の時以来です。でも、すっきりしました。ありがとうございます」
にっこりと愛らしい笑みでお礼を言った聖に、コウも穏やかに笑みを浮かべた。
「それでは、結い上げてみますか」
「はい。お願いします」
サラサラとした聖の髪の毛を愛情の含まれた視線で見て、コウは手早く、そして綺麗に結い上げる。後れ毛を適度に残して、項にふわりと垂れた毛先がかかるくらいの緩やかさでまとめたコウは、思い出したかのように立ち上がり、近くにあった何かを箪笥から出した。
「ちょうどこれを買っておいてよかったですね」
男にしては綺麗な掌に乗っていたのは、青い石のついた簪だった。
「それは?」
「この間、ここに来る前に立ち寄った所で買ってあったんです。聖には青が良く似合いますから」
「私にですか?」
聖は目を見開いてコウを見た。それにコウは小さく笑って頷く。
「私が簪などするわけがないでしょう?これは聖のですよ」
そう言って結い上げて整えられた髪の毛に挿した。小さな鈴のついている、どちらかと言えば可愛らしいその簪が、聖の動きにあわせて、ちりりりんと音を出した。
手鏡でそれを確認するように何度も見ては、聖は心の底から嬉しそうに笑った。
結い上げたせいか、いつもよりも大人っぽく見える聖に、コウは目を細めて穏やかに見つめる。
「よく似合いますよ」
「ありがとうございます。すごく嬉しいです。先生からこんなに素敵なものを頂けるなんて夢みたいです」
本当に嬉しそうに聖は微笑んだ。少し日焼けをした顔が喜びで赤みを帯びている。幼さの残るその笑顔に、コウは温かく心が癒されてくのを感じた。
「こんなものでよければまた買って差し上げますよ」
「そんな。これだけで充分です」
恐縮した聖にコウは小さく笑って、長い指で簪の鈴を揺らした。その様子を聖はくすぐったそうに見てまた笑う。
「さあ、もう寝ましょうか。時間も遅いですから」
そう言って立ち上がったコウを見上げて、聖は残念そうに眉根を寄せる。
「どうしましたか?」
「せっかく綺麗にして頂いたのに、寝たら崩れてしまいます」
「また明日の朝結って差し上げますから。今日はもうほどいてしまいなさい」
「…はい」
またしゅんとしてしまった聖は、さらりと髪の毛をほどいて頭をふるふると振った。輪郭や肩にかかるその髪の毛が、思わぬ艶のようなものを聖に与えて、コウは思わず目を見開いた。綺麗だと、心底思った。
この子にそんな風に思うとは…不思議な子ですね。子供っぽいのに一瞬大人っぽくなってみたり。
見た目は小柄で痩せているせいか、お世辞にも色っぽいとも言えず、よく変わる表情や行動も子供と言っていいほどに幼い普段の聖には、可愛いと思っても綺麗だと思うことはまずない。
それが髪の毛を下ろして俯いただけでハッとするほどに色香を感じてしまった。そんな自分に呆れて、コウは聖に背を向けて笑ってしまった。
「先生?」
聖はそんな風にコウが考えているとも知らずに、きょとんとして問いかける。
「何でもありません。さて、横になりましょうか」
「はい」
隣の部屋には、二組の並んだ布団がある。蝋燭でほのかな明かりの灯された部屋の中に入ると、聖がコウの着物の袖をクイッと引っ張った。
「なんですか?」
振り返りながら問いかけたコウに、聖は小さな声で、そして不安げな様子を見せて尋ねた。
「一緒に…寝てもいいですか?」
「…はい?」
一瞬何を言われているのか分からなかった。それに聖は真っ赤になって、もう一度コウに問いかける。
「先生と同じお布団で、寝てもいいですか?」
「私と…?」
もう顔を上げていられないといった感じで、聖は俯いて、袖を掴む手にだけ力を入れた。それに感化されるように、コウも珍しく顔を赤らめる。
「それはかまいませんが…狭いですよ?」
「もっと一緒にいたいんです。私には、先生だけですから」
震える声で、聖は言う。
殺し文句ですか、それは。
コウが眉を下げて、それからふと優しい表情で聖を見下ろした。俯いてしまっている聖は気付かないが、その顔は深い愛情を湛えたものだった。端整な顔が柔らかく微笑み、綺麗な手で聖の髪の毛をそっと撫でた。
「いいですよ。貴方にそんなかわいい事を言われたら断れません」
「…ありがとうございます」
顔を少し上げて、聖は微笑んだ。恥ずかしそうに赤くなったまま笑うその顔で、上目遣いにコウを見つめて。
二人で、一つの布団で初めて寝る事になった。
ぴったりと身体を寄せ合うのが心の落ち着く時間でもあり、幸せでもあるのだが…。
「あなたは本当に童ですねぇ…」
ぐっすりと眠る幼い寝顔に向かって、コウは少々情けない顔で話しかけてそっと聖の頬を撫でる。
「まぁ…大切にしたいので、これはこれで良いですけど」
優しく目元を細めてくすくすと笑って、その滑らかな頬に唇を寄せ、コウは小柄な少女の身体を抱きこんで瞼を閉じた。