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風守進治の英雄譚

『GU……GYA……?』


 魔獣は、中庭で仰向けに倒れたまま呻き声を漏らしていた。

 一体、何が起きたのか。

 確かに自分は、逃げるばかりで戦おうとしない矮小な下等生物(ニンゲン)を返り討ちにした筈だ。そしてトドメを刺すべく全身で飛び掛かったことも覚えている。

 だが、どうしたことだろう。

 あと少し、もう数センチというところまで牙が届きかけたというのに。

 いきなり顔面に衝撃が走ったかと思えば、あろうことか中庭に転がされていた。

 わからない。分からない。ワカラナイ。

 だけど思考を深掘りする暇なんて、今の魔獣にはない。

 何故なら、


「喰らえよ、魔獣」

『GY──』


 反転した視界の先から、一つの小さな影が迫る。

 姿形は下等生物(ニンゲン)のソレだ。腕や足が新しく生えた訳でも、関節を無視した動きをしている訳でもない。 

 ただ、先程までとは明らかに気迫が違う。

 萎縮しきった逃げ腰なんかじゃない、こちらを”殺し”にかかる狩人の気。

 顔に陰を差し、その中で煌々と瞳を赤く光らせる。

 それこそ『怪物』のように。


「うおおおおおおおおおお!!!!!」

『GYAAAAAAAAAAS!!!!!』


 魔獣は理解する。

 この下等生物(ニンゲン)はもう、吹けば飛ぶ脆弱な駆除対象ではない。何としてでも抹殺すべき外敵だと。

 直後、『怪物』の拳が振り下ろされる。

 魔獣は、それに合わせて身体を起こし真横に回避する。

 刹那、二つの動きが重なり合い、爆発の如き衝撃が炸裂した。



 ※ ※ ※ ※ ※



「うおおおおおおおおおお!!!!!」


 殴り飛ばした魔獣に追撃するべく、進治は勢いよく病室から駆け出した。

 そして仰向けに倒れる魔獣を視認するや否や、勢いよく拳を振り下ろす。

 しかし爆発的な衝撃が炸裂した後、真っ先に響き渡ったのは。


「クソっ、カス当たりだッ!」


 苛立ちを隠そうともしない、進治のがなり声。

 確実に仕留めるつもりで殴り掛かった。しかしギリギリのところで回避され、結果は魔獣の肌を掠める程度にとどまる。

 一方、魔獣は大きく左側──瓦礫の下敷きになった少女とは逆方向の位置に距離を取り、警戒心を剥き出しにしながら進治の出方を窺っている。

 状況は、位置関係を除けば概ね邂逅時にリセットされた形だ。

 だが、互いの戦意は全く異なる。

 もはや先程までの一方的な狩りじゃない。進治と魔獣、双方による真っ向勝負の殺し合いが成立していた。


「妖精、あの娘を頼む」

「了解」


 進治は、魔獣を睨みつけたまま妖精に指示を出す。

 ”あの娘”が誰なのか、確認の必要はない。

 妖精は頷き、進治の背後を通って瓦礫の下敷きになっている少女の元へ向かう。

 その時、魔獣の視線が一瞬だけ妖精に向いた。

 刹那、それは戦闘再開の合図(ゴング)となる。


「──他所見とは、余裕じゃねえか」

『!?』


 最初に動いたのは進治だった。

 杭を打つような踏み込みで地面を蹴飛ばすと、一気に加速して瞬く間に魔獣との間合いを詰める。そして右腕を大きく引き絞り、全力で振り抜いた。

 元より一刻も早く少女を助けなければならないのだ、わざわざ様子見をしている暇は無い。ここぞとばかりに魔獣が見せた隙へと付け入る。

 しかし現実は、そう上手く行くほど甘くない。

 拳が当たる寸前、魔獣は蜷局を巻くように身を翻してみせた。

 直後、進治の拳が虚しく空を打つ。


「っ、すばしっこいなァ!!!」

『GUGYAGYA!』


 闇雲に攻撃した訳じゃない。きちんと狙って隙を突いた。

 けれど悲しいかな、そこから有効打に繋げられるだけの練度が今の進治に足りていない。所詮は威勢ばかりで大したキレもない、力任せのヘナチョコパンチだ。

 対して、相手は弱肉強食を生きる獣。

 先ほどは油断してカウンターを食らったが、今は露骨なまでに警戒心を剥き出しにしている。

 であれば素人の突飛な不意打ちなど、そう容易く通じる筈もなかった。

 とはいえ、それならそれでやり方はある。


「オラオラオラオラオラオラァッ!!!」


 避けられたのなら、命中するまで繰り返せばいい。

 後退して距離を取る魔獣に最短距離で詰め寄り、進治は再び拳を振り下ろす。

 何度も、何度も、何度も。

 その様相は、宛ら巨大なモグラ叩きの如く。ただし威力については、そんな喩えほど可愛らしいものではない。

 一発毎に地面が抉れ、中庭には小規模のクレーターが増えていくのだ。

 魔獣も、それが危険だと理解しているため下手に反撃はせず回避に専念している。戦況だけを見れば今度は魔獣の防戦一方だ。

 だが勘違いしてはいけない。

 決着がついていないということは即ち、進治の決め手が欠けていることも同時に意味しているのだから。

 なにより、


──倒さないと、早く、早くッ!


 今の進治は、少女の命というタイムリミットどころか既に手遅れの可能性すらある爆弾を抱えているのだ。

 妖精は言った。『生きてさえいれば助けられる』と。

 ならば少女が生きていることを信じて一秒でも早く決着を付けなくてはならない。

 それが焦りとなって彼の思考を蝕み、攻撃は雑に、戦い方を単調にさせた。

 また時間が掛かればかかるほど攻撃側はスタミナを大きく消耗していく一方、防衛側は相手の動きに順応していく訳で。


──早く、早……ッ!?


 何度目かの攻撃の後だった。

 ガクンッと、唐突に進治の膝から力が抜ける。

 だが、何も不思議なことはない。

 そもそも病室に吹き飛ばされてから、まだ三分と経っていないのだ。身体はボロボロで痛みだって少しも治まっていない。

 おまけに前日からロクに休息も取っておらず、食事すら丸一日摂っていないのだ。どれだけ意気込んだところで直ぐにガタが来るのは必然だった。

 途端にバランスを崩す進治は、せめて無防備なまま倒れる訳にはいかないと片膝を立てて地面に右手を付く。

 しかし秒単位で趨勢が変わる今の状況に於いて、その動きはあまりに悠長過ぎた。


『GUGYAAAAS!!!』


 次の瞬間、魔獣は狙い澄ましていたかのように攻撃へ転身。

 鞭のように撓らせた尾を横一線に薙ぎ払う。

 狙いは進治の首から上。


「ッ、くっ──!」

 

 避けられない、そう直感する進治。

 それでも左腕を顔の横に割り込ませ、ギリギリで防御を間に合わせる。

 その判断が功を奏し、どうにか首と胴の分離を防ぐことには成功した。

 だが、


「がッ!?」


 咄嗟に対応できたのはそこまで。

 衝撃を受け止めきるまでには至らず、進治は激しく地面を転がりながら中庭の壁に叩きつけられる。

 背中に痛みが走り、内臓を激しく揺さぶられる感覚に吐き気を催した。

 加えて、身体への影響はそれだけに留まらない。


「腕、が……ッ!?」


 起き上がるため、地面に両手を付ける進治。

 瞬間、彼の左腕に異常な痛みが走る。

 堪らず膝立ちのまま踞った進治は、痛みの理由を感覚で理解した。

 折られた(・・・・)、と。

 動かせるのは、どう頑張っても肘までが限界。

 折れた上腕部より先は、首が座っていない赤子のようにダラリと垂れている。


──最悪だ……ッ!

 

 五体満足でようやくギリギリの拮抗を保っていたのに、ここにきて片腕の不能。利き腕じゃないだけマシとも言えるが、この状況では気休めにもならない。

 おまけに、今の一撃で戦闘の主導権は魔獣に移ってしまった。

 魔獣もそれを把握しているのか、追撃のタイミングは今だとでも言うように進治へ迫る。


『GUGYAGYA!!!』

「くそ……」


 万事休す。

 項垂れる進治は、左腕に右手を添えて歯を食いしばる。

 ……決意新たに立ち上がった。だのに結果は、この体たらく。

 結局、自分の限界は”ここ”までなんだと、己の無力を思い知る。

 それでも──。


「クソッタレがあああああああッ!!!」


 ただではやられない。ただでは死なない。

 顔を上げた進治は、迫り来る魔獣を真っ向から睨みつける。

 そして力一杯、右拳を引き絞った。

 死なば諸共。ここで魔獣に殺されようと、せめて致命打だけは与えてやると言わんばかりに。

 相打ちになる覚悟を決めて、彼は破れかぶれの一撃を振り抜いた。

 だが、拳が衝突する寸前。


『GUGYAGYAGYA!』

「はっ……?」


 魔獣は、あろうことか進治の頭上を飛び越えた。

 そして壁に張り付くなり、縦横無尽に這い回る。

 一瞬、進治は魔獣の行動が理解できず固まった。あのまま真っ直ぐに突進するだけでも、自分を仕留めることくらい容易に出来た筈なのに。

 けれど魔獣の行動の意図を探っていけば、忽ち一つの結論に思い至る。

 即ち、


「まさか、ここにきてノーリスクで勝とうってか?」


 この土壇場で魔獣が選んだのは、堅実かつ確実な安全択ではないのか。

 どれほど有利な展開だろうと、ただ正面から飛び掛かるだけでは先程のようにカウンターを食らう恐れがある。

 ならば多少回りくどくても、一度追い詰めた成果のある方法で確実に仕留めればいい。

 勝ちを急いでリスクを負う必要はない、と。


「……フザケやがって。どこまで人をバカにすりゃ気が済むんだ」

『GUGYAGYAGYAGYA!!!』


 進治の頭上では、今も魔獣が鳴き声を上げている。

 覚悟を決めて相打ちを選んだにも関わらず、それすら封じられた少年を嘲笑うかのように。

 だが果たして、魔獣は気付いているのだろうか。

 呆然とする彼の口角が、ほんの少しだけ上向いたことに。


「──けど、それは悪手だぞ」

 

 進治はフラリと立ち上がると、震える脚を強引に動かしながら中庭の中心に向かった。

 左腕は押さえない。そんなことをしても利き手の自由を奪うだけだ。

 当然、痛みはある。一歩進むごとに腕が揺れ、その度に苦悶の声が漏れかけた。

 加えて、もはや勝ち目の見えないこの状況。

 初見なら、きっとパニックを起こしていただろう。

 そして成す術なくやられていたに違いない。

 だけど、


「かかってこいよクソトカゲ。いい加減、ここらで幕引きといこうぜ!!!」


 中庭の中心に辿り着いた進治は、空を見上げて高らかに吼えた。

 端から見れば、まるで自暴自棄にでもなったかのように映るだろう。魔獣が飛び掛かりやすいポジションを、あろうことか自分から増やしているのだから。

 まるで銃撃戦の最中にいきなり丸裸で敵陣に突撃を仕掛けるような、明らかに気が触れたとしか思えない行動だ。

 事実、魔獣は進治の行動をそう捉えた。


『GYAGYAGYAGYAGYA!!!』


 より一層甲高い鳴き声が響く。

 怪物の威を剥がれた、哀れな下等生物(ニンゲン)をバカにする声だ。

 そして一頻り嗤い終えた魔獣は、口を大きく開いて進治に飛び掛かった。それも正面や背後からではなく、骨折した左腕の方向から。

 直後、血飛沫の飛び散る音が響く。

 果たして、魔獣の牙は確かに進治を捉えていた。

 ただし、


「──残念だったな」

『GUGYA!?』


 その牙は、少年の芯に届かない。

 魔獣は夢にも思わなかっただろう。まさか折れた腕(・・・・)で突進を受けるだけでなく、あまつさえ|吹き飛ばされることなく《・・・・・・・・・・・》持ち堪えてくるなどと。

 対して進治は、痛みに眉を顰めながらも獰猛な笑みを浮かべて言う。 


「そう来るだろうと思ったよ」


 確証があった訳じゃない、だが左方向から狙われるであろうことは概ね読んでいた。

 理屈は単純だ。

 魔獣が、わざわざ無事な右腕側から攻める理由はない。正面など論外。懸念点である背後については、ワザとらしいくらいに警戒心を向けていた。

 であれば後は消去法だ。最終的に狙われる場所が明白な以上、進治は押し負けないよう全力で踏ん張るだけでいい。

 折れた腕も、肘までは曲げられる。なら使い捨ての盾くらいにはなった。

 一方で、


『GU、GYAAAAAS!!!』


 勝利を確信していただけに、魔獣の動揺はこれまでで一番大きかった。

 何より、本能が警鈴を打ち鳴らしていたのだ。このままでは危険だ、と。

 進治の腕から牙を引き抜こうと、魔獣は躍起になって口を開こうとする。

 が、もう遅い。


「逃がさねえよ」

『──!?』


 左腕に刺さった牙諸共、進治は魔獣の口を右手でまとめて鷲掴みにした。

 何があっても離さない、何があろうと逃さない。そんな気迫を滲ませながら。

 ここにきて、魔獣はようやく気付く。

 自分が罠に掛かったことに。


「さぁ、空の旅にご案内だ……ッ!!!」


 膝を曲げ、進治は力一杯地面を踏み締める。

 思い起こすのは、病院に向かう道中のこと。

 大通りを飛び越えた時と同じ感覚で、両脚に込めた力を一気に解き放つ。

 直後、大地が揺れた。風が吹き荒び、砂塵が一斉に舞い上がる。

 震源は中庭の中心、彼が地面を踏み蹴った衝撃に因るものだ。

 だが衝撃を起こした当の本人は、既にその場にいない。

 彼の──いいや”彼ら”の居場所は遥か宙。

 地平線すら見渡せる高度で、魔獣を連れ立った進治は獰猛に笑った。


「──封じたぞ、お前の脚」


 太陽を背に魔獣を見下ろす進治。

 左腕に刺さった牙を振り払うと、右腕を大きく引き絞った。

 ここに足場ない。即ち、もっとも厄介である魔獣の俊敏性や身軽さは完全に失われたということ。

 この状況なら、どれほど分かりやすい大振りな拳であろうと避けようがない。

 落下の始まりに合わせて、進治は全力で右の拳を振り抜いた。


「堕ちろおおおおおおおおッ!!!!!」

『GYAAAAAAAAAAAAAA!!!!!』


 天に轟く、咆哮と悲鳴。

 魔獣の胴に拳がめり込み、落下スピードが加速する。凄まじい勢いで空から流れ落ちる様は、宛ら一条の流星の如く。

 そして二つの身体が再び中庭に降り立った次の瞬間、飛び立った時を遥かに凌駕する衝撃と砂埃が巻き起こった。

 その影響は病院外まで及び、逃げ延びた患者たちは勿論のこと、たまたま周辺にいた人々さえ足を止めて固唾を呑む。

 果たして土埃が晴れた時、そこに立っていたのは──。


「はぁ………はぁ………ザマァ見やがれ、クソトカゲ」

『……………………』


 仰向けに倒れ、完全に静止する魔獣。

 その骸を踏み締めて、進治は息を切らせながらも右拳を天に掲げていた。

 即ち、


「魔獣退治、完了だ」


 勝者、風守進治。

 砂塵を抜けて差し込む太陽の光は、宛ら彼の健闘を讃えるかのよう。

 とはいえ、その姿はボロボロだ。

 身体中のアチコチに泥や傷が目立ち、左腕に至っては”文字通り”皮一枚でギリギリ繋がっている始末。

 それでも感慨に耽っていられるのは、あまりの痛みに却って感覚がマヒしているからに他ならない。

 なにより今は、一番忘れてはいけないことがある。


「風守進治、決着が付いたなら早くこっちに!」

「っ! そうだ、あの娘は……!」


 そもそも彼が魔獣との戦いを再起したのは何のためか。

 妖精の声にハッとする進治は、魔獣の骸を飛び降りて少女の元に向かっていく。

 けれど土埃が晴れ、少女の容態が詳らかになると、その表情は忽ち悲痛なものに変わっていった。

 理由は単純だ。


「そんな、こんなことって……っ」


 端的に言って少女は、もう手の施しようがない状態だった。

 肌は徐々に色を失い始め、足元の血溜まりは小さな池のようにすら思えてしまうほどに広がっている。身体も完全に脱力しきっており、呼吸しているのかすらも怪しい。

 仮に今この瞬間は生きていたとしても、彼女の命は数分と保たないだろう。

 急いで医者を呼びに向かったとしても、戻って来る頃には既に息絶えている。かといって素人の自分が手を尽くしたところで一秒の延命にも成りはしない。


──結局、間に合わなかった。


 沸き上がる無力感に、無意識に握りしめた拳から血が滴る。

 だけど、そんな彼に妖精は告げた。


「言ったはずだよ風守進治。生きてさえいれば、必ず助けられるって」

「え……?」

「この娘の心臓は、まだ辛うじて……本当にゆっくりだけど自力で動いている。ならキミの力で助けられる」

「でも、だったら俺はどうしたら」

「簡単さ。とりあえず、この娘の上の瓦礫を退けて欲しい」

「あ、あぁ……」


 呆然と応じる進治は、半ば思考を放棄していた。

 妖精に言われるがまま、少女に伸し掛かる瓦礫を取り除いていく。

 こんな時、ヒーローの力は役に立った。自身の腰ほどの大きさの瓦礫も片腕一本で撤去できるのだから。

 でも、だからこそ。そんな物の下敷きになっていた少女を思うと諦めの気持ちを拭えずにいた。

 事実、うつ伏せに倒れる少女の背中は、服の上からでも分かるくらいに異常な歪み方をしている。

 思わず込み上げた吐き気が表に出ないよう、どうにか抑えられたのは奇跡だった。

 そんな進治に対し、妖精は落ち着いた調子で言う。


「じゃあ次。この娘の背中の、なるべく心臓に近い位置に手を置いてほしい。……あぁ、ちゃんと服の下に手を入れてね。地肌に触れてないと意味ないから」

「わ、わかった……これでいいか?」


 妖精が指示する通り、少女の背中に手を入れる進治。

 この行為に何の意味があるのか、何をしようとしているのかは分からない。今はただ、直に伝わる骨の感触に表情を歪めるばかりだ。

 一方、


「うん──それじゃあ、ボクの本領発揮といこうか!」


 妖精は進治が置いた手の上に自身の掌を重ねる。

 すると、どうだろう。

 ”進治の手”が、たちまち新緑色の淡い光を放ち始めた。


「うわぁ!?」

「離しちゃダメだよ」

 

 進治は、思わず反射的に少女から手を離しそうになる。

 けれど妖精が、そうはさせまいと上から押さえ込む。


「な、何が起きて……!?」


 この時、進治は半ばパニックになりながらも、自身の体内から何かが外に流れ出でいくのを感じていた。イメージとしては注射で血を抜かれている時の感覚に近い。

 決して痛くはないけれど、どこか不安になるような何とも言えない感覚だ。

 一方、


「──不思議に思わなかったかい?」


 妖精は、至極落ち着いた様子で応えた。


「あの交差点で球体の魔獣に吹き飛ばされたとき、キミの命は風前の灯だった。なのにボクと契約した途端、傷が癒えてすぐに動けるようになった。そして魔獣を倒した後、あの母親も目を覚ました。……まさか、その全てが都合のいい偶然だとでも?」

「っ!?」

「教えてあげるよ、これがボクの力。そしてこれからは(・・・・・)キミが扱うことになる力! 『妖精の癒掌(フェアリーハンド)』さ……!!!」


 次の瞬間、進治の右手の光が輝きを増し、少女と妖精を諸共包み込む。

 視界全てが光で満たされ、彼は思わず固く瞼を閉じた。

 そして──。


「……はい、おしまい。お疲れ様、風守進治」

「あ……れ?」


 やけにあっさりした妖精の呼び掛けに、進治は拍子抜けするように瞬きを繰り返す。

 掌が光ってから、まだ一〇秒も経っていない。むしろここから何かが起きるのではないかと身構えていたからだ。

 けれど直ぐ、彼は身体の異変に気付く。

 理由は明らかだった。


「全部、治ってる……?」

 

 全身を蝕むような痛みも、もはや感覚すら鈍くなっていた左腕のマヒも、綺麗さっぱり消え去っていたのだ。

 思わず左腕を見やれば、皮一枚で繋がっていた上腕が何事も無かったかのように元の状態で繋がっている。それは身体中についていた傷も同様のこと。

 ハトが豆鉄砲を食らったような顔、という諺がある。

 今の進治は、まさしくそんな心地だった。

 と、その時。


「あれ、私……?」

「っ!」


 不意に、進治でも妖精でもない誰かの声がした。

 進治は急いで声の元を辿り、そして目を見開く。

 先程まで死の淵を彷徨っていた少女が、昼寝から目覚めたかのように上体を起こして周囲を見回していたのだ。

 進治同様、身体に目立った傷や怪我はない。異常な歪み方をしていた背骨も今は真っ直ぐに伸びている。

 どうやら彼女自身、自分がどうなっていたのかよく分かっていないらしい。フラフラと視線を彷徨わせていると、すぐに進治と目が合った。

 途端、少女は首を傾げて困惑気味に言う。


「あ、あの、あなたは……?」


 当然の反応だった。目を開けたら、変な格好をした男がすぐ傍にいるのだから。

 場合によっては大声を出されても不思議はないだろう。

 そうならないのは、彼女の意識がまだ若干の微睡みを残しているからに他ならない。

 一方、


「…………あぁ、良かった」


 少しの沈黙の後、進治は噛み締めるような声でそう呟いた。

 目尻には薄っすらと涙が浮かび、それを隠すように右手で顔の上半分を覆う。

 自分のための戦いなら、きっと真逆の結果になっていた。おそらくは魔獣と相対した時点で心が折れていただろう。

 だけど少女の存在が、彼に諦めを許さなかった。自分が死ねば彼女も死ぬと突き付けられた。

 だから、どんなに怖くても戦えた。どんなに辛くても立ち上がれた。

 その果てに今、少女はこうして生きている。


「本当に、良かった……!」


 進治は暫し、脱力するように天を仰ぐ。

 成し遂げたのだ、自分の力で。自分の意志で。

 成り行きなんかじゃない、高揚感による勢い任せでもない。助けたいと心に決めて貫き通した。

 けれどそれが出来たのは、全て少女が生きていてこそ。

 だから進治は、少女と目を合わせると万感の想いを込めて言った。


「生きててくれて、ありがとう」

「…………」


 その言葉に、少女は何も応えない。

 けれどそこに不信や嫌悪といったものは無く、ただただ不思議そうに目を丸くするばかりだった。

 進治は思う、それでいいと。

 自分がどんな目にあっていたかなんて、彼女が知る必要はない。

 ただ、生きている。その事実だけで十分だった。

 と、そんな時。


「……さて、それじゃあボクらも戻ろうか。グズグズしてると指名手配ルートだ」

「それは困る!」

「え? ……あ、待って下さい!」


 少年少女を見守っていた妖精が、ふと思い出したようにそう告げた。

 直後、先程までの勇ましさは何処へやら。進治は途端に顔色を青くしてガクガクと歯を震わせる。

 そうだった。魔獣を倒したらすぐに戻るよう山田から脅されていた。

 こうしてはいられないと、急いで少女に背を向ける進治。

 途端、少女が呼び止めようとするが。


「ちょっと急いでるんで、ごめんなさい!」


 進治はそれだけを言い残すと、妖精を肩に担いで慌ただしくその場を跡にした。



※※※※※



 進治が去り、少女が中庭に一人残されていた頃。


「や、やべぇ。すごいの撮っちまった……!」


 場所は変わって、病院三階の廊下。

 そこでスマホを構える若い男は、中庭を見下ろしながら声を震わせていた。

 彼はこの病院の患者ではない。事故にあった友人の見舞いに訪れ、その帰りに魔獣騒ぎに巻き込まれた不運な男である。

 そんな男は避難の途中、目撃したのだ。

 ある少年が、怪物と戦っている姿を。彼が少女を救う瞬間を。

 そして、その一部始終をスマホのカメラに収めていた。


「こんなの大スクープ、 大バズ確定だろ。急いでアップしないと!」


 男は震える手でスマホを操作し、SNSアプリを開く。投稿内容は当然、たった今撮ったばかりの動画について。

 編集なんてしない。そんな時間も機材もない。

 あるがままの映像に【噂のヒーロー、病院にて怪物を成敗! 更には人命救助まで!】というタイトルを付け加え、それはもうニッコニコで送信ボタンを押した。


「今日は焼肉、行っちゃうか〜!」


 鼻歌でも歌い出しそうな心地で、男は能天気に廊下を歩いて行く。

 彼は別段、少年の活躍にさほど興味はない。ただ自己顕示欲を満たしたくて少年をダシに使っただけのこと。

 仮に少年が魔獣の前に倒れたとしても、自分が無事なら違うタイトルで動画を上げていただろう。もっとも、その場合はとてつもない炎上を巻き起こすことになるのだが。

 ともあれ、この動画は程なくして大きな反響を巻き起こす。

 ただし、それは男の狙いを遥かに上回る凄まじい熱量伴いながら。

 この日、世界は一変した。





 ……そして、これはそこから更に未来の話。

 後に男は、その動画タイトルをこう改題する。

 【風守進治の英雄譚 #1】と。

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