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第8話 完璧の綻び

 西条紗友にとって、学校は自分の王国だった。クラスの中心に君臨し、常にスポットライトを浴びる。友人たちは彼女の言葉に耳を傾け、些細な一言でさえ名言として崇める。その笑顔は、誰もが憧れる太陽のようであり、その振る舞いは、誰しもの先を行く洗練されたものだった。だが、彼女の心臓の奥底にはひっそりと、しかし確実に蠢く、ある感情があった。それは「支配」を求める強迫観念だった。


 彼女は、人前で弱みを見せることを何よりも嫌った。計算された笑顔の裏で、常に周囲の視線を気にし、一瞬の油断も許さなかった。成績は常にトップ。ファッションも、SNSの投稿も、グループのリーダーとしての振る舞いも、全てが寸分の狂いなく「完璧」でなければならなかった。

 完璧であればあるほど、支配が許される。被捕食者でなく、捕食者という強い立場で居続けられる。その重圧は、誰にも言えない秘密のコンプレックスとなって、彼女の内側を蝕んでいた。


 しかし、夏休みを目前に控えたこの時期、紗友の「完璧」な日常には、微かな綻びが生じ始めていた。まず、気になっていた同級生の男子が、階段からの転落事故で入院。そして、取り巻きの一人である成美が、原因不明の関節痛で体育の授業を休むようになった。さらに、教師の一人が奇妙な蟲の被害に遭ったという噂も耳に挟んだ。


「……あいつら、何やってんだか」


 紗友は昼休みの教室で、心底うんざりした表情で呟いた。だが、その言葉の裏には、彼女のグループから離脱する者が出たことへの、苛立ちと不安が隠されていた。


「由良っち、昨日紅橋と話してたの?」


 ふと、紗友は隣に座っていた日花里に目を向けた。その瞳は、いつもの明るさを保ちながらも、一瞬、底知れない冷たさを宿したように日花里には見えた。日花里は、喉の奥が張り付いたような不快感を覚えた。紅橋真結は、西条紗友が普段から嘲っている者の一人だ。彼女との会話を誰にも聞かれていないはずなのに、紗友の問いかけは、まるで全てを見透かしているかのように響いた。


「え、そんなことないよ! 私、紅橋さんとは全然……」


 日花里は慌てて否定した。顔から血の気が引いていくのを感じる。紗友は、日花里の返答に満足したかのように、ふふ、と微笑んだ。だが、その笑みの裏に潜む何かの影に、日花里の背筋は凍り付いた。


 その日の放課後。紗友は、いつものように放課後の教室で取り巻きたちと談笑していた。彼女の周りには、まだ数人の生徒が残っていたが、以前のような賑やかさはない。皆、心の内では紗友の周りから逃げたがっていた。「呪い」が回ってくるなんて勘弁だった。紗友はこの空虚な空間に、言いようのない不満を感じていた。


「あー、なんかダルいね。みんな、もう帰っちゃうの?」


 紗友がわざとらしく大きなため息をつくと、残っていた取り巻きたちが、慌てて彼女の機嫌を伺う。


「そんなことないよ、紗友! もっと話したいことあるし!」

「そうそう! 紗友ちゃんといると楽しいし!」


 紗友は満足げに頷いた。この場所で、自分が絶対的な存在であること。それが、彼女の唯一の「完璧」の証明だった。


 だが、その日の夕方、紗友の「完璧」な日常に、決定的な異変が訪れる。


 自宅に帰り、自室のドアを開けた瞬間、紗友は息を呑んだ。部屋中に散らばる、大量の菓子くず。食べかけのポテトチップスが床に散乱し、チョコレートの包み紙が絨毯に張り付いている。テーブルの上には、コンビニのおにぎりのゴミや、カップ麺の容器が所狭しと並べられていた。それは、誰にも見せることのない、彼女の「醜い」部分だった。完璧な西条紗友の裏側にある、誰も知らない、隠された食い散らかしの痕跡。


「な、何これ……」


 紗友の脳裏に、ぞっとするような感覚がよぎった。確かに彼女は、ストレスを感じると、人目を避けて過食に走ることがあった。しかし、こんなに酷く散らかった状態に、自分がした覚えはない。いつもは、食べ終えたらすぐに片付け、痕跡を残さないように細心の注意を払っていたはずだ。


「まさか……」


 紗友は、壁に飾られた全身鏡に目を向けた。そこに映る自分の姿。制服はだらしなく着崩され、髪は乱れ、顔には脂が浮いている。まるで、醜悪な何かを、自分の中に宿しているかのように。


「……私、汚いの?」


 彼女の耳に、幼い頃、母親から言われた言葉が蘇る。


「……薄汚い子」


 彼女は見下すように吐き捨てた。母親の言葉は、紗友にとって呪いのように、心に深く刻み込まれていた。「完璧」でなければならない。部屋も、身体も、心も、全てが綺麗でなければならない。しかし、今のこの惨状は、彼女がもっとも隠したかった「不潔」な部分を剥き出しにしている。


 その時、紗友の耳元で、微かな音がした。


 ……カサカサ。


 それは、どこかから聞こえるような曖昧な音ではない。まるで、紗友の脳の奥底から直接響いてくるような、不快な摩擦音。そして、その音の合間から、嘲るような、そしてどこか楽しげな、七星未玲の声が響いてくる。


「西条紗友。あなた、本当にそれでいいの?」


 紗友は、全身の血の気が引くのを感じた。


「誰……? 誰なの!」


 彼女が叫んでも、部屋には誰もいない。ただ、「カサカサ」という音と、未玲の声だけが、嘲笑うかのように響き渡る。


「完璧な西条紗友? ふふ、笑わせるね。あなた、本当は、自分の醜いところがバレるのが怖くて仕方ないんでしょ?」


 声は、紗友の最も深いコンプレックスを容赦なく抉り出す。


「食べて、吐いて、隠して、また食べて……そんなことを繰り返す、醜いあなたが。ねぇ、全部、私がバラしてあげようか? あなたのその完璧な仮面を、みんなの前で剥ぎ取ってあげようか?」


 紗友の心臓が、激しく脈打つ。恐怖と、そして怒りが、同時に彼女の全身を駆け巡った。


「黙りなさい! 黙れ! 私は完璧なの! 誰にも、邪魔させない!」


 彼女が叫ぶと、部屋の壁に飾られていたお気に入りの写真立てが、突然、音を立てて床に落ち、ガラスが粉々に砕け散った。紗友は、その光景にさらに恐怖を覚える。これは幻覚ではない。何か得体の知れない力が、この部屋に、そして自分自身に、作用している。


「あら、ごめんね。でも、あなたのその『嫌い』な気持ちが、私を強くするんだ」


 未玲の声は、楽しげに響く。紗友は、床に散乱した写真の破片を、震える手で拾い上げた。そこに写っていたのは、満面の笑みを浮かべた「完璧な」自分。だが、その写真の裏には、墨で描かれたような、小さな蟲の影が、ぼんやりと浮かび上がっていた。


「さあ、もっと私に、あなたの『嫌い』を教えて?」


 未玲の声が、紗友の耳元で甘く囁いた。紗友はその言葉に、抗うことができなかった。彼女の心の奥底に封じ込めていた、あらゆる「嫌い」な感情が、濁流のように溢れ出し、未玲の声へと吸い込まれていくのを感じていた。

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