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第7話 蠱惑

 由良日花里は、己の内に棲みつく異変と、漠然とした恐怖に苛まれていた。カラオケで「飲んで」以来、意識の深淵から湧き上がる不快な感情の波に、彼女は抗う術を失っていた。それは、増幅されていく苛立ちであり、これまで見過ごしてきた欺瞞への拭いがたい嫌悪感であり、そして、言いようのない渇望だった。


 世界は、まるで薄いヴェールが剥がれ落ちたように、これまで見えなかった醜悪さを露呈し始めていた。クラスメートの囁き声が、まるで腐った果実が潰れるような音に聞こえ、教師の偽善的な笑顔は、歪んだ道化の面に見える。特に、西条紗友とその取り巻きたちの作り物の笑顔は、日花里の目には、内側から蟲が這い出そうとしているかのように見えた。かつて日花里が「居場所」と信じていた場所は、今では毒々しい色の粘液で覆われた蜘蛛の巣のように感じられた。


「由良っち、ちょっと聞いてよー。紗友の新しいネイル、超可愛くない?」


 隣に座る取り巻きの一人が、キラキラと輝く指先を日花里の目の前に突き出した。その瞬間、日花里の視界は歪んだ。華やかなピンク色のジェルネイルが、まるで病的な皮膚のようにおぞましく見え、その指先からは、小さな蛆が蠢いているかのような幻覚が脳裏をよぎった。


「……可愛いね」


 日花里は、必死に笑みを貼り付けて答える。しかしその声は、自分のものとは思えないほど冷たく響いた。内側から込み上げる吐き気に、喉の奥が引き攣る。胃の奥で、あの夜飲み込んだ蟲が、蠢き、増殖しているような不快感が消えない。


 夜になると、それはさらに顕著になった。自室のベッドに横たわると、耳元で、あの「カサカサ」という音が、まるで直接脳内に響くように鳴り響いた。そして、その音の合間から嘲るような、あるいは諭すような、七星未玲の声が響いてくる。


「ねぇ、由良日花里。あなた、本当にそれでいいの?」


 その声は、あの明るく弾んだ「蟲の未玲」の声だった。

 日花里は布団を頭から被り、必死にその声から逃れようとした。


「西条紗友の機嫌を損ねない? はは、笑わせるね。あなた、本当はあの女が大嫌いなんじゃないの? 自分の保身のためだけに、他者を平気で踏みにじるあの笑顔が、心底醜いと思ってるんでしょ?」


 日花里は目を見開いた。声は、心の奥底に隠していたはずの、決して誰にも言えなかった感情を、容赦なく抉り出す。


「それにあの時、文芸部室で七星未玲を助けなかったこと。後悔してるんじゃないの? 助けるべきだったって、ずっと自分を責めてるんじゃないの?」


 脳裏には、床に倒れ伏す未玲の姿が鮮明に蘇る。濡れた髪が顔に張り付き、その瞳に宿る絶望。そして自分の弱さが、その場から逃げ出させたあの瞬間。


「全部、本当のことだ」と、もう一人の自分が叫ぶ。

 日花里は、震える声で呟いた。


「黙ってよ……」

「どうして? 本当のことじゃない。あなたは、あの女に支配されて、自分の居場所を守るために、他者を犠牲にした。それは、あの女と何ら変わらないでしょう?」


 鋭い言葉が日花里の胸を刺す。それは、紛れもない真実だった。彼女が目を背けてきた、最も醜い自己の姿。


「でも、あなたはまだ、私とは違う。あんな女と同じ場所には、なりたくない、と思ってるんでしょ?」


「蟲の未玲」の声は、まるで甘い毒のように、日花里の心に染み渡る。


「だったら、私を使いなよ。あの女の仮面を剥がしてあげる。あなたの嫌いなものを、全部、消してあげる。そうすればあなたは、あの時の罪を償える。そして、本当の意味で、自由になれる」


 日花里は身体を起こした。真っ暗な部屋の中で、自分の鼓動だけが、耳鳴りのように響いている。この異変が、あの蟲のせいだという確信が、日花里の中で強まっていく。だが同時に、その「蟲」の誘惑が、これまで押し殺してきた自身の本能的な渇望と、共鳴し始めているのを感じていた。それは紗友への憎悪であり、自分を縛るもの全てからの解放への願いでもあった。


「私は……何をすれば……」


 日花里の問いかけに、未玲の声は、満足げな笑みを浮かべたかのように響いた。


「簡単なことだよ。あなたの『嫌い』を諦めるだけ。そうして、私に渡すだけ。そうすれば、私はもっと強くなる。あなたを縛る鎖を、全て断ち切ってあげる」


 日花里はその言葉の意味を理解し始めた。彼女の異変は、単なる体調不良ではない。未玲が、自分の中の感情を利用せんとしていたのだ。それは恐ろしい取引でありながら、同時に、彼女を救う唯一の道のように思えた。


 翌日、紅橋は放課後の図書館で様々な本を漁っていた。最近の学園の異常事態を未玲の仕業だと確信して以来、彼女は未玲の異変の根源を探っていたのだ。未玲のノートに描かれたおぞましい蟲の絵。紅橋はあの絵を思い出すたびに、「委員長」としての使命感を駆り立てていた。しかし、何を調べても、未玲の現状を説明できるような情報は得られなかった。ただ時間だけが漠然と過ぎていく。


「……何を探しているの?」


 紅橋は振り返った。そこに立っていたのは、由良日花里だった。顔色は悪いが、どこか以前よりも、その瞳に強い光が宿っているように見えた。


「由良さん……」

「七星さんのこと?」


 その問いかけは、まるで日花里自身も、この異変の「鍵」を求めているかのような響きを帯びていた。紅橋は一瞬躊躇したものの、日花里の瞳の奥に、かつての怯えとは異なる、真剣な光を見た気がして、小さく頷いた。


 日花里は、無言で紅橋の隣に座った。二人の間に、重い沈黙が流れる。

 日花里の目的は、協力者を得ることだった。自身の内に蠢く異物、そして、未玲の声が囁く「解放」の甘美な誘いは、彼女一人が抱えるにはあまりに重い出来事であった。紅橋がよく文芸部を訪れていることは、紗友たちの陰口で耳にしていた。七星未玲を一番理解しているのはおそらく、彼女だと思ったのである。


 しかし彼女の視線は、紅橋が広げていたノートの端に描かれた、蟲の絵に吸い寄せられた。その絵は、紅橋が文芸部室で見た光景を、スケッチしたものだった。そして、その絵から、日花里の耳にだけ聞こえる微かな「カサカサ」という音が、確かに響いた。


 日花里は、自分の内面に蠢く蟲と、目の前の絵が、まるで繋がっているかのように感じられた。恐怖と、そして抗えない共鳴が、彼女の心を支配する。日花里は、自分の顔色が青ざめていくのを感じた。


「これって……」


 紅橋は彼女の動揺を見て、彼女もまた、この異変に深く関わっていることを悟った。それは、紅橋が未玲に抱いた恐怖と同じくらい、あるいはそれ以上に、日花里の心を蝕んでいるものかもしれない。


「由良さん……もしかして、あなたも……」


 紅橋の言葉に、日花里は顔を上げた。その瞳は、恐れと、そして底知れない渇望が入り混じった光を宿していた。


 学園の屋上。西に傾いた太陽が、燃えるような橙色に空を染めていた。

 七星未玲は風に髪をなびかせながら、眼下に広がる学園の景色を見下ろしていた。


「……そろそろ、食べ頃だね」


 口元に満足げな笑みが浮かぶ。それは「人間としての未玲」が決して見せない、「蟲の未玲」の歪んだ笑顔だった。

 彼女の中では、日花里の内に育ち始めた新たな感情の芽と、紅橋が何かを探し始めているという、確かな感覚が響いていた。


「はは、面白い。本当に期待を裏切らない」


 今までに「蟲」を忍ばせた者たちの顔が浮かんでいく。階段から落ちた男子生徒、痛みに襲われた女子生徒、由良日花里。その最後に、西条紗友の顔が、脳裏に浮かんでいた。


「そろそろ、食べ時だね」

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