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第6話 歪む光景

 由良日花里は、異様な感覚に苛まれていた。あの日、カラオケで蟲を飲み込んでからというもの、自身の内側から何かが変質していくような、そんな違和感を常に抱えていた。それは、五感が研ぎ澄まされたような明瞭さであると同時に、世界が歪んでいくような不快感を伴うものだった。


 些細な音が、やけに耳に響く。廊下を歩く生徒たちの足音。カバンの中の筆記用具が擦れる音。風もないのに、換気口から漏れる微かな空気の振動。それら全てが、神経を逆撫でするように日花里の鼓膜を叩いた。これまで何でもなかった日常の音が、まるで耳元で誰かが囁くように、不快な摩擦音となって響く。


 ……カサカサ。


 幻聴ではない。確かに聞こえる。誰もいない場所で、常にその音がまとわりつく。それは、カラオケで聞いたあの蟲の這う音と瓜二つだった。その音は、日花里の意識が向かう先に、あたかも蟲が蠢いているかのような錯覚を引き起こした。教室の隅で、参考書に目を落とすクラスメートの顔が、突然、醜く歪んで見えた。その歪んだ顔の表面には、黒い斑点のようなものが浮き出て、まるで蟲の目が無数に並んでいるかのようだった。


「ひっ……!」


 日花里は思わず息を呑み、視線を逸らした。隣の席の女子生徒には、その様子が不審に映ったのだろう。


「どうしたの? 顔色悪いよ?」


 心配そうに覗き込む彼女の顔もまた、一瞬、醜悪な蟲の形に歪んで見えた。日花里は咄嗟に目を閉じ、深く息を吐き出す。気のせいだ。幻覚だ。そう言い聞かせても、一度植え付けられた疑念は、その根を深く張っていく。自分の身に起きている異変が、あの時に飲み込んだ蟲と無関係ではないと、日花里は薄々気づき始めていた。その一方で、自身の内面に、これまで押し殺してきたはずの苛立ちや、特定の同級生への不満が、マグマのように沸々と湧き上がってくるのを感じていた。


「ねぇ、あいつら、また七星さんのこと見てるよ」


 清掃時間中、紅橋真結は、クラスメートたちのひそひそ話に耳を傾けていた。彼女の視線の先には、窓際の席で一人、静かに掃除をする七星未玲の姿があった。以前は、いじめの対象として「気持ち悪い」「陰気」と陰口を叩かれていた未玲だが、最近ではそれに加えて「化物」「呪い」といった言葉が頻繁に聞かれるようになっていた。


 階段からの転落事故、原因不明の関節痛、そして教師の机に現れた無数の蟲。それらの奇妙な事件が、未玲の関与によるものだという噂は、学園の中で蔓延していた。しかし、その原因を究明しようとする者はおらず、ただ漠然とした恐怖が、未玲を孤立させる新たな要因となっていた。


 紅橋はモップの柄を握りしめ、眉をひそめた。未玲の異変を食い止めたい。そう強く願う紅橋だが、自分が感じた「蟲の未玲」のおぞましさが、委員長としての責任感と衝突する。あの日、文芸部室で未玲が言った言葉が、紅橋の脳裏をよぎった。


「そうだよ、私。私が全部、やってあげたの」

「だって、ひどいことする人間は、嫌いでしょ? 私、嫌いなものは全部、消しちゃいたいんだ」


 その言葉の裏に、ある種の「正義」のようなものを感じ取ってしまう自分がいた。いじめを許せない、不和を許せない、クラスの調和を重んじる。字面だけ見れば、それは紅橋自身の理想でもあった。しかし、未玲の正義は、あまりにも過激で……到底、「委員長」の理想とは程遠かった。


 放課後。紅橋は文芸部室の扉の前に立っていた。ノックする指が、僅かに震える。中にいるのは、いつもの陰鬱な未玲か、それともあの楽しげな「蟲の未玲」か。彼女は深呼吸をして、扉を開けた。


 部室の中には案の定、未玲がいた。机に向かい、いつものようにノートに何かを書き連ねている。その姿は、一見すると何の変化もない。だが、ノートの余白に描かれた蟲の絵が、以前にも増して禍々しい生々しさを帯びていることに、紅橋は気づいた。


「七星さん……」


 紅橋が声をかけると、未玲はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、やはり淀んでいた。しかしその奥に、どこか満足げな光が宿っているように、紅橋には見えた。


「何か、用?」


 未玲の声は、相変わらず抑揚がない。だが紅橋はもう、目の前の未玲が、完全に「人間としての未玲」ではないことを理解していた。あるいは、その境界線が曖昧になっている、というべきか。


「学園で、変なことが……」


 紅橋は言葉を選びながら、そう切り出した。すると、未玲の口元に微かな笑みが浮かんだ。それは、紅橋が見たことのない、そして「人間としての未玲」が決して見せることのない、底知れない愉悦に満ちた笑みだった。


「委員長は、本当に鈍いね」


 楽しげな声が、薄暗い部室に響く。紅橋はその声にぞっとした。それは、あの「蟲の未玲」の声だった。


「もう、みんな気づいてるのに。何でこんなに時間がかかったんだろう? ま、いいか。みんなが気づけば、それでいいんだもんね」


 未玲は、紅橋の言葉を遮るようにそう言った。その声の振幅には、以前よりもさらに、嘲りが含まれているようだった。


「ねぇ、委員長。あなたも嫌いなもの、たくさんあるでしょ? 例えば、そう……責任を押し付けてくるだけの教師とか、陰でこそこそと悪口を言うクラスメートとか、汚れたままの教室とか」


 未玲の言葉が、紅橋の心の奥底に沈めていたはずの、淀んだ感情を掬い上げるように響く。紅橋は、言葉を失った。委員長として、常に理想的な姿を演じようとしてきた自分。しかし、心の片隅では、彼女の言葉に共感している自分がいた。


「全部、私が消してあげようか? そしたら、あなたは心地よく過ごせる、秩序のあるクラスを作れるよ。ね? 助けてあげようか?」


 未玲は、紅橋の顔をじっと見つめた。その瞳には、かつての澱みは消え失せ、代わりに、抗いがたいほどに魅惑的な、きらめくような光が宿っていた。それは、紅橋が理想とする「秩序」を、甘美な毒で包み込むような誘いだった。


 紅橋は、一歩後ずさった。未玲の言葉が、あまりにも魅力的で、そして同時に、あまりにも恐ろしかった。


「……何を、するつもりなの?」


 紅橋の声は震えていた。未玲はその問いかけに、無邪気な子供のように微笑んだ。


「さあ? 食べてみないと分からないもの……でしょう?」


 夕暮れの光が、文芸部室の窓から差し込み、未玲の顔に影を落とす。その影の中で、彼女の瞳だけが妖しくきらめいていた。

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