第5話 奔流
学校を休んだ日、由良日花里の中には一つの決意もどきが生まれた。「もう、西条紗友の機嫌を損ねない」。そのために彼女は、より一層気を遣うようになった。紗友のグループにいることの心地よさと、いじめの片棒を担ぐことの罪悪感。その間で揺れ動きながらも、彼女は「今の居場所」を守ることを選んだ。未玲のことは、頭の奥底にしまい込み、見なかったこと、聞かなかったことにしようと努めた。だが時折、文芸部室で見た未玲の力ない姿や、紗友の冷たい声が、ふとした瞬間に脳裏をよぎり、胸を締め付けていた。
そんな日花里に新たな試練が訪れたのは、あの事件から数日後のことだった。下校中、日花里は紗友から呼び止められた。
「由良っち、ちょっといい?」
紗友の周囲には、いつもの取り巻きたちが固まっている。日花里は、反射的に身体をこわばらせた。笑顔を貼り付けながら、彼女は紗友の前に立つ。
「何かな、紗友?」
「由良っち、この前言ってたじゃん? みんなでカラオケ行きたいって。今日、どうかな?」
紗友は、底抜けに明るい笑顔でそう言った。日花里は一瞬戸惑った。確かに、以前「カラオケ行きたいね」と、世間話の流れで口にしたことはあった。だが、それはあくまで社交辞令だ。本当に誘われるとは思っていなかった。彼女たちと同じ部屋に閉じ込められる……そんな想像を浮かべたとき、彼女の脳裏には、薄暗い文芸部の惨状が湧き上がってきた。
「あ、ありがとう! でも、今日はちょっと……」
日花里は、適当な理由をつけて断ろうとした。しかし、紗友はそれを許さなかった。
「えー、つまんない! 私、由良っちと一緒に行きたかったのにー。ね、みんなもそうでしょ?」
紗友の言葉に、取り巻きたちが一斉に同調する。「そうだよ、由良っち!」「せっかく紗友が誘ってくれてるのに」──。
有無を言わさぬ同調圧力。日花里は、自分が拒否できないことを悟った。あの時、文芸部室で未玲を見捨てたように、今、彼女は自分の意志を押し殺し、この「集団」に飲み込まれていくしかないのだと。
「……やっぱり、うん、行こうかな!」
日花里は無理矢理笑顔を作り、そう答えた。紗友は満足そうに頷き、日花里の肩をポンと叩いた。その手がまるで鎖のように日花里を捕らえ、逃れる術を奪う。
気付けば、カラオケボックスの薄暗い個室で、日花里はマイクを握っていた。周囲のグループの熱狂とは裏腹に、彼女の心は冷え切っていた。歌声は日花里の感情とは裏腹に、明るく、楽しげに響く。
だが、その熱狂的な歌声の合間、ふと、耳元で奇妙な音がした。
……カサカサ。
微かな音。まるで、小さな虫がどこかから這い出てきたかのような、不快な摩擦音。日花里は思わず歌を中断し、周囲を見渡した。しかし、誰も気づいていない。皆、モニターに映る歌詞を追い、次の曲を予約することに夢中だった。
「どうしたの、由良っち? 歌わないの?」
紗友が、訝しげな表情で日花里を見た。日花里は、慌てて笑顔を作り直す。
「ううん、何でもない! ちょっと喉が渇いちゃって」
そう言って、日花里は卓上に置かれたドリンクバーのコップに手を伸ばした。その時、彼女の視界の端に、動くものがあった。
テーブルの端。そこには、小さな黒い影が蠢いていた。体長は一センチにも満たない、しかし、明確に「蟲」の形をした、おぞましい存在。それが、ゆっくりと、日花里のコップへと近づいていく。
日花里は凍り付いた。息をすることすら忘れ、ただその黒い影から目を離すことができなかった。蟲は、コップの縁に辿り着くと、躊躇うことなく、その小さな身体をコップの縁へと滑り込ませた。
透明な液体の中を、黒い蟲がゆっくりと沈んでいく。
日花里の全身に、言いようのない悪寒が走った。目の前のドリンク。口に含んでしまったら、どうなるのか。想像するだけで、胃液が逆流しそうになった。
「由良っち、早く飲んで、次歌お!」
紗友の声が耳元で響き、はっとする。縋るように取り巻きたちへ視線をやるが、彼女たちはうっすらと笑みを浮かべながら日花里を見つめている。
彼女たちには蟲が見えないのだろうか? それとも……知った上で。
そんな疑念を抱いた後でも、日花里は握りしめたコップを、震える手でゆっくりと持ち上げていた。彼女にはもう、「流される」以外の選択肢はなかった。
逃げられない。逃げる術はない。
この場所から、もう、逃げ出すことはできない。
日花里は、コップを唇に近づけた。冷たい液体の感触が、手のひらに伝わる。その液体の中には、確かに、あの黒い蟲が沈んでいる。
ごくり、と、日花里は喉を鳴らした。