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第4話 仮面の表

 学園という箱庭は、常に新たな噂を生み出し、そして消費していく。ある者はそれを娯楽とし、ある者は現実逃避の手段とする。だが、時にその噂は、日常の脆い均衡を揺るがし、脆い心に得体の知れない不安を植え付けるのだ。


 夏休みを目前に控えた七月下旬、星十学園には、複数の「奇妙な事件」に関する噂が蔓延し始めていた。階段からの転落事故、原因不明の関節痛、そして教師の机に突如現れた無数の蟲。それらの出来事が、それぞれの事件の当事者たちの間で囁かれるだけでなく、クラスメートや部活動の仲間、はては学年を超えて、尾ひれをつけて語られていく。


 特に蟲の件は、生徒たちの間でひときわ強い嫌悪感とともに広まった。まるで地底から這い上がってきたかのようなおぞましい虫が、校舎のどこかにはびこっているのではないかという、漠然とした恐怖。それは、日常の裏側に潜む「非日常」への、生々しい感覚を呼び覚ました。


 そんな学園の不穏な空気を、紅橋は敏感に感じ取っていた。清掃時間中、クラスメートたちがひそひそと交わす会話。「あの男子、いっつも七星さんに意地悪してたらしいよ」「あれ、呪いなんじゃないの?」「七星さん、なんか変だもんね」──。


 紅橋の脳裏には、昨日文芸部室で対峙した「七星未玲」と、その前日に見た「七星未玲の皮を被った何か」の姿が交互に蘇る。あの薄気味悪い笑顔と、楽しげな声。そして、今日の陰鬱な未玲の表情。まるで、二つの異なる存在が、一つの身体を共有しているかのようだった。


 馬鹿げた妄想のようにも思える。しかし、あの蟲の絵。未玲のノートに描かれていた、おぞましい生々しさを持った蟲。それが、現実の事件と結びついていると考えるのは、あまりにも突飛な発想だった……だが、彼女の胸の奥底には、言いようのない嫌悪感と、確かな予感のようなものが、じわりと広がっていた。


 紅橋は放課後、人目を避けるように文芸部室へと向かった。昨日の未玲の態度は、依然として彼女を混乱させていた。しかし、この奇妙な出来事は未玲と無関係ではないという確信が、彼女の足を動かしていた。


 古びた扉を開けると、そこにはやはり七星未玲がいた。窓から差し込む夕陽が、彼女の顔に陰影を作り、その表情を読みにくくしている。未玲はいつもと同じように、机に広げたノートに何かを書き連ねていた。


「七星さん」


 紅橋は、意を決して声をかけた。未玲は筆を止めることなく、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、やはり感情の起伏を感じさせない、無機質な光を宿していた。


「……何か、用?」


 短く問い返された言葉に、紅橋は躊躇する。彼女はふと言葉を詰まらせて、悪夢みたいな筋書きを見つめ直す。私は、七星さんに何を聞きたかったのだろう。本当にあの「何か」が、彼女のもう一つの顔だと確信しているのか。


「最近、学校で変なこと、たくさん起きてるの、知ってる?」


 紅橋は単刀直入に尋ねた。未玲はわずかに眉をひそめたが、すぐに元の無表情に戻る。


「……ニュースで見た」

「ニュースって……学校のことだよ? 階段から落ちた男の子とか、関節が痛くなった女の子とか……」


 紅橋の言葉に、未玲は静かに目を伏せた。その細い指が、ノートの端をぎゅっと握りしめているのが見えた。


「私には、関係ない」


 拒絶の言葉。だが、その声の奥に、微かな揺らぎを感じ取ったような気がして、紅橋はさらに踏み込んだ。


「でもあの人たち、七星さんのこと、いじめてた人たちだよ?」


 その瞬間、未玲の身体が微かに震えた。顔は俯いたままだが、その指が、ノートの余白に描かれた蟲の絵を、無意識になぞっているのが見えた。蟲の絵は、先日目にした時よりも、さらに黒々と、禍々しく、そしてどこか満ち足りたような表情を浮かべているように、紅橋には見えた。


 ふと、紅橋の脳裏にはある疑問が浮かんだ。彼女はなぜ、こんな絵を描き続けているのだろう。

 紅橋はもう一度、未玲の目を見つめた。あの日の文芸部室で見た「未玲ではない何か」のキラキラと輝く瞳と、今日の未玲の淀んだ瞳。二つの瞳が、紅橋の脳裏で混ざり合っていくように感じられた。


 心のどこかで生じた悪夢を、彼女は今すぐにでも消し去ってしまいたかった。気付けば、一音一音を確かめるように尋ねていた。


「お願い、七星さん。教えて……あなたがやったの?」


 紅橋の問いかけに、未玲は顔を上げない。ただ静かに、そしてゆっくりと、未玲の唇が動いた。


「……あはは」


 その声は、紅橋が知る未玲の声とはまるで違っていた。明るく、弾んでいて、どこか楽しげな響きを帯びている。まるで、昨日、紅橋が逃げ出した時に聞いた、あの声と瓜二つだった。


「やっと気づいてくれたの? 委員長、鈍いんだから」


 未玲の顔が、ゆっくりと紅橋の方へ向く。その瞳は、もはや淀んではいなかった。澱みなく、きらめくような光を宿し、そして、底知れない愉悦がそこに満ちていた。硬質だった表情筋は生き生きと動き、口元には、満月のような笑みが浮かんでいる。


「そうだよ、私。私が全部、やってあげたの」


 未玲は、まるで幼い子供が自慢するかのようにつけ加えた。


「だって、ひどいことする人間は、嫌いでしょ? 私、嫌いなものは全部、消しちゃいたいんだ」


 紅橋は、全身から血の気が引くのを感じた。目の前にいるのは、七星未玲の姿をしている。だが、その内側には、紛れもない、おぞましい「蟲」が巣食っている。


 紅橋は、思わず一歩、後ずさった。逃げたい。本能がそう叫んでいた。だが、彼女の視線は、未玲の机に広げられたノートの、あの蟲の絵に釘付けになった。そして、その禍々しい絵の隣には、紅橋が知る「ぷにいぬ」のキーホルダーが、何事もなかったかのように、そっと置かれていた。もちもちとした丸い体は、絵の黒々とした線とはあまりにも対照的で、不気味なほどの違和感を放っていた。


 その小さなマスコットが、まるで嘲笑うかのように、紅橋の目に焼き付いた。

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