第3話 蠢く兆し
次の日の朝、由良日花里は、いつもより長く自室のベッドに潜り込んでいた。真夏の太陽が既に高く昇っているにも関わらず、カーテンの隙間から漏れる光すら、彼女の目には眩しすぎた。頭の中で、昨日の文芸部室での出来事が繰り返し再生される。七星未玲が床に倒れ伏していた姿。引き裂かれた原稿と、ぐちゃぐちゃになった本。そして、西条紗友の、底なし沼のような瞳。
「内緒にしてね。うちら、友達だもんね?」
あの声が、日花里の鼓膜にへばりついて離れない。目を閉じても、開いても、紗友の冷たい笑顔が脳裏にちらつく。吐き気がする。後悔と、言いようのない恐怖が、彼女の胸を締め付けた。
なぜあの時、助けてあげられなかったのだろう。
なぜあの場から、逃げ出してしまったのだろう。
そんな自責の念が、鉛のように身体を重くした。しかし同時に、あの時の自分の判断は間違いではなかったと、もう一人の自分が囁く。もし紗友に逆らっていたら、次はいじめの標的が自分になっていたかもしれない。今の居場所を失う恐怖は、日花里にとって何よりも耐え難いものだった。
結局、その日は学校を休んでしまった。熱があるわけでもないのに、身体がだるく、何もする気になれなかった。
同じ日の放課後。
紅橋はいつものように清掃当番を終え、文芸部室へと向かっていた。昨日、七星未玲の姿をした「何か」から逃げ出したあの場所へ、再び足を踏み入れることに、恐怖を感じないわけではなかった。しかし、委員長としての責任感、そして何より、彼女から逃げ出してしまったかもしれないという罪悪感ゆえに、彼女は歩みを進めていた。
古びた部室の扉の前に立つ。深く息を吸い込み、軋む音を立てて扉を開けた。
「……七星さん、いる?」
独り言のような声が、薄暗い部室に吸い込まれていく。返事はない。昨日のは何だったんだ、と紅橋は内心で安堵と落胆がないまぜになった息を吐いた。だが、その刹那、部室の奥から微かに、そしてはっきりと、紙をめくる音が聞こえた。
紅橋は思わず息を呑んだ。音のする方へ、ゆっくりと視線を向ける。窓際の席。いつも未玲が座っている場所に、誰かがいる。
人影は相変わらず沈黙したまま、机に広げられたノートに視線を落としていた。そのシルエットは、まさに七星未玲そのものだった。紅橋は、昨日経験した得体の知れない恐怖が再びこみ上げてくるのを感じた。あの時、逃げ出してしまった自分の醜態を思い出し、足がすくむ。
「七星さん……」
ようやく絞り出した声は、ひどく震えていた。
人影は、ゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは、いつもの七星未玲だった。無表情で、どこか遠くを見つめるような瞳。以前の淀んだ光を宿した、陰鬱な少女。昨日の、あの明るく弾んだ声の「何か」とは、まるで別人のようだった。紅橋は混乱した。目の前にいるのは、自分が知る七星未玲だ。だが、昨日の出来事は、夢ではなかったはずだ。
「……何?」
未玲の声は、いつも通り抑揚がなく、紅橋の問いかけに、むしろ困惑しているようにも聞こえた。紅橋は、一瞬何を言うべきか言葉に詰まる。
「え、と……昨日は、ごめんね。その、私、急用ができちゃって……」
紅橋は咄嗟に嘘をついた。自分が感じた恐怖と、衝動的な逃走を、どう説明すればいいのか分からなかった。未玲は、紅橋の言葉に何の反応も示さず、ただじっと見つめ返している。その視線が、紅橋の嘘を見透かしているかのように感じられ、彼女は居心地の悪さに身をよじった。
「あの……何か、変わったこと、あった?」
紅橋は震える声で尋ねた。未玲の瞳は、まるで感情の抜け落ちた人形のように、ただ虚空を映している。しかしその視線の奥に、微かな動揺のようなものが垣間見えた、と紅橋は感じた。
「何も」
短く、冷たい返事が返ってきた。紅橋は、これ以上踏み込むべきではないと本能的に悟った。しかし、未玲の机上に広げられたノートの余白に、黒々とした蟲の絵が、以前にも増して執拗に、そして禍々しく描かれているのを目にし、紅橋は息を呑んだ。
その絵は、単なる落書きとは異なり、まるで生きているかのような、おぞましい生々しさを帯びていた。細く、しかし力強い線で描かれた体節。鋭利な鎌のような脚。そして、無数の小さな眼が、ノートの紙面から紅橋を睨みつけているかのようだった。
「……そっか。昨日はごめんね。じゃあ」
紅橋はおもむろに扉を閉めながら、震える手に力を込めた。なんでもない三文字を言いたいだけなのに、澱みのような恐怖に引き留められてしまう。だが、委員長としてのプライドが喉を震わせていた。本心なのか建前なのか、彼女でも分からなかった。
「またね」
その日の午後、学園の廊下で、普段であれば決して起こりえない、奇妙な出来事が頻発し始める。
まず、ある男子生徒が何の予兆もなく、突然、足を踏み外して階段から転落した。幸い骨折には至らなかったものの、全身打撲の重傷を負い、病院に搬送された。その生徒は、普段からクラスの中心人物であり、西条紗友と共に七星未玲をいじめているという噂が流れていた。
次いで、ある女子生徒が体育の授業中に、突然、膝から崩れ落ち、全身の関節が外れたかのような悲鳴を上げた。医師の診断では原因不明の関節痛と診断されたが、彼女もまた、紗友の取り巻きの一人だった。未玲へのいじめに加担していたのは言うまでもない。
そして、日も暮れかけた頃、職員室で悲鳴が上がった。未玲のクラスを担任する教師が、自分の机に置いてあったはずの煙草の箱が、無数の蟲に覆われているのを発見したらしい。驚きと嫌悪感から、教師は思わずそれを叩き落とそうとしたが、蟲たちはまるで彼の動きを予測しているかのように素早く散開し、次の瞬間には、教師の指先から腕へと、びっしりと張り付いて這い上がってきた。悲鳴を上げながら、彼は意識を失ったのだという。
その夜、星十学園の校舎はひっそりと静まり返っていた。しかし、誰にも気づかれることなく、文芸部室の窓から二つのきらめく光が、闇に溶け込むように瞬いていた。
「……あはは。やっぱり、人間って面白いね」
明るく、楽しげな声が、誰もいない部室に響く。
「ねぇ、あなたもそう思わない?」
問いかけられたもう一つの存在は沈黙したまま、ただ月光を浴びて、静かに佇んでいた。