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第2話 地獄

「学校とは何か?」


 そんな問いを投げかけられた生徒たちは、時折、核心を突くような答えを返してくるらしい。彼ら曰く、学校とは、社会から隔絶された独立した世界であり、外界への逃避を阻む電気柵であり、脆く弱い生徒たちを一時的に保護する楽園である、と。

 そこには息を潜めた天才もいれば、尊大な凡人もいる。陰鬱な表情の聖人もいれば、時には、笑顔を貼り付けた悪魔だって存在する。


 果たしてこの場所は、天国か。それとも地獄か?


 由良日花里は、疑いなく後者だと感じていた。

 客観的に見れば、彼女は充実した日々を送っているように映るだろう。成績は中の上、放課後は気の合う友人と駅前のカフェでスイーツを楽しみ、週末は仲良しグループでカラオケやボウリングに興じる。

 しかし、その中で見せる笑顔は、全てが作り物だった。


 彼女が今のグループの一員となったのは、いつの間にかのことだった。きっかけを強いて挙げるなら、五月頃の体育の授業で、カーストの頂点に君臨する女子、西条紗友と、共通の話題で盛り上がったことだろうか。世界中で話題の某韓流アイドルが好きだと口にした瞬間、紗友は目を輝かせ、まるで運命の出会いを果たしたかのように、日花里の手を握ってきた。その強烈な圧力に抗うことはできず、日花里はただ、紗友のペースに巻き込まれるしかなかった。


「そういえば今度、みんなで遊びに行かない? 同じクラスの由芽とか成美とかも誘ってみようと思ってるんだけど、仲良くなる良い機会じゃない?」

「じゃ、じゃあ、行こっかな」

「決まりね! 由良っちと私、マジで気が合うじゃん!」

「ゆ、由良っち……? あ、あはは……」


 今思えば、あの時から既に、彼女の逃げ場は失われていたのだ。そうして日花里は、いつの間にか、カースト上位の一人として生きていくようになった。

 まだそれだけならば、耐えられたかもしれないのに。


 七月の頭だっただろうか。

 重く湿った空気が肌にまとわりつくような雨の日だった。日花里はその日の放課後、図書委員の仕事として、各部室から「○○部おすすめの一冊!」というアンケートを回収する任務を負っていた。低気圧による鈍い頭痛を堪えながら、彼女は灰色に染まった廊下を歩いていた。普段は空気を含んでふわふわと揺れる短めの癖毛も、今日は湿気を含んで、大人しく肩に張り付いている。


「次は、文芸部室……っと」


 ぼんやりとした視線で、古びた扉の前に立ち止まる。彼女が文芸部室を訪れるのは、これが初めてだった。そもそも文芸部のこと自体、クラスの隅でいつも一人でいる「七星未玲」という陰気なクラスメートが所属している、という程度の認識しかなかった。

 形式的な軽いノックの後、彼女は重い扉をゆっくりと開けた。


「……え?」

「あ、由良っち」


 そこにいたのは、かの西条紗友と、その取り巻きである男女数人。

 そして、床に力なく倒れ伏し、全身を濡らした七星未玲。彼女の周囲には、引き裂かれた原稿の断片や、踏みつけられたようにぐちゃぐちゃになった本が散乱していた。


 日花里は、喉の奥が張り付いたように、言葉を発することができなかった。目の前で繰り広げられている信じがたい光景を理解しようと必死になり、ただその場に立ち尽くしていた。その間にも、紗友はゆっくりと日花里の方へ歩み寄り、彼女の目をじっと見つめた。大きく潤んだ黒い瞳には、まるで底なし沼のように、吸い込まれるような強い力があった。


「どうしたの? すっごく怖がってるみたいじゃん」

「え……だって、倒れて……」

「ただの『罰ゲーム』だってば! うちら、すっごく仲良しだからさ。心配しなくても大丈夫だってば。だよね、みんな!」


 紗友の言葉に、部室にいる他の生徒たちは、薄気味悪い笑みを浮かべながら、同調するように頷いた。だが、床に倒れたままの七星未玲は、何の反応も示さない。うつ伏せの状態からゆっくりと顔を起こし、濡れた髪の先から床にぽたぽたと水滴を落としながら、紗友の目をじっと見つめている。その視線には、言葉にはならない、深い絶望のようなものが宿っていた。


 紗友は、その様子にほんの少しだけ眉をひそめた後、わざとらしく明るい笑顔で問いかけた。


「七星さんも、そうでしょ?」

「……私は」

「ほら、大丈夫だってさ」


 日花里はその光景を前にして、既に全てを察していた。自分が身を置いているグループが、七星未玲を陰湿にいじめているのだと。そして、その状況を目前に、自分は何もできないのだと。


 こんな最低なこと、早く先生に言ってやめさせなければ。彼女の中の良心が悲痛な叫びを上げた。しかし彼女の足は、まるで地面に縫い付けられたように、容易には動かなかった。


 もしこれを言ってしまえば、どうなるのだろう。紗友たちは停学? そんな処分を受けたとして、その後、何事もなかったかのように学校に戻ってきたら、私は一体どう思われるのだろう。何をされてしまうのだろう。もし処分がもっと重くて、退学になったとしたら。このグループとしか繋がりがない私は、一体どうやって生きていけばいいのだろう。


 彼女が葛藤し、思考が堂々巡りを繰り返す間にも、紗友は静かに日花里の肩に手を置いた。その動きは穏やかでありながら、逃れられない確かな力が込められていた。


「日花里。うちらは、ただ遊んでるだけ、でしょ?」

「ひっ……!」

「内緒にしてね。うちら、友達だもんね?」


 日花里が言葉を失い、ただただ唖然としている中、文芸部室の扉は、まるで何もなかったかのように静かに閉じられた。廊下には、重苦しい沈黙と、一人取り残された日花里だけが立っている。彼女の鼓膜には、西条紗友の、氷のように冷たく、それでいてねっとりとした声が、深く刻み込まれていた。


 そして彼女の脳裏には、閉じかけられた扉の隙間から垣間見た、七星未玲の姿が鮮明に蘇っていた。わずかな抵抗すら諦めたような、力なく細い肢体。その傍らには、彼女のものと思われる、付箋が何枚も貼られた文庫本や、丁寧に文字が綴られた原稿が落ちていた。未玲の瞳に光はなかった。ただ、目の前の絶望的な時間が、終わりを迎えるのをひたすら耐えているように、日花里には感じられた。


 ようやく我を取り戻した日花里は、早足で廊下を進んでいった。明確な目的地があったわけではない。ただ、どこかに向かおうとしなければ、背筋を流れ落ちる得体の知れない冷や汗を、止めることができなかったのだ。


 職員室? 先生に言えば、このいじめを止めることができるかもしれない。

 それとも、あの部室に戻って、なんとかして七星さんを連れ出すべきだろうか。


 混乱したおぼつかない思考回路で、彼女は必死に考えを巡らせた。

 だが次の瞬間、彼女の脳裏には鮮やかに蘇るものがあった。あの薄闇の中で、射抜くように日花里を見つめていた、西条紗友の黒い瞳が。


 ダメだ。言ってはいけない。もし、このことを誰かに話して、紗友に知られてしまったら……次は私だ。私から紗友たちとの繋がりを奪ってしまったら、私は七星さんと、同じ場所に落ちてしまう。誰も助けてくれない。誰にも、助けを求めることさえできなくなる。


 日花里は、ぎゅっと唇を噛み締めた。心臓に大きな異物が詰まっているような不快感を覚えながらも、彼女は歩みを続けた。その足が向かう先は、職員室でも、あの陰鬱な文芸部室でもなく、自分のリュックサックが置いてある教室だった。

 彼女は何も言わずに、見て見ぬふりをして、この学校から逃げるように帰ることを、静かに決めたのだった。

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