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第1話 非日常へ

 凡庸な日々を生きる人間にとって、「非日常」は大抵、現実の延長線上にある単純な願望に過ぎない。


 もし、ある日突然、預金口座に一億円が舞い込んだとしたら。その甘い想像の裏には、金銭への執着が隠されている。


 あるいは、教室に銃を持ったテロリストが乱入してきたら。その劇的な妄想には、歪んだ期待が潜む。憎むべき同級生への私刑願望か、あるいは、自身の活躍で場を納めたいという自己顕示欲か。


 もし、自分が人ならざる異形だったとしたら?


 七星未玲は、そんな鮮烈なイメージに取り憑かれていた。今日もまた、薄暗い文芸部室の隅で、彼女はひっそりと、おぞましい蟲の絵をノートの余白に描き続けていた。その筆先から生まれる黒々とした線は、まるで彼女の中に棲む何かを具現化しているかのようだった。


 東京郊外に所在する私立星十(せいと)学園は、際立った特徴のなさが唯一の特色と言えた。集う生徒たちは、顔立ちも学力も、どこにでもいるような平均的な存在ばかり。部活動も、たまに陸上部が県大会に顔を出す程度で、強豪と呼べるほどでもなく、かといって見る影もないほど弱くもない。奇抜な生徒もいるにはいるが、その特異性は「どの学校にも一人はいる」という範疇に収まるものだった。


 しかし、七星未玲は違った。入学式の朝から既に、誰にも侵されない孤城の中に身を置いていたのだ。周囲のクラスメートたちが、ぎこちない笑顔で新たな友を探し合う中、彼女は凍てついた仮面を貼り付けたように、窓際の最後列の席に沈黙していた。


 そんな彼女の存在を、クラスの学級委員長である紅橋真結は、放っておくことができなかった。生来の世話焼き気質と、委員長としての責務感から、紅橋は一人浮世離れした未玲の机へと近づいた。


「七星さん、だよね? 初めまして、紅橋べにばしっていいます」

「……初めまして」


 紅橋の視線は、未玲の机上に置かれた無骨な黒い筆箱に吸い寄せられた。装飾など一切ない、機能性だけを追求したような筆箱のファスナーには、不釣り合いなほど愛らしいマスコットが一つ揺れていた。もちもちとした質感のプラスチック製で、丸みを帯びた犬のキャラクターだ。


「その筆箱のキーホルダー、『ぷにいぬ』だ! 私もぷにいぬ、すごく好きなんだ! かわいいよね!」

「私は……嫌い」

「そ、そうなんだ……ごめんね、勝手にファンだと思っちゃって」


 紅橋は、予想外の言葉に一瞬言葉を失った。なぜ嫌いなキャラクターをキーホルダーに? それに、せっかく話しかけているのに、この突き放した態度は何だろう。様々な疑問が頭を駆け巡るが、委員長としての矜持が、それを表情に出すことを許さなかった。


 一度は躊躇したものの、紅橋は諦めなかった。最初の会話は失敗に終わったかもしれないが、まだ関係を修復する手立てはあると信じていた。クラスの不協和音を取り除き、誰もが心地よく過ごせる、それでいて秩序のあるクラスを作る。それこそが、彼女が「委員長」である理由なのだから。


「そういえば、七星さんはどこの中学校出身なの?」

「……あなたは?」

「私は東森中だよ。家が近いからここにしたんだ」

「そう……私は県外から来た。札幌の、名前を言っても分からないと思うけど」


 その言葉を聞いた瞬間、紅橋は獲物を見つけた猟犬のように身を乗り出した。


「札幌から来たんだ! 私も修学旅行で行ったことあるよ! 何を食べても美味しかったなぁ。特に……」

「……ごめんなさい、私、用事があるから」

「あっ、う、うん……引き止めちゃってごめんね」


 そう告げると、未玲は音もなく立ち上がり、教室の扉へと向かった。その後、焼け付くような夏の陽射しが降り注ぐ日まで、二人が言葉を交わすことはなかった。紅橋が何度か話しかけようとしても、未玲はそれを巧妙に避け、彼女はクラスの中でますます孤立を深めていった。まるで、周囲の喧騒から隔絶された、静かな深淵の底にいるようだった。


 事態が微かに動き始めたのは、夏休みを目前に控えた七月十七日。アスファルトが陽炎で歪むような、耐え難い暑さの水曜日だった。


 放課後、紅橋はいつものように、一人教室の掃除をしていた。クラスには清掃分担が割り振られているはずだったが、彼女の目に映るのは、惰性と倦怠感に塗れた、形式的な作業ばかりだった。これでは教室は一向に綺麗にならない。不潔で雑然とした環境は、生徒たちの間に不満の種を蒔く。クラスの長として学びの場を整えることは、委員長にとっての「責任」だった。


「ねぇ、また紅橋さんが一人で掃除してるよ」

「内申稼ぎでしょ? 生徒指導室に近いし、先生に良い子ぶって見せたいんじゃない? ま、ただの変人だって噂もあるけど」

「褒めてほしいなら一人でやってればいいのに。毎日毎日、うるさいし、邪魔ばっかりしてくるし、正直ウザいんだけど」


 廊下で談笑するクラスメートたちの声が、わざとらしく紅橋の耳に届いた。握っていたほうきの柄が、一瞬力を失った。


 ウザい。だるい。うっとうしい。


 それは、彼女にとって聞き慣れた言葉でありながら、決して慣れることのできない、痛みを伴う棘だった。


 紅橋は、握っていたほうきを教室の隅にそっと立てかけると、まるで何かから逃げるように、足早に教室を後にした。


「あ、逃げた」

「図星だったんじゃない? いつも偉そうにしてる罰だよ、きっと」


 違う。私は、学級委員長として、みんなのためにやっているのに。これが私の役割で、私の存在意義なのに。なぜ、誰も理解してくれないのだろう。


 小学校でも、中学校でも、そして今の高校でも、彼女は同じような陰口を囁かれ続けてきた。通知簿の評価は常に「良好」だったが、彼女の学生生活は、決して輝かしいものではなかった。


 この日、彼女が文芸部室の扉を叩くまでは。


 放課後の紅橋には、日課と呼べるものが二つあった。一つは教室の清掃、そしてもう一つが、文芸部室への訪問だった。夕暮れ時のその部屋では、本来ならば文芸部員たちが活動しているはずだった。しかし、星十学園の文芸部員はわずか四名。そのうち三名は、単に「帰宅部」というレッテルを避けるための幽霊部員であり、毎日律儀に部室に通っているのは、七星未玲、ただ一人だった。


 紅橋が文芸部室に通い続けていたのは、他でもない、その孤独な七星との距離を縮めたいという、一途な思いからだった。クラスの中で孤立している未玲に、積極的に関わろうと試みてきた彼女の努力の甲斐あってか、今やクラス内で誰とも打ち解けられない存在は、未玲と、そして彼女に話しかける紅橋だけになっていた。


 しかし、連日のように部室を訪れても、未玲の姿を見つけることはできなかった。七月初旬から始めたこの習慣は、何回もの扉開閉と、時間帯をずらしての訪問を繰り返していたが、未だに未玲と顔を合わせることはできていない。内心では半ば諦めかけていた。だが「委員長」たるもの、クラスメートの手本となるべきであり、目標を達成できないまま努力を放棄する姿は、「委員長」失格だと、彼女の中の強い責任感が囁いていた。


 今日もまた、諦念にも似た思いを抱きながら、彼女は古びた部室の扉を叩いた。返ってきたのは沈黙だけ。橙色の夕焼けが廊下を静かに照らす中、人気のない空間に、彼女は小さく「入りますね」と声をかけた。


 軋む音を立てて開かれた扉の向こうには、いつものように薄暗い文芸部室が広がっていた。中央の長机の上には、背表紙の剥がれた古書や、皺くちゃになった書類が雑然と積み重ねられ、床には中身のわからない段ボール箱が置かれている。その奥の窓からは、深く染まった藍色の夕空が見えた。


「やっぱり、いないよね……」


 独り言のような呟きに、応答はなかった。いつもならば。


「あっ、委員長だ! 何か用?」


 文芸部室の奥、大きな段ボール箱の陰から、突如、明るく弾んだ声が響いた。聞き慣れない声色、そして見慣れない動き。紅橋は一瞬、他の部員の一人だろうと考えた。しかし、それならば自分を「委員長」と呼ぶのはおかしい。七星以外の文芸部員は皆先輩であり、彼女をそう呼ぶクラスメートは存在しない。何より、こんなにも気安く話しかけてくる人物など、未玲以外にはいなかったはずだ。


 紅橋は目を凝らし、薄暗がりの中でゆっくりと近づいてくる人影を注視した。西に傾いた太陽の橙色の光が、弱々しく扉の付近を照らしている。人影の輪郭がはっきりと見えた瞬間、紅橋は思わず一歩、後ずさった。


「どうしたの? 私の顔に何か付いてる?」

「えっ、その……七星さん、だよね?」

「うん! やだなあ、四月にちゃんと話したでしょ?」


 以前の淀んだ瞳とはまるで違う、きらめくような光を宿した瞳。硬質な表情は和らぎ、生き生きと変化する顔の筋肉。風もないのに、楽しげに揺れる髪。


 そこにいたのは、確かに七星未玲の容姿をしていた。しかし、それ以外の全てが、まるで別の何かだった。そこにいるのは、いつもの陰鬱な彼女ではなく、同じ皮を被った、得体の知れない化け物のように思われた。


 おぞましく、そして言いようのない気味の悪さが、紅橋の全身を駆け巡った。突き動かされるように、彼女は本能的に廊下を走り出した。


 七星の姿をしたものは、文芸部室の扉からひょこっと顔を出し、廊下を這うように逃げていく紅橋の背中を、静かに見つめていた。やがてその姿が階段の下へと消えると、ふう、と小さく息を吐き出し、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。


「……また、駄目だった。


 だから、最初から私を使えばよかったのに! 初対面で変な印象を持たせるから、いつもこうなるんだよ。


 確かに、あなたが正しい。けれど私は……。


 いい加減諦めなよ。あなたは、もう人間らしくなんていられないんだってば。でも、おかしいね。人間が、人間らしくないなんてさ。


 ……。


 お父さんも、お母さんも、食べちゃったせいかな。あなたが読んでた本にあったよね? 育った環境が悪いと、まともな人格はできあがらないって。ごめんね、あのとき、見殺しにすればよかったね?


 今更、そんなこと言わないで……もう昔のことはいいから。本当にもう、いいから……。


 あはは、わかったってば。じゃあ次は、誰を食べちゃおうか?」


 夕焼けは、刻一刻と地平線に沈みかけている。

 七星未玲は一人、薄れゆく橙色の光の中に、静かに佇んでいた。

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