Ⅲ. セント・マーガレット教会の闇
セント・マーガレット教会はビッグ・ベンのすぐ近くに佇む古い建物だった。霧はさらに深くなり、教会の尖塔が月光にぼんやりと浮かんでいる。ヴィクターとエリオットは重厚な木製の門を押し開け、教会の中へと足を踏み入れた。門の軋む音が静寂に響き、冷たい空気が二人の頬を撫でていく。
教会内部は、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれていた。
高い天井から吊り下げられたシャンデリアは埃をかぶり、ステンドグラスから差し込む月光が、床に青や赤の淡い模様を描いている。祭壇の後ろには厳粛な表情で二人を見下ろす十字架に磔にされた主の像。湿ったような木とロウソクの残り香が混じり合い、どこか不気味な雰囲気だ。
「ここがハロルドが逮捕された場所、か」
ヴィクターは懐中電灯を片手に、祭壇の周りをゆっくりと歩き始めた。電灯が石の壁や彫刻を照らし出し、長い年月を経た傷やひび割れが浮かび上がる。祭壇の側面に手を這わせた彼が、指先に触れる石の冷たさに顔をしかめたのは一瞬。隠された仕掛けがないか慎重に調べ始める。対するエリオットは、壁に刻まれた古い銘文に目を向けた。ラテン語で書かれたその文字は、教会の歴史を物語るものだった。
「ヴィクター、この銘文……。教会が建てられたのは17世紀だけど、ハロルドの時代にはすでに何度も修復されている。もしかすると、隠し部屋や秘密の通路があるかもしれないよ」
エリオットの声は小さく、だが興奮が滲んでいた。
彼は懐から小さな手帳を取り出すと、銘文を書き写しながら誰に言うでもなく口の中で呟く。
「この銘文は『神の御加護のもと、この聖なる場所は永遠に守られん』と書かれている。普通の祝福の言葉だけど、何か隠された意味があるかもしれないね」
エリオットは銘文の周囲を指でなぞり、異常がないか確認した。すると、銘文の一部の石がわずかに凹んでいることに気がついた。
「ヴィクター、こっちに来てくれ!」
エリオットが声を上げた。
碑文が刻まれた壁の一角に小さなプレートを見つけたからだ。プレートは銅製で、長い年月を経てひどくくすんでいる。しかし、そこには確かに『Harold Clarke』の名前が刻まれており、さらにその下には奇妙な記号が彫られていた。それは小さなクロスと、らせん状の模様が組み合わさったものだった。
「ハロルドの名前か……」
ヴィクターが近づき、懐中電灯でプレートを照らした。
「このプレートは後から付け加えられたものだな。表面の摩耗具合が周囲の石と違う」
ヴィクターはプレートを指で軽く押してみたが、びくともしない。
「何か仕掛けがあるはずだ。俺に送りつけられた手紙が、明らかにこの場所を指し示めしているんだからな」
「この記号……ヴィクトリア朝の時代には、秘密結社やオカルト的な儀式でよく使われたものだと思うよ」
エリオットは、ハロルドの名前とともにプレートに刻まれている螺旋状の記号に注目した。
「螺旋は『隠された真実』を象徴するんだ。もしかすると、このプレートを動かす方法が近くにあるのかもしれない」
彼はプレートの周囲をさらに詳しく調べ始めた。壁の石を一つ一つ指で叩き、音の違いを確かめていく。ヴィクターは祭壇の裏側に移動すると、床に散らばった埃や古いロウソクの欠片を注意深く観察した。
「エリオット! ここの床、一部が他の部分と色が違う」
「本当かい?!」
ヴィクターが指差した場所は、祭壇のすぐ裏にある石板だった。
確かに、その部分は周囲の石よりもわずかに明るく、埃の積もり方が不自然に少なかった。ヴィクターは膝をつき、石板を指でなぞる。すると、石板の端に小さな隙間があることに気づいた。
「ここだな。エリオット、なにかちょうどいい道具を持ってはいないか?」
「おっと。探偵様ともあろうものが、こーゆー時のために七つ道具のひとつやふたつ、持ち歩いていないっていうのかい?」
「……冗談だ。君はそこで見ていてくれ。自分でどうにかする」
「それこそ冗談だね。すねないでくれよ」
エリオットはコートのポケットから小型のナイフを取り出して、ヴィクターに差し出した。ヴィクターはしばらく不機嫌そうにナイフと、愉快そうに自身を見下ろす幼馴染の顔を見比べていたが、結局はため息一つ。無言のまま小型ナイフを受け取った。
「さて、これでうまくいくといいが」
それでも負け惜しみのように疑念を口にしつつ、ヴィクターはナイフの先を石の隙間に差し込んで慎重に力を加えた。石板がわずかに動き、鈍い音と共にずれる。エリオットが急いで隣に駆け寄り、二人は力を合わせて石板を持ち上げた。すると、その下から現れたのは教会の地下へと続く階段だった。かすかにかび臭い、湿った空気が階下から漂ってくる。
「……隠し部屋だ」
エリオットの声に緊張が混じっていた。ヴィクターは無言のまま懐中電灯を手に、階段の先を照らした。石の壁に沿って続く階段は、まるで奈落の底へと続くかのように見えた。
「もしかして、ハロルドがこの先に……?」
「行くぞ。だが、気をつけろ。何があるか分からない」
ヴィクターはエリオットの肩に手を置き、静かに呟いた。エリオットは小さく頷き、ヴィクターの後ろに続いた。二人は懐中電灯の光を頼りに、ゆっくりと階段を下りていく。足音が石壁に反響し、地下室へと続く道はますます暗く、冷たく感じられた。
地下室に辿り着くと、そこは湿った空気に満ちていた。壁に並ぶ、古い絵画や彫刻。絵画のいくつかは、黒い布で覆われて埃とカビの臭いが鼻をついた。そして部屋の中心には、一つの石棺が置かれていた。エリオットを片手で制止て、ひとりヴィクターが石棺へと近づいていく。
「……コレも"Harold Clarke"か。一体、中にはなにがあるんだ……?」
石棺の蓋に刻まれた名前を指でなぞり、ヴィクターは忌々し気に呟いた。そして、躊躇いなくその蓋に手を掛ける。
「ともかく、確かめてみるしかないな」