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Ⅰ. 霧の夜に響く時計の音

 細やかな霧が街を優しく包み込むロンドンの夜。ビッグ・ベンの時計塔が青白い月明りに照らされ、時を刻む針が冷たい空気を震わせる。雨の残り香が漂う中、街灯の淡い光が滲む石畳の上で二人の男が佇んでいた。


 黒いコートを纏った男ヴィクター・グレアムは、先ほどから鋭い目つきで遠くを見つめるばかりだ。漆黒の髪が額に張り付き、頬を伝う水滴が精悍なその横顔を一層際立たせている。その隣に立つ青年エリオット・マーシャルは、互いに夜の挨拶を交わしたきり、なかなか本題を切り出そうとしない相手に溜息ひとつ。ベージュのトレンチコートの襟元をかき合せると、探るような上目遣いで口を開いた。


「何か急ぎの用でもあるのかい、ヴィクター? こんな夜更けに呼び出すなんてヒドイじゃないか」


 エリオットの金髪が夜風に揺れる。その声音は普段通りの穏やかさだが、言葉には明らかな不満や皮肉が込められていた。


「まさか、こんなところでお祝いの花束でも渡してくれるつもりかい? ああ、どうせ君は知らないだろうけどさ。今日は僕の論文が学会で大々的に取り上げられた喜ばしい日なんだ。さっきまで心優しき友人達がお祝いの食事会を開いてくれていたんだよ。とても幸せな気分だったんだ。ベッドに入った瞬間、けたたましい電話のベルが微睡みを切り裂くまではね」

「そうか。そりゃ俺にとっちゃ全く興味も関係もない話だな」


 ヴィクターはゆっくりとエリオットに向き直った。素っ気ない口調とは裏腹に、その口元には微かな笑みが浮かぶ。


「あのビッグ・ベンのように規則正しく日々を刻む君からしたら"こんな夜更け"かもしれないが、俺みたいな連中にとっちゃ今からが活動時間なんだ。おネムだとは思うが、どうかグズらず話だけでも聞いてくれ」

「いやだ」


 間髪を入れずに断りを告げられたヴィクターは、しかし気を悪くした風もなくじっとエリオットを見つめる。こんなのは彼らにとっていつものやり取りだった。エリオットもしばらくは不機嫌そうな振りでヴィクターをにらみ上げていたが、やがて堪えきれないという風にくつくつと喉を震わせた。


「わかった、わかったよ。君は昔からそういう奴だ。人並みの気遣いを求めた僕がバカだった。どうぞ、その後ろ手に隠した花束は、僕じゃない素敵な女性にでも贈ってあげてくれ」

「花束なんぞ持っていない」

「知ってるよ。君がユーモアってヤツを介する心を持っていないってこともさ」

 

 ヴィクターはエリオットの揶揄を心外だとでも言いたげに眉をひそめたが、それはそれだけだった。彼にとって唯一ともいえる友人の言葉を否定するだけの根拠を、持ち合わせてはいなかったからだ。


 二人はこの霧深い街で幼い頃から共に過ごしてきた。

 しかしヴィクターが探偵として名を馳せるようになり、エリオットが大学院で本格的に歴史学を学び始めると、共に過ごす時間は明らかに減っていった。それでも、ヴィクターは困難な事件に直面すると必ずエリオットを頼った。彼の博識と鋭い洞察力はヴィクターにとってかけがえのないものだったからだ。


「それで?」

「……それで?」

「話を聞こうと言っているんだ。どうせまた事件なんだろう?」

「ああ、その通りだ。だが、"また"とは言ってくれるなよ。今回の事件は少し特別なんだ」


 エリオットに促され、ヴィクターはもったいぶるようにコートの懐から一通の手紙を取り出した。その封筒はひどく古びており、蝋で封がされていた痕跡があった。そして、そこに収められていた羊皮紙にはひとつの単語が記されていた。


『RESZ』


 それは意味を成さない、たった四つのアルファベット。

 しかし、羊皮紙を受け取ったエリオットが眉をひそめたのは、その奇妙な単語のせいだけではない。右下に几帳面な筆記体で記されたサインに気付いたからだ。


「ハロルド・クラーク……?」


 エリオットの唇から零れ落ちた名前は、どこか不穏な響きを伴って二人の間を漂う薄霧に紛れた。


「そうだ。ハロルド・クラークだ」


 ヴィクターも重々しく頷いた。その声音は低く、どこか緊張を帯びている。


「ハロルド・クラークは、かつてこの街で起きた連続殺人事件の犯人だ。もちろん俺が説明するまでもなく、君だって彼のことはよく知っているだろうがな」

「……僕の専攻は犯罪歴史学じゃないんだけど?」

「君のひい爺さんが、この街で起こる事件にたびたび首を突っ込んでいたことはヤードでは有名だぞ。まさにハロルド・クラークの事件は、彼が現役でこの街を駆けずり回っていた頃に起こったんだ。彼が関わっていないはずがない」

「だから、そのひ孫である僕もハロルド・クラークを知ってるって? 残念ながら、僕は曾祖父とは全く接点がないんだ。なにせ僕が生まれたころには亡くなっていたし、彼の子供である祖母はあまり曾祖父の話をしたがらなかったからね。それに、そもそもがおかしいだろ?」


 手にした羊皮紙をひっくり返しながら、エリオットは眉間のしわを深くする。


「遠い昔にハロルドは刑に処されたはずだ。この手紙の差出人は同姓同名の別人か。ただの悪戯なんじゃないのかい?」

「かもな」


 エリオットの言葉にヴィクターは頷いた。しかしそれはただの相槌で、同意を示すものではないことは明らかだった。


「だがこの百年もの間、歴史の闇に埋もれていた殺人犯の名前が今になって蘇ったんだ。偶然ではないと考えるべきだろう」

「……なにが言いたいんだ?」


 意味深なヴィクターの言葉にエリオットは顔を上げた。真正面からぶつかった漆黒の瞳は普段通りの平静さを保っていたが、エリオットはその瞳の中にわずかな不安を見た気がした。


「君がそこまで断言するってことは、なにか根拠があるんだろうね」

「ああ。今朝この街で起きた殺人事件の手口と、ハロルド・クラークのそれとが酷似しているんだ」

「なんだって?!」

「声が大きい」


 思いがけず夜の街に響いた不用心な驚きの声をたしなめて、ヴィクターは淡々と話を続ける。


「被害者はなんの躊躇いもなく喉を切り裂かれ、その傷口に特徴的な絵柄が刻まれたコインを埋め込まれていた。コインはハロルドの時代に製造されたものだった。そしてヤードから呼び出された俺が調査から戻ると、事務所のポストにこの手紙が放り込まれていたんだ。これを偶然だと片付けるには出来すぎている」


 ヴィクターは漆黒の双眸を細め、ビッグ・ベンの時計塔を見上げた。


「この街にはまだ、過去の亡霊が彷徨っているのかもしれない」

「……そうだとして」エリオットは慎重に口を開く。

「いったい君は私に何をしろというんだい? 僕はただの歴史学者だ。まだまだヒヨッコのね。高名な探偵様のお役に立てるとは思わないよ」

「君のひい爺さんが残した捜査資料がどこかに残ってはいないだろうか? ハロルドの事件についての歴史的な背景や、当時の記録を調べてほしいんだ」

「君ならヤードに保管されている資料を見放題だと思うんだけど? あるかないかも判然としない、素人探偵(曾祖父)の捜査記録を頼る必要なんてなさそうだ」

「……ごっそりなくなっちまったんだよ」

「え?」

「今朝起きた殺人事件の前日に、わずかばかり残されていたハロルド関連の資料が、跡形もなく持ち去られちまってたんだ」


 衝撃的な事実に、エリオットは驚きで息を飲んだ。ただし、先ほどヴィクターに注意されたことを思い出して声は出さずに。


「頼む、エリオット。君ならきっと、今回の殺人事件に対する手掛かりを見つけられる。君の協力が必要なんだ」


 エリオットはそのまま黙り込んだ。

 ヴィクターの声には信頼と期待が込められている。彼がこうして自分を頼ってきてくれることは嫌ではない。むしろ嬉しいくらいだ。だが、今回エリオットの心をざわつかせたのは、こちらを真っすぐに見つめてくる漆黒の瞳に先ほどから見え隠れする微かな不安だった。普段は冷静で、どんな困難にも動じないヴィクターが今夜はどこか焦っているように思えた。


「わかった。手伝うよ」


 エリオットは小さく息を吐き出した。そうして手紙をコートのポケットにねじ込むと、ふいに悪戯めいた笑みをヴィクターへと向ける。


「じゃあ、早速いこうか」

「……どこへだ?」

「僕の部屋にだよ」

「なぜ?」

「まさか、僕ひとりだけに曾祖父が遺した膨大な資料を調べさせる気じゃないだろうね?」

「今夜はもう遅い。調べ物は明るくなってからで構わない」

「おいおい、今さら僕の健康を気遣ってくれるってのかい? 次の犠牲者が出る前にこの事件を解決したい。そう考えたからこそ、君はこんな夜中に僕を呼び出したんだろう? そしてこのまま僕が眠りにつこうが、どうせ一晩中、この霧の中で当てもなく亡霊探しをするつもりなんだ。そうだろう?」

「だったらなんだ?」

「もっと合理的に考えなよって話さ。この手紙は今回の事件に対する重要なヒントだ。闇雲に亡霊探しをするより、まずは一緒にこの謎を解いたほうが効率的だとは思わないかい?」

「思わない」


 ヴィクターは唇を尖らせて、エリオットから視線を背けた。しかしそれはあきらかな拒絶ではなく、幼い子供が拗ねている様子そのもので、エリオットは思わず声を立てて笑ってしまう。


「頼むよ、ヴィクター。たまには夜更かしをしたい気分なんだ。どうか君も付き合ってくれ」

「…………しょうがないな。今回は君の意志を尊重しよう。ただし、今回だけだ」

「はいはい。寛大なるお心に感謝いたしますよ、名探偵様」


 そうして二人は肩を並べて歩き出す。

 ビッグ・ベンの鐘が鳴り響き、霧の街に重厚な音がこだました。

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