第9章 壊れた羅針盤
夜の帳が降り、私たちは古い雑居ビルの屋上に身を潜めていた。昼間の喧騒が嘘のように、あたりは静まり返っている。冷たいコンクリートの上に直接座り込むと、じわりと寒さが伝わってきた。空には、欠けた月と、無数の星が瞬いている。街の明かりがないせいで、星々の光は驚くほど強く、まるで手の届きそうな錯覚さえ覚えた。
昼間の出来事の後、私たちはお互いにほとんど口を利かなかった。仄の謝罪の言葉と、それに対して何も言えなかった私の沈黙が、気まずい壁となって立ちはだかっている。別れを切り出せなかった不甲斐なさが、空腹と疲労に混じって、重く私の心にのしかかっていた。このまま仄と一緒にいて、本当に大丈夫なのだろうか。いや、そもそも「大丈夫」な状況なんて、この世界に存在するのだろうか。思考は、答えのない問いの間を堂々巡りするばかりだった。
仄は、膝を抱えて座り込み、じっと夜空を見上げていた。昼間見せたか細い様子とは少し違い、今はいくらか落ち着いているように見える。けれど、以前のような、世界を達観したような奔放さは影を潜め、どこか儚げな雰囲気が漂っていた。
「ねえ、藍ちゃん。あのお月さま、なんだか寂しそうじゃない?」
仄が、静かに語りかけた。その声は、夜の空気に溶けるように、穏やかだった。
「いつも一人で、あんな高いところにいて。本当は、誰かにそばにいてほしいのかもね。星たちも、たくさんいるように見えるけど、一つ一つはすごく遠くにいて、きっとお互いの声も届かないんだ」
彼女の言葉は、相変わらず詩的だったけれど、以前のような確信めいた響きはなかった。むしろ、自分自身に言い聞かせているような、どこか不確かな響きを帯びている。
「私もね、時々、自分がどこにいるのか分からなくなるんだ」
仄は、視線を月から足元のコンクリートへと落とした。
「まるで、壊れた羅針盤みたいに。どっちが北で、どっちが南なのか、ぐるぐる回って、全然教えてくれないの。だから、ただ、風が吹く方へ、なんとなく歩いてるだけなのかも」
壊れた羅針盤。その比喩は、妙に私の胸にストンと落ちた。いつも不可解で、世界の真理を知っているかのように振る舞う仄の、その内側にあるのかもしれない戸惑いや孤独のかけらに、ほんの少しだけ触れたような気がした。それは、彼女が決して見せようとしなかった弱さの断片なのかもしれない。
遠くで、低く長く続くような、奇妙な鳴き声が聞こえた。おそらく「ナニカ」の声だろう。そして、向かいのビルの屋上に、二つの赤い光点が、じっとこちらを見ているように瞬いていた。直接的な危険は感じない。けれど、私たちは常に、この世界の異質な住人たちに監視されている。逃れることのできない、巨大な檻の中にいるような感覚。それが、ひしひしと肌に伝わってきた。
仄の言葉を聞き、彼女の意外な一面に触れて、私の心はさらに複雑に揺れていた。苛立ちや、彼女を利用しようという打算的な気持ちが消えたわけではない。けれど、同時に、わずかな同情のようなもの、そして、この壊れかけた少女を一人で放り出すことへの、奇妙な責任感のようなものも感じ始めていた。それは、決して心地よい感情ではなかった。むしろ、さらに厄介な荷物を背負い込んでしまったような、重苦しい感覚だ。友情や絆なんて、そんな綺麗な言葉で呼べるものではない。ただ、腐れ縁のように、断ち切れない何か。
やがて、仄は私の隣に横になり、小さな寝息を立て始めた。壊れた羅針盤も、今は束の間の休息を得ているのだろうか。私は一人、冷たいコンクリートの上で膝を抱え、眠れないまま夜空を眺めていた。欠けた月、無数の星、遠くで光る赤い目、そして隣で眠る少女の気配。答えの出ない問いと、厄介な感情だけが、私の心を占領していた。この夜が明けたとして、私たちはどこへ向かうのだろう。壊れた羅針盤は、私たちをどこへ導くのだろうか。確かなことなど、何一つないまま、夜は静かに更けていった。