第3章 剥がれた壁紙の地図
日が傾き、空が茜色から深い藍へと移ろう頃、私たちは使われなくなった学習塾の空き教室に忍び込んでいた。窓ガラスは辛うじて割れておらず、埃っぽいとはいえ、風雨をしのぐには十分だった。床にはチョークの粉と紙屑が散らばり、壁には子供たちが描いたのであろう落書きの上に、さらに意味不明の記号のようなものが重ねて描かれている。誰が描いたのか、あるいはそれも「ナニカ」の仕業なのか、判然としない。私たちは部屋の隅にリュックを置き、持ってきた缶詰を分け合った。トマトソースの味気ない酸味が、舌の上に広がる。
仄は、壁の一箇所を指さした。そこは壁紙が大きく剥がれ落ち、下のコンクリートが剥き出しになっている。その形が、何かの地図のように見えなくもない。
「見て、藍ちゃん。あれ、昔私が住んでた街の地図だよ」
「……ただ壁紙が剥がれてるだけでしょ」
私は冷めた口調で返した。今日の仄は、いつもに増して空想の世界に浸っているようだ。
「ううん、違うの。ほら、あそこのシミが、よく行ってた公園。こっちのひび割れは、秘密の近道だった路地。ちゃんと覚えてるもん」
仄は、剥がれた壁紙の輪郭を指でなぞりながら、早口でまくし立てる。その目は、壁のシミではなく、もっと遠いどこかを見ているようだった。
「その公園にはね、大きな時計台があったんだ。てっぺんに、銀色の風見鶏がついててね。風が吹くと、カタカタって鳴るの。優しい音だった」
彼女の声は、ほんの少しだけ震えているように聞こえた。それは、この荒廃した世界には似つかわしくない、柔らかな響きを持っていた。
「でもある日ね、風がすごく強い日に、風見鶏、飛んでいっちゃった。どこに行ったか、誰も知らない」
仄はそこで言葉を切ると、俯いて自分の膝を見つめた。
これが、彼女なりの「回想」なのだろうか。断片的で、脈絡がなくて、どこか物語めいている。風見鶏の話は、本当にあったことなのか、それとも彼女が作り出した比喩なのか。私には分からない。ただ、その言葉の端々から、失われたものへの微かな痛みが伝わってくるような気がした。
私も、思い出すことがある。この街がこんな風になる前のこと。何の変哲もない、退屈な日常。学校の帰り道、自販機で買った炭酸飲料の味。夕暮れのチャイムの音。それらは、今となっては手の届かない、遠い世界の出来事だ。別に、特別幸せだったわけじゃない。むしろ、息苦しさを感じることも多かった。それでも、あの頃の「普通」が、今はひどく貴重なものに思える。壁のシミを地図だと言い張る仄のように、私もまた、失われた過去の断片に、無意識のうちに意味を見出そうとしているのかもしれない。
「記憶にもね、味があるんだよ」
仄が顔を上げて、言った。窓から差し込む最後の西日が、彼女の横顔を照らしている。
「しょっぱい記憶、甘い記憶、苦い記憶。時々、何の味もしない記憶もある。そういうのは、食べてもお腹いっぱいにならない」
「……食べても?」
「うん。だって、私たちは記憶を食べて生きてるんだもん。だから、美味しい記憶をたくさん持ってないと、心がぺこぺこになっちゃう」
仄の言葉は、もはや私には理解の範疇を超えていた。けれど、否定する気にもなれなかった。この世界では、常識や理性の方が、よほど脆く、頼りないものに思える時がある。心がぺこぺこになる、という表現は、妙に腑に落ちた。今の私の心は、きっと乾ききったスポンジみたいになっているのだろう。
夜の帳が完全に降りると、窓の外からは、「ナニカ」たちの立てる不気味な音が聞こえてくる。金属が擦れる音、低いうなり声のような響き、正体不明の軋み音。それらは、もはや子守唄のようにも感じられた。慣れというのは恐ろしい。
仄は、窓際に寄りかかり、じっと外の闇を見つめている。その小さな背中が、妙に頼りなく見えた。
「あの子たちも、寂しいのかな」
彼女が呟く。
「忘れられた神様も、ゼリーフィッシュも、お腹を空かせたあの子も。みんな、誰かに覚えていてほしいだけなのかもね」
私は返事をしなかった。ただ、リュックの中の缶詰の数を指で確かめる。明日の食料は、これで足りるだろうか。そんな現実的なことだけが、私の頭を占めていた。仄の感傷に付き合っている余裕はない。それでも、彼女の存在が、この孤独な夜の闇の中で、奇妙な慰めになっていることも、否定できなかった。私たちは、互いの私欲と臆病さを抱えたまま、ただ隣に座っている。剥がれた壁紙の地図が示す場所に行くことは、もう二度とないのだろう。それでも、私たちは明日もまた、この歪んだ世界で目を覚ますのだ。