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第2章 空き缶とプラネタリウム

歩道橋を降り、私たちは目的もなく錆びれた商店街のアーケードを歩いていた。かつては賑わっていたのだろうシャッター通りは、今ではほとんどが閉ざされたままだ。いくつかのシャッターは歪み、あるいは破れて、暗い内部を覗かせている。割れたショーウィンドウのガラス片が、足元でじゃりじゃりと音を立てた。ここにも「ナニカ」の気配はあった。壁に張り付く蔓のような金属片、道の真ん中で脈打つように明滅する信号機のような残骸。それらは日常の風景に溶け込みすぎていて、もはや異常と呼ぶことすら憚られる。


「ねえ、藍ちゃん。世界が終わる時って、どんな音がすると思う?」

仄が、落ちていた空き缶を蹴りながら尋ねた。カーン、と乾いた音がアーケードに響き、すぐに静寂に吸い込まれる。

「知らない。考えたこともない」

また同じような返答しかできない自分に、少しだけ嫌気が差す。仄の問いかけはいつも、私の思考の範囲外からやってくる。

「私はね、きっとすごく静かなんだと思う。雪が積もるみたいに、音もなく、全部が白くなって、そのまま溶けてなくなっちゃうの」

彼女は空を見上げる。アーケードの屋根の隙間から、切り取られた青空が見えた。

「プラネタリウムみたいだね、あそこ」

仄が指さしたのは、化粧品店のひしゃげたシャッターの隙間だった。暗い店内には、割れた鏡の破片が散らばり、天井から剥がれ落ちたらしい断熱材のようなものが綿埃のように舞っている。外からの光がその埃に反射して、まるで星屑のように見えなくもなかった。


「昔、お母さんと行ったんだ。丸い天井に、いっぱいの星が映って、すごく綺麗だった。でも、あれも偽物なんだよね。本物の星は、あんなに近くにはないんだもん」

仄の声には、寂しさとも諦めともつかない、不思議な響きがあった。彼女の言う「本物」とは、一体何を指しているのだろう。この荒廃した街の空か、それとも、もっと別の、私には想像もつかない場所にある何かだろうか。


私たちは、少し開いたままになっている八百屋のシャッターをくぐり、薄暗い店内に入った。鼻につくのは、腐敗した野菜の甘ったるい匂いと、カビの匂い。床には萎びた葉物野菜や、泥のついた根菜が散らばっている。それでも、奥の棚にはまだ手つかずの缶詰や乾物が残っていることがあった。誰かに見つかる前に、使えそうなものを少し拝借する。それが、私のささやかな、しかし切実な目的だった。生きるためには、食べなければならない。その単純な事実だけが、この歪んだ世界で唯一確かなことのように思えた。


仄は、商品を探す私には構わず、店内に転がっていた木箱に腰掛け、壁の一点をじっと見つめていた。その壁には、かつて貼られていたのであろうポスターの跡が、シミのように残っている。

「壁もね、息をしてるんだよ」

彼女がぽつりと言った。

「耳を澄ますと聞こえるの。トクン、トクンって。このお店の、昔の記憶を吸い込んじゃったんだ」

私は黙って、棚からトマトの缶詰を二つ、リュックにしまい込んだ。仄の言葉に耳を傾ける余裕はない。早くここを出て、人目につかない場所で今日の寝床を探さなければ。そんな焦りだけが、私の心を占めていた。


不意に、店の奥から、ずるり、と何かを引きずるような音が聞こえた。私は咄嗟に身を固くし、音のした方へ視線を向ける。暗闇に目が慣れてくると、そこにいる「ナニカ」の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。それは、粘菌か苔のようなものが金属パイプに絡みついたような姿をしており、ゆっくりと床を這いながら移動していた。蛍光灯の残骸のようなものが体表で明滅し、不気味な光を放っている。


「…行こう」

私は小声で仄に囁き、彼女の腕を掴もうとした。しかし、仄は動こうとしない。それどころか、興味深そうに「ナニカ」を見つめている。

「大丈夫だよ。あの子、お腹が空いてるだけだから」

「何言ってるの、危ないって!」

私の制止も聞かず、仄は立ち上がると、ゆっくりと「ナニカ」に近づいていく。そして、自分のスカートのポケットから何かを取り出した。それは、道端で摘んだのであろう、小さな白い花だった。


仄は、その花を「ナニカ」の目の前(と思われる場所)に、そっと置いた。

「はい、どうぞ。綺麗なものでお腹を満たすとね、心も綺麗になるんだって」

「ナニカ」は動きを止め、花を包み込むように粘性の体を伸ばした。花はあっという間にその体内に取り込まれ、見えなくなる。そして、「ナニカ」は再びゆっくりと動き出し、店のさらに奥へと消えていった。


私は、呆然とその光景を見ていた。恐怖と、理解不能なものに対する苛立ちが入り混じった感情が、胸の中で渦巻く。仄の行動は、あまりにも無謀で、非合理的だ。けれど、結果的に何も起こらなかったという事実が、私の常識を揺さぶる。


「ほらね、大丈夫だったでしょ?」

仄は振り返り、いつものように屈託なく笑った。その笑顔が、今はひどく不気味なものに見えた。彼女は本当に、この世界の法則の外側にいるのだろうか。それとも、ただ幸運なだけなのか。


「……早く行こう」

私はそれだけ言うと、今度こそ仄の手を引いて、薄暗い八百屋から駆け出した。掴んだ彼女の手は、驚くほど冷たかった。アーケードを抜け、日の光の下に出ると、少しだけ息がつけたような気がした。


空き缶の乾いた音、プラネタリウムの偽物の星、壁の呼吸、そして、花を食べる「ナニカ」。仄が紡ぎ出す言葉と風景は、私の現実を静かに侵食していく。それはまるで、ゆっくりと効いてくる毒のように、私の理性と生存本能の間に、ささくれた亀裂を生み出していくようだった。この少女と一緒にいることは、危険だ。そう頭では分かっているのに、なぜか離れることができない。それは、彼女が持つ奇妙な知識が、この世界で生き延びるための何らかのヒントになるかもしれない、という打算なのか。それとも、ただ、私自身もまた、この歪んだ世界の毒に、少しずつ侵され始めているだけなのだろうか。

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