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独立

作者: 泉田清

 隣へ回覧板を隣へ持っていく。それと洗濯。以上が仕事だ。


 実家は集落で一番高い所にある。隣家は長い坂を下って左へ折れる。かつては木が生い茂り、小さな社と鳥居があった、昼でも薄暗いその坂は、集落の住人から「トンネル」と呼ばれて親しまれ、神社には供え物が今でも絶えない。

 今では木が全て伐採されソーラーパネルの工事が行われている。ここへ帰ってくるとき車に乗せられ、一度だけ山の反対側にあるメガソーラーを目にした。山の斜面に整然と並べられた、見渡す限りのソーラーパネルは、僅かな乱れも許さぬ峻厳なヒトの社会を思い起こさせる。思わず身震いした。その余波が近所にまできたわけだ。

 もう「トンネル」とは呼べない拓けた坂を、覚束ない足取り、というよりはビッコをひいて下りていく。下りる前からもう、左手には隣家が見下ろせた。見慣れない眺め。すっかり過去の人間になった気がした。


 隣家は「猫屋敷」である。敷地に入ってすぐ、ツンと強烈な臭いがした。納屋の前で数匹のネコが一塊になって寒さをしのいでいる。みな目やにでいっぱいだ。軒下からジッとこちらを睨みつけるものは肩口に赤々とした傷を負っている。農機具のタイヤの上で箱座りしているものは耳が欠けていた。そこにいた全ての者が(自分も)生気を失っているようだった。軒下にジャガイモが並べられている。かつて「全体的にジャガイモみたい」不格好な容姿についてある女性に言われた。自分でもそう思う。

 ニャア。尻尾の切れたネコがこちらにやって来た。何かに感染するような気がして触れるのは止めた。玄関にはインターフォンが無い。「こんにちわ」ノックする。何の応答もない。サッシ戸はカーテンが閉め切られ中が伺えない。いつものように回覧板をポストに入れた。ニャア。ついてきたネコが玄関の前に座った。引き戸を開けてくれると思っているのだ。残念。サッサと引き返した、誰かに出会う前に。


 今日は洗濯。父は働きに行った。顔を合わせるのは父ぐらいしかいない。この集落では、昼間に誰かに出会う事は滅多に無い。

 庭に洗濯物を干す。そこへ突風が吹いて、パンツが一枚飛ばされた。これも林が刈られ風通しが良くなったせいだ、まったく。パンツはフワリと風に乗って「トンネル」の右手へと落ちて行く。厄介なことになった。右手の先には「狂犬のいる家」がある。ともかく、パンツを探しに「トンネル」を右に下りていった。母は大学在籍中に故人になった。それから十年ほど自分は都内に住んでおり、父はずっと独りだった。きっと毎日弁当を食べていたに違いない。今も毎日弁当を食べているから。自分もご相伴にあずかっているわけだ。

 右手を下りた先は、「狂犬の家」の門口までアスファルトで舗装されている。狂犬の飼い主は会社経営者である。グルル!ワン!遠くから狂犬が吠え始めた。パンツはすぐそこに落ちている。パンツを拾う。グルル!ワン!グルル!ワン!狂ったように吠え、グイグイとリードを引きちぎらんばかりにこちらに向かおうとしている。

 実家に戻った当座、狂犬は鉄製の檻に入れられていた。荷物の配達員に嚙みついたのだ。おかげで数か月檻に入れられるハメになったわけだが、全く反省していない、それどころか前より勢いよく吠えるようになった。羨ましい。何にせよ、狂犬は生気に溢れている。情熱をもって侵入者を排除しようとしているのだ。


 無職だと日々はあっという間に過ぎる。また、回覧板を出しに行った。

 「トンネル」の鳥居を過ぎたところで、尻尾の切れたネコに会った。隣家で会った時には気づかなかったが、ビッコをひいている。我々はビッコ引いて並んで歩いた。尻尾の切れたネコが立ち止まった。隣家を見下ろし、ニャアと鳴いた。

 大学を卒業後、都内で「名の知れた会社」に就職した。何年か働いて精神疾患になり、おまけに交通事故に遭った。全治3か月の骨折で後遺症が残ってしまい、今もビッコをひいている。さらに交通事故の相手方と少し揉めた。それがコンプライアンスに抵触するとかで、会社から解雇されてしまった。社会はあまりに厳しすぎる。それで半年前に実家に帰ってきたわけだ。「しばらく静養しろ」父は言った。彼の稼ぎはいい、現役のうち自分を養えるくらいには。恐らく自分は、彼にとって犬とかネコのようなものだろう。


 尻尾の切れたネコは一緒に下りて来なかった。「猫屋敷」は相変わらずツンとした臭いで、生気を失ったような顔をしたネコたちがそこらに蹲っていた。

 「こんにちわ」反応は無い。サッシ戸はカーテンが閉め切られている。回覧板をポストに入れる、と、カーテンが揺らめいた。ギクリとした。隙間からアメリカンショートヘアが顔を覗かせた。ビックリしたような顔でこちらを見つめている。それは見覚えのある顔だった。

 就職して間もなく恋人ができた。それまで女性経験の無かった自分を面白がり、仲良くしてくれた。「ジャガイモみたい」と言ったのも彼女だ。何年かの交際の後「解雇された」伝えると、驚いた顔をした。今のアメリカンショートヘアみたいに。「社会規範を守れない人とは一緒にいられないから」間もなく自分は捨てられた。今思えば、彼女は「名の知れた会社」の会社員である自分を気に入っていたのだろう。肩書が無くなればオサラバというわけだ。

 アメリカンショートヘアは相変わらずビックリした顔で自分をみつめている。見れば見るほど整った顔立ち。毛並みも良く、均整の取れた体つき。漲る生命力。外に投げ出された、どこか欠けているネコたちとは全くの別物である。飼い主の寵愛を一心にうけているに違いない。何と残酷な飼い主か。自分もこういう整った顔立ちだったら、捨てられなかったかもしれない。


 「猫屋敷」を後にした。聳え立つ山と、青い空を仰ぐ。そこからは鳥居と社が良く見えた。その隣で、尻尾の切れた、ビッコをひいたネコがこちらを見ていた。見られていたのだ!

 尻尾の切れたネコは二度と「猫屋敷」には戻るまい。自分は呆然と、独り立ちしたネコを見上げていた。

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