Vier:Der Hut in Schnee
北の丘、という場所に近付くにつれ、地面が傾斜するのが分かった。あっという間に後方へ流れていく赤茶けた不毛の地を横目で見つめながら、アリスは呆然と、自分を抱え上げている青年を見上げた。
どうしてこうなったのでしょうか。
私はなにをしてしまったのでしょうか。
どこにでも落ちているような、普通の春の日だったと思うのです。
リデル家は貿易商で、アリスが生まれた時既に、周囲とは一線を画すほどの裕福、且つ高貴な家柄だった。娘である自分が部屋の総数を知らないほどの洋館に、入れ替わり立ち替わり、幼い頃に小山ほど買い与えられた人形達のように、顔の区別もつかないほどの大人数の使用人。話しかけても、彼らとは違った髪、眼、肌の色が、彼らをぎこちなくさせる。
使用人の皆と同じ髪と眼の色をした母は優しかったが、生来おっとりとして人を疑うことを知らない次女が大変不安だったらしく、よく言い聞かせていた。「外の人や、知らない御客様には、むやみと話しかけてはだめですよ、アリス」
幼いアリスを膝に載せ、淡い空の色をしたケープを肩にかけながら、子守唄のように言い聞かせた。
「この国は、まだ危ないところなんですから……」
危ないところ、というのがよく理解できなかった。窓の外、眼下の石畳を行き交う人々は、皆黒い髪をしていたけれど、使用人のひとたちとほとんど同じようだった。使用人の人たちや、時々訪ねていらっしゃるお母様の御親戚の方だって、黒い髪で、外に帰っていく、外の人だけれども、皆優しいわ。毎日毎日、赤煉瓦の塀の内側で、塀の上部に飾りのように埋め込まれた色硝子をみつめながら、屋敷の庭で、アリスはいつでも外を思っていた。
剪定された庭。父の故郷である海の向こうの国の形式を真似て作られた薔薇園だった。綺麗に刈られた碧羅のような芝に、大振りの枝を広げた広葉樹。ブーケのような緑陰を地に落とし、その下で本を読むのが、アリスの趣味だった。もう嫁入りの決まった姉から受け継いだ趣味だ。むかし、まだアリス自身が横文字の溢れる本を読めなかった頃は、姉、あるいは使用人の誰かに読んでもらっていた。母は、昼間は外へは出ない。夜中、眠らずにこっそりと毛布を抱え、その中に大切に絵本をくるみ込んで母の寝室の扉をノックすれば、彼女は薄く笑って招き入れてくれた。「早く寝なくてはだめよ」と言いながらも、アリスが躊躇いがちに甘えて母の膝に頭をのせれば、その小さな頭をゆっくりと撫で、やさしい声で、物語をうたってくれた。
わたしを同じ名をもつ物語の少女。
なぜわたしが、そんな彼女と同じ道をたどるのでしょう?
夢というのは自分で夢と分かるものである。夢中で行動していたことは目覚めると同時に既に夢と分かっている。最中の感覚は茫洋として、すべてはシフォンのような霧の中。
まるで夢でないかのような夢。目覚めればこの明瞭極まりない感覚も、意識の底に沈んでしまい、オフィーリアが沈んだような、柳しだれる薄暮の水底で数多の夢と同じように睡蓮の苗床となるのだろうか。
アリスは目を閉じた。頬に当たる冷たい風と降り始めた雪と、身を支える力強い青年の腕のぬくもりを感じながら、この夢がもう少し続いたらいいのに、と、かすかに願った。
シルキーな乳白色の衿巻を首元で蝶結びにした青年は、ミルクのような色をしたコートの裾をからげて薄暗い屋敷へ誘導する。解放された窓から吹き込む雪風がセピアじみた玄関ホールにさざめく雪花を散らす。それをものともせず、人の良さそうな彼は、ひどく無邪気で高い声で、「さあ、”Alice”、中へ!」と、長い腕で屋敷へと誘った。
布製のブーツの靴音が、空っぽのホールに寒々しく響く。
その青年は雪で作った人形のようだった。日に晒したことなどないような白い肌はやわらかそうな印象を与える。アリスの感想としては「おもち」が最も適当な表現のように思われた。
「”アリス”、寒くはないですか? ……大丈夫、この屋敷は防寒だけなら完璧ですから」
室内の薄暗いランプの下で見ると幾分か色が濃い、蒲公英のような色合いをした象牙色の髪が、形の良い輪郭をさらりと取り巻く。右側に垂らしたサイドヘアがアンバランスに長く、服などで覆われ判らないが、鎖骨のあたりまで垂れ下がっている。アリスの数歩手前で、彼女を守るように立っている青年の直線的な銀髪とは違い、少しだけふわりとカールしていた。色合いを見るに、アリス自身の髪より幾分か灰白色と桃色がかって、黄色みが抑えられた、北の国特有の色彩だった。しかし依然取らない、やたらと飾りを盛った帽子は一体なんなのだろうか。
青年は軽やかな足取りでアリスたちの方を見ると、ハーゼを見て、首を傾けた。
「ああでもね、ハーゼはこの屋敷に入っちゃだめですよぅ。武装解除状態でも、持っていませんから」
何を、だろうか。しかし、この雪の中に放り出されるなんて、と慌てて振り返ったアリスに、ハーゼは首を振る。「申し訳ない、アリス。俺は入れない」
「そんな、」
狼狽したように云ったアリスは、すぐにその背に呼びかけた。「あの、せめてお礼を、」
アリスは自らの肩口にかけられた軍服をはぎ取り、それを彼に突きだす。しかしハーゼはそれに気付かず、走って追いかける彼女の目前で、ハーゼの体が大きく沈み、直後に大きく跳ね上がった。
「………」
途方に暮れたように立ち尽くすアリスの横に、ふと人影が並んだ。
見れば、奇妙な帽子をかぶった金髪の青年が、柔和な笑みでアリスに話しかけた。
「心配はいらないです、彼は優秀な軍人ですから。ここから本陣までなら、上着がなくとも帰れるでしょう」
いや、別にそういうことだけではないのだが……と、他人から施しを受けることに慣れていないアリスは戸惑いながらも頷いた。
「それは僕にください。いい帽子の材料になるでしょう」
え、と固まったアリスの手から、その軍服を優雅に、しかし強引にはぎとり、青年はじっくりとそれを検分しはじめた。豪奢な肩章や所属を表す刺繍の緻密さ、胸元の華々しい勲章をひとつひとつ丁寧に見ていくと、微笑んだまま、なかなかワイルドな動作でそれをもぎ取った。アリスは凍りついた。
依然として微笑をたたえている彼は、その上着と千切り取った勲章類をまとめて玄関ホールの隅に放り投げた。案外ずぼらな性格のようだ。
向き直った青年に、アリスは視線を固定する。
美貌の男だった。
彫刻のようでも絵画のようでもない。厳格な印象も輝かんばかりの存在感も放つような容貌ではない。ただ、ひどく白い肌とあまい金の髪が、彼の印象をそれだけで儚げなものに見せている。陶器のような肌に、まさしくしみひとつ、雪を穢す足跡ひとつ感じさせない、繊細で、どこかやわらかな空気。目尻にかけて少し垂れた、白金の環に縁取られたアメジストの瞳や、綻ぶ花めいたふっくらとした唇、まとう衣装すら濃色の入り込む隙の罅ひとつとしてない姿が、無邪気で、それでいてなぜか妙に艶っぽい、冬を体現したような男だった。
わずかにその菫の瞳を細め、彼は優雅に一礼した。
「改めまして、”アリス”。僕は、”帽子屋”、アルセニー=ヴィオレット」
父姓はもう使わないから、覚えてないです―――といいながら、青年――アルセニーは、淡雪を思わせるほのかな衣擦れと共に、アリスに歩み寄る。
そして当たり前のように、キスをした。
幸い、頬に。
「………アリス!? アリス!!?」
はっと我に返ったアリスは、周りを見渡した。おや、この広く薄暗い玄関ホールはどこの家のだろう。我が家ではない、とそこまで考えたところで、記憶を取り戻した。青年が自己紹介したところまで。
そのあとのことは覚えてない。覚えてないったら覚えてない。
「あ、ご、ごめんなさい、私ったら……なぜか急にぼーっとしちゃって……」
「ごめんなさいー、ちょっと僕とアリスでは文化が違ったみたいです……」
しゅん、と青年――アルセニーがしぼむ。その年齢に見合わないかわいらしい仕草に、アリスは慌てて慰めにかかった。
「いえ、こちらこそ申し訳ありません、急にぼーっとして…あの、大丈夫ですか?」
「ううん、僕は大丈夫なんですけど……あの、アリスは大丈夫ですか?」
「はい、私は大丈夫です。でも、その、本当に大丈夫ですか? あの、本当にごめんなさい」
「えっ、違うんです違うんです、アリスは悪くなくって、僕が、そのう……えっと、大丈夫でしたか?」
「? 何がでしょうか? とにかく、私は大丈夫なので……」
ツッコミ不在というのはなんと難儀なものなのだろうか。
その後もしばらく「大丈夫」の応酬を繰り返した二人は、やっと話を切り上げ、アルセニーはだだっ広いホールの向こう側で薄闇に沈む、室内への扉を開けた。
重々しい蝶つがいが軋んだ音立て、墨に浸かった客間が、ホールからの薄明かりに照らし出された。
「普段、あまり人が入らないので―――――今、燈りをつけますね」
少し申し訳なさそうにアルセニーは言うと、壁際の豪奢な飾り棚に指を這わせる。その指先付近から、何か金属の触れあうような音がして、すると彼は「ああ、ありましたありました」と言い、しゅっと音立てて、どこからか取り出したマッチを擦った。
アイアンワークのカンテラに、夕暮れの色をした炎が赤々と燈る。
揺れる炎に合わせ、青年の顔に落ちる陰影がゆらゆらと変化する。表情が読み取りづらい。アリスはいつしか、息をつめてその炎を注視していた。
「天井の燈りもすぐつけますから、待っててくださいね」
そのカンテラを、部屋の中央に置かれた、背の低いガラス張りの机に置く。その天板上に長靴を脱いで上がると、天井にぶら下がった硝子の噴水を思わせるシャンデリアに、マッチの火を近づけた。はて我が家の召使はそんな火の燈し方をしていたろうかとアリスは首をひねったが、なにはともあれ、円形に小さな炎が続々と燈り、部屋は次第に明るくなっていく。
全体的に、暗い色調の部屋だと思った。重厚な印象はあるが、居心地が悪い。何より、壁一面を飾る棚に置かれた大小様々な本、紙の束、布切れなどが、妙に不吉な雰囲気をまとっている。何を記したものなのだろうか。客間だと思っていたが、違うようで、ここはきっと書斎か書庫に近いところだわ、と、アリスは推測した。でもなぜ、ここに自分を通したのだろうか。
「ほんとうは、ちゃんとしたお部屋に連れていきたいんですけど……」
はにかんだように、アルセニーはアリスの方を見て微笑んだ。その色素の淡い、儚い風情に、ふと、このままこの人は明りが消えれば一緒に闇に消えてしまうのではないだろうかという気すらよぎった。
「これを、取りに来たんです」
そう言って、彼がその手袋越しに触れたものは、紅の装丁が施された、一冊にまとめられた、古い往復書簡―――否。
誰かが書き留めた、後世への伝言のようだった。
「城にあるものの方が、本当は正確でいいんですけど」
少し恥ずかしそうに、手元のそれに目を落とした彼は、史書に近いものです、と言った。
「代々の”帽子屋”、”三月兎”、それと”眠りねずみ”が書き伝えてきた――――”Alice in Wonderland”の、歴史です」
微笑んだ彼の頬の色は、
ひどく、雪めいて見えた。
裂けた頬が、凩に凍て付いて痺れた。ポケットの小瓶から薔薇水を綿にふくませ、傷口に当てておく。多少の擦り傷はこれで大丈夫だ。
王国軍の全員が携帯を義務付けられているこの薬水の原料の茨薔薇の実は、|西の森に多く咲く薔薇球果の同属であり、昔から薬用として知られている。あっという間に湿らせた箇所から温度を奪われるが、これから平地へ戻るにあたって、雑菌が入り化膿するよりは何倍もマシだ。
アリスを置いてきてしまったのは心配だが、あの男――帽子屋――ならば、まずアリスに危害を加える恐れはないだろう。使者の証である証書を持っていなかったために、あれ以上あそこの敷地――「中立地帯」に留まることは許されなかったが、武器はすべて回収してきた。
ハーゼはふと身を震わせる。上着はアリスに着せてやったまま、置いてきてしまった。まあいい、代わりなど幾らでもある。
それより大切なのは、陛下に直接お目通りして、この出来事を一刻も早くお伝えすることだ。
”Alice”の出現は、奇跡でも秘蹟でもありはしない。林檎が木から落ちるよう、天に星が巡るよう、本来この世界において当然の現象だ。
しかし、この時代に、この状況で、このようなめぐり逢わせで。
ハーゼは奥歯を食い縛ると、さらに高く、遠く戦乱の煙たなびく荒野を跳躍した。
風立ちぬ! いざ生きめやも
―――ポール・ヴァレリー『海辺の墓地』