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不思議の国のアリス ―A―  作者: 雲居 桔梗
第一章:Frühling
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Zwai:Das Blatt einer Olive

Das Blatt einer Olive=オリーブの葉

「―――陛下!」




 慌ただしい雰囲気に満ちている城の北の廊下に、急ぎ足の青年の声が響く。前方に佇む人影に向かい、手を振って自分に用があることを伝えた。

 振り返った人物は、「なんだ」と短く呼び掛けに答える。


 まとった白いシャツの袖口が裂け、そこを包帯で固定している。わずかに癖のある苺色をした髪を肩口近くで切り揃えた、華奢な少年―――――否、洒落気のない少女だった。すらりとした無駄ない肢体が、気品ある動作で、呼びかけた男の手から、白い折りたたまれた紙を受け取る。



白兎(ハーゼ)の伝書鳩だな。何か戦況の変化でも――――」



 紙の表の刻印を一瞥し、彼女は素早く走り書きの文面を読む、速記で書かれたその短い文章は―――――





「―――――――――嘘だろう?」





 ささやかな声は、あまりにもか細く震えていて、しかしその震えは歓喜によるもので。

 年相応に、可憐な頬を薔薇色に紅潮させ、少女はその手紙を幾度も読み返す。震えた手が、彼女の受けた衝撃とよろこびを、如実に表している。

 戦場においての一筋の希望、灰色の雲海に呑まれた空から差す一筋の陽光(天使の梯子)のような文書。細い指先は震えを抑えきれず、長方形の折り畳まれた痕の付いた紙が、羽根のように床へ。大きなステンドグラス越しのまばゆい陽光に、その短い文面が浮かびあがった。




「”Alice”, 来たり」




 少女の透き通った薔薇色の瞳が、奇跡にそまる。













「ここは居留地ですか? 随分広い野原があるんですね……異人さんは居留地に住んでいらっしゃるんですか? あ、日本語、わかります……?」



 アホのようにぽかんとしたまま硬直していた青年は、ようやく、のろのろと、「あ、ああ」と返答をした。


「日本語……というか、君が話している言葉は、分かる」

「よかったです!」


 ぽんっと手を叩いて喜んだ少女は、「でも、ここはどこなんでしょう……? こんな広いところ、近所にありましたっけ……?」

 思案しはじめる少女を、信じられない思いで、青年は観察する。


 首元で切り揃えたふわりとした愛らしい金の髪。長い睫に縁取られた、丸く大きな瞳はひどく青く、宝石のように艶めいている。ぱちっと、長い金色の睫が下ろされ、すぐに上がる。湖水のような瞳の水面に、自身の呆けたような顔が映り、慌てて表情を引き締める。我に返って、厳しい誰何の声を上げた。



「貴様は誰だ? 名と所属を明らかにせよ、武器を持っているならば地面に置いて、両手を上に挙げろ」



 唐突な命令に、少女はきょとんとした顔で、「え?」と問い返した。


「今すぐに両手を挙げ、名と所属を告げろ。さもなくば撃つ!」


 警告の声を上げ背の袋を一瞬にして引きずりおろして中身の筒を一閃、即座にそれを肩に構え、火種を確認する。銃弾は既に詰めてある。もしも目前の少女が不審な動きをすれば、直後に彼女の両足が吹き飛ぶだろう。

 斥候ではないはずだが、油断はできない。何せ黒薔薇騎士團(くろばらきしだん)は勝つためならばどんな卑劣な手段も厭わない連中だ、占領した村の住人を人質に―――……



「きれい…」



 は?



「あ、ご、ごめんなさい、つい……いえ、あの、その持ち手の部分の銀のかざりが、とってもきれいな牡丹だなあって……」


 下を向いて恥じらう少女の言葉に、思わず左手付近を見ると、なるほど確かに銀の装飾がついている。しかし、ボタン、とは………。


「……これは薔薇だ」

「えっ」


 短く呟いた少女の頬が、見る間に紅潮してゆく。色の白い頬が薔薇色に染まり、俯いて、白いエプロンの前を握りしめる。


「わ、わたしったら………」


 この少女、俺の言ったことが理解できていないのか。と思った矢先、彼女は気を取り直したように口を開く。突きつけられた銃にも臆せず、しかしおとなしくか細い両腕を持ち上げ、ゆっくりと、しかしはっきりと喋り出した。


「あ、ごめんなさい……。名前と、所属? って、学校を言えばいいのかな……ええと、武器は、ありません。持っていません。それで……」


 そこまで言うと、少女は目を伏せた。「私は、アリス………」




「アリス=プレザンス=リデルと、申します」




 耳を疑う。



 アリス? アリス=プレザンス=リデル――――だと?



「その、学校では、母の旧姓の、相川ありすと名乗っていますけれど―――――……」


 少女の続けた自己紹介の後半など耳に入らなかった。アリス。その名前が意味するものとは。


「あっ、忘れてた」


 そう言い、少女は片方の手に握られていた何かを、翳す。一瞬武器かと思い身構えたが、直後に目を瞠る。


「これ、落し物だと思うんです、けど……」


 金の懐中時計。長い鎖が揺れ、金属質の音を立てた。蓋の薔薇の彫刻(レリーフ)が、日の光を受けてきらめく。彫琢の精緻さに目を細め、確かに装飾体で刻まれた自身のイニシャルを確認する。少し不安げな表情の少女―――アリスに、こくりと頷いてみせた。


「それは、俺の物だ」


 そう伝えると、「やっぱり」と安堵した様子を見せながら、アリスと名乗った少女は、こちらへ一歩だけ近付いた。「お庭に落ちていて……あなたの後ろ姿が見えたから、あなたのものかなと思って、追いかけたんです。そうしたら、穴に落ちちゃって」

 気を失ってたみたいで、と彼女は首を傾げた。「ちょっと、どうやってここに来たのか覚えてないんですけど……」

 なぜか申し訳なさそうに俯きながら、少女は色の白い小さな手をこちらへ差し出す。傷の無い、繊細な手。まるで壊れ物(フラジール)だ。思わず後ずさったハーゼに、アリスは訝しげな表情をした。「……あの、何か……」


「あ、ああ、いや……」


 我に返ったハーゼは、長い腕をおっかなびっくり伸ばして、その懐中時計に触れる。鎖を今までになく丁寧に摘まんで持ち上げると、しゃらりと幽かな硬質の音がした。繊細だがきらきらしい音に、ハーゼの方が若干慄く。こんな美術品だったか、この時計。俺如きが触れていいのだろうかこの時計。というところまで思考が暴走しかけた辺りで、はっと彼は本来の思考を取り戻した。やっと取り戻した。


「貴女は、本当に”アリス”だというのか、」


 構えた銃身が揺らぐ。問う声はわずかに震え、完璧な軍人であった彼の動揺を示す。目前の刀身を薙いでも、雨霰と降り注ぐ銃弾へ突撃を仕掛けた時でも感じたことのない心拍数の乱れ。低く抑えた声が、やはり呼気に乱されるのを隠しようがない。「―――”白兎()”を追って、庭から落ちてきた?」



「はい。――――リデル家の二女の、アリスです。女学校には行っておりますけど、この間、」


「いや。――――貴女が”アリス”であるのなら、それでいい」



 銃筒を下ろす。


 あまりのことに、眩暈がする。どうすればいい? まずは、陛下に伝書を――――否、まずは説明が先か? 脳内に書き込まれた”説明”を反復する。大丈夫だ、問題はない。しかし、いつかは遭遇するのだろうと漠然と考えていたが、まさかこんな状況下で―――――


 至急打開策を打ち立てなくてはならない大量の問題点に、上手に思考がまとまらない、とりあえず今はここから移動するのがいいだろうか、けれど何の説明もなしにとは―――などと埒もなく考えあぐねていると、少女の方から口を開いた。



「…………あの、ここは、どこなんでしょうか」



 内気そうな少女だが、怯えている様子はない。意外に物怖じしない性格なのかもしれない―――などと思考を巡らせつつ、ハーゼは手に持ったままだった懐中時計を懐に戻す。「ここは―――――」


 一拍おいて、言い淀む。なんと答えるべきだろうか。そのまま、”Alice”が落ちてくる世界―――不思議の国(ワンダーランド)でいいのだろうか。


 品よく尖った顎を備えた卵形の顔をかるく傾け、少女は躊躇いながら口を開く。「居留地――なら、家の近くにあるのですが、こんなところ…なんですか」


 彼女の言う「居留地」がなんなのかは分からないが、ともあれハーゼは息をひとつつき、返答する。「いや。ここは”不思議の国(ワンダーランド)”だ」

 何度口にしようとも恥ずかしい名前だ。妙に明るく、現実味がない。正しくここは悪夢だというのに。



「Wonder land…?」



 明瞭な発音。薄桃色のくちびるに細い指を当て、彼女はわずかに考え込んだ。「それは、異国のことばですね。母の生まれた国、のことばです」


 ハーゼは別段、”アリス”と異なる言語を使っている認識はないが、彼女には違って聞こえるらしい。全く、”Alice”とは不可解な存在だ、と嘆息しかけたハーゼに、「わかりました、」と、妙に厳かな口調で少女は、アリスは言った。何を言うのかと、立てた兎の耳に意識を集中させると、


「私は、夢を見ているのでしょう…なるほど、ならば合点がいきます。お母様の読んでくださった洋書に、酷似しているもの……」


 真剣な表情で、そう呟いている。こうして見ると、割に賢そうな顔立ちだ―――状況が分からず、パニックになるようなことはないらしい。少々、状況認識が間違っているものの、利発な少女――”アリス”、だ。とにかく、場所を移動しよう。そう考え、ハーゼは手早く銃を仕舞いながらアリスに告げる。



「貴女が夢であると思うのなら、それでも構わない。ここは危険だ。とりあえず、中立地帯まで―――――」



 言いかけて、固まった。



 砂塵の音―――青草が踏み躙られる音―――石も土も蹴り飛ばしてゆく無数の馬蹄音―――慣れた音に、首筋の産毛がぞわりと総毛立つ。吹く風が不穏に渦巻くようにすら感じられた。純白の耳から侵攻する音勢に、ハーゼは軍靴で地を蹴った。一歩の合間に真横を通り過ぎた少女の細い身を抱え、ついた荒野の地をもう一度つよく蹴り上げた。


「後方二マイル――――敵が進軍している、アリス。無礼は御許し願いたい、とりあえず安全な場所まで貴女を連れていく、」


 低く囁きながら、何が何だか分からないといった表情のアリスの身を抱え直す。何事か口を開きかけた彼女の耳元で、小さく、しかし強く言う。



「少々高く跳ぶ、」




 口を閉じていてくれ、と。



 腕の中に、確かな体温を感じた。


 まぼろしでも、ゆめでもない、本物の、






 奇跡を。













 世界は色づき、鼓動をはじめる。

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