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異世界転生剣豪伝〜転生しても宮本武蔵でした〜  作者: AI Gen Lab
幕間参~前世編新訳島原の乱~
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097 幕間参の陸~前世編新訳島原の乱~

 # 第10話 沈黙


 > 〈無名私文〉 降伏ノ仲介、請ケ負ウ者アリ。名無ク、印無ク、文言短シ。浜蔵ノ跡ニテ会合ヲ請フ。——写


 浜蔵の跡は、まだ温い。灰の匂いが足袋越しに上がり、海風がそれを薄める。板は倒れ、梁は炭になっている。人の輪は消え、音は波と貝の短い鳴きだけ。


 鳥井屋久左衛門が、灰の縁に立っていた。衣は新しく、顔の煤は落ちている。昨夜と同じ男で、昨夜ではない顔。


「お呼び立て、失礼を」


 鳥井屋は深く頭を下げた。背筋が通っている。それは、負けを引き受ける背でもある。


「言葉だけで」


 武蔵が応じ、重位は横に立つ。重位は刀に手を置かない。置かないことが、刃の用意だ。


「荷は嘘をつきませぬ」


 鳥井屋がいつもの句を口にする。重位の顎がわずかに引かれた。繰り返す言は、刃に触れて軽くなる。


「人は嘘を運ぶ」


 武蔵は足もとの藍糸をつま先で寄せた。短い藍は、長い線の末端だ。


「昨夜の火は、荷の終いの悪さで」


 鳥井屋の声は濁らない。


「押し直しは二度」


 武蔵は短く切る。「印の角は丸く、焼きは浅い。縄は右上に余り。俵、箱、紙包、同じ手」


 鳥井屋は口を閉じた。沈黙は弱さであり、同時に強さでもある。


「示現の初太刀は一度」


 重位が言った。冷たくない声。「同じく、言葉も一度で足りる」


 鳥井屋は重位に向き直る。刃に向く顔だ。


「流れでございます」



「流れは、作るもの」


 武蔵が重ねる。「札と噂で口を狭め、昼と夜を裏返す。唐津と口之津。米と火。働きと銭。死も」


 鳥井屋は息を吸って吐き、目を細めた。遠くを見る目。遠くを見る者は、近くの石を見落とす。


「皆のためでございます」


「皆のためは、誰のためだ」


 重位が問う。柄のある言葉。


「長い戦は、銭を回し、口を養います。短い戦は、誰かを飢えさせます」


「短い戦は、死を減らす」


 武蔵。「わたしは、それを勝ちと呼ぶ」


「勝ち負けは、役所の言葉」


 鳥井屋は疲れた笑みを見せた。「商いは、回す、です」


 沈黙が落ちる。海風が灰を一度持ち上げ、藍糸が一筋、武蔵のつま先に寄る。重位はそれを拾い、掌にのせて鳥井屋に見せた。


「これが、お前の十」


 重位の言は硬くない。「十呼吸。短い。だが、足りる」


 鳥井屋は糸を見、重位の掌を見、それから武蔵を見る。


「原城は、落ちましょう」


 静かな声。「落ちねば、落ちるまで」


「落ちる」


 武蔵は肯いた。「落ちるが、長くはしない」


 鳥井屋は首を振る。否であり、諦めでもある。


「荷は嘘をつきませぬ」


 三度目の句。もはや祈りに近い。


「降伏の口は用意しましょう」


 鳥井屋。「名は出しませぬ。文言は短く。印も要りませぬ」


「名は、畳の上で読む」


 武蔵は静かに返した。


 重位は掌の藍糸を腰帯へ挟む。刃の近くに置くものは、刃に寄る。


「今夜は帰れ」


 重位。「火の跡は、冷める前が危ない」


 鳥井屋は深く礼をし、背を向けた。歩みは速くない。速さを選ばない者は、長く残る。


「押さえる?」


 伊織が脇でささやく。


「押さえない」


 武蔵。「言葉は刃より速い。今は、言葉で足りる」


 灰の上に短い風。灰は軽く、言葉は重い。重さは畳の上で決まる。そこで決まったことは、夜でも崩れない。


 遠くで太鼓が一つ、静かに鳴った。次の夜の合図は短い。短いものが、勝ちに近い。


 ◆◆◆◆


 鳥井屋が降伏の仲介を申し出る。「流れでございます」と言い続ける商人に対し、武蔵は「流れは作るもの」と答える。重位は藍糸を手に取り「これが、お前の十」と静かに告げる。戦争を商売にする者への、武人としての静かな怒りが現れた瞬間。名は畳の上で読まれることになる。


 ◆◆◆◆


 # 第11話 落城


 > 〈持場覚〉 北塀東角ヨリ遮断線三十七間、塹壕深サ五尺五寸、土手肩高。矢狭間三、射手交代二十呼吸。——軍奉行控

 >

 > 〈掘進図 末記〉 水脈、二の溝にて絶ゆ。井桁の木、枯。——土木方記


 遮断線は輪になった。細いが、切れていない。切れない輪は時間を切る。時間が切られれば、城は痩せる。



 塹壕の底から湿りが減り、泥が土へ戻った。水の匂いが薄い。井桁の木は音を失い、桶の底に砂が増える。塀の内の煙は白く、白さは細る。白は薪の尽きる前触れだ。


「二十で交代」


 武蔵が言う。矢狭間で伏した射手が静かに入れ替わる。矢は少なく、音は少ない。少ないほど、夜は長く持つ。


 薩摩の若衆は角の上に出ず、角の“手前”で十呼吸を繰り返す。出ない刃が、出る刃より強い夜もある。


「水脈、切れました」



 伊織が掘進図を持って駆ける。浅い青が二度、線で消されていた。線は、ときに水より強い。


「待ちが勝つ」


 武蔵は図を畳み、土手の肩に置く。肩は夜露で冷たい。冷たさは、雑音を減らす。


 *


 日中、松平信綱の本陣から攻囲徹底の達し。太鼓は間遠く、命は短い文で下りる。梯は積まれず、土俵は積まれる。俵の糸は生成りで、藍は“外”の夜へ出る。


「夜の刃は、十で足りる」


 重位は短く言い、若衆へ稽古をつけた。打たず、払う。払わず、寄せる。寄せず、待つ。待つ形が整えば、十はよく効く。


 塀の内から太鼓が一つ、力なく鳴る。応じる声はない。声がない夜は、長くはない。


 *


 降伏の口を求める紙が、名を欠いたまま風で来た。灰と潮の匂いが紙に宿る。文言は短い。印はない。短い文は体温を持つ。体温は夜で冷める。


「言葉だけで開く口はある」


 武蔵。「だが、開いた口から出るのは、疑いと嘘」


 重位は頷かない。代わりに、帯の間の藍糸を指で押さえる。短い藍は、長い線の記憶。記憶は刃の根にある。


「一所、明ける」


 軍奉行の声。「明朝、四方より」


 四方は示威だ。だが、刃は一点で足りる。足りることを知る者は少ない。


 *


 明け方、霜に近い白が地を覆う。足音は窪みで丸くなる。遮断線の肩に楯が並び、塀の影に矛先が消える。太鼓が二つ。間。三つ目が落ちる。


「角手前、十」


 重位の声は刃の前の声。若衆が膝を切り、息を合わせる。十呼吸の刃が、見えぬところで当たる。声は出ない。出た声は、すぐ土へ吸われた。


「今」


 武蔵の指が土手の内側を向く。掘り手の肩が一斉に前へ。土は外へ吐かれ、土手は内へ食い込む。輪が締まる。締まるものは、やがて切れる。


 塀の上から落ちる物が減る。石の音は三つに一つ。空が混じり、火の粉は高く上がらない。上がらないものは尽きる。


「押すな。詰めろ」


 武蔵は低く言い、同じ言葉をもう一度だけ置いた。「押せば崩れる。詰めれば開く」


 四度目の十で、塀の内の太鼓が途切れた。途切れは終わりの音。外の太鼓が一つだけ鳴り、短い合図が長い戦を終える。


 *


 総攻は、驚くほど短かった。短くできるほど、前夜までが長い。梯は少なく、槍は短く、叫びは途切れ途切れ。塀の縁で刃が二度、三度、相手の柄に触れ、金に似た音がひとつだけ長く揺れた。


 城中の旗が折れ、白が出る。白は細く震えている。震える白は、遠くからでも見える。


「止め」


 重位の声は短く、硬くない。刃が引かれ、息が戻る。戻る息は土の匂いに近い。


 伊織が土手の上で立ち尽くし、指を土へ当てた。土は冷たく、確かだ。確かさは数をくれる。数は生き残りの数であり、死なせない数でもある。


「終い」


 武蔵は言い、掘進図を外す。図の端で輪を示す細い線が閉じられた。閉じられた線は開かない。


 *


 落城の後、紙は急に重くなる。戦功の書き付け、手負注文、召し捕りの目録。紙は軽い。軽いが、人を重くする。重くなるほど、声は小さくなる。


「中津、手負三。討死無」



 家老の読み上げは無感情。無感情が、いちばん人を救うことがある。武蔵の名の行は空白のまま滑っていく。空白は音を立てない。


 重位は席を立つ前に一度だけ振り返った。視線は刃ではなく、水。浅く見えて深い水。水は武蔵の膝で止まり、何も言わず去る。


 伊織は控の片隅で、藍糸を紙に貼った。短い藍は、長い章の句読点だ。


「明日」


 武蔵。「畳の上で、名を読む」


 夜の海は静かだ。静かさは嵐の前ではない。終いの後の静かさ。だが、物語はもう一度だけ鳴らねばならない。鍔の音で。


 海の上に、朝の霧が薄く立ち始める。霧は名を隠し、名を運ぶ。運ばれた名がどこへ行くかは、最後の章で決まる。


 ◆◆◆◆


 遮断線が完成し、原城の水脈も断たれる。最後の総攻撃は驚くほど短時間で終わった。「短くできるほど、前夜までが長い」—武蔵と重位の地道な作戦が実を結ぶ。鍔音が一度だけ鳴り、城は落ちた。戦功の書き付けで武蔵は「手負無」と記録される。二人の協力により、死者を最小限に抑えた勝利だった。


 ◆◆◆◆


 # 第12話 海霧


 > 〈台帳写〉 中津組 宮本武蔵 手負無。——分限附

 >

 > 〈村口碑〉 正保二年夏 少年、海霧ニ消ユ。


 朝の霧は海から上がり、控えの畳へ届いた。湿りは紙の角を丸くし、墨を重くする。重くなった墨は、名を沈める。沈んだ名は、すぐには浮かばない。


 家老の読み上げは短い。短い文は、長い日を終わらせる力がある。中津組の項が過ぎ、武蔵の名が音もなく滑っていく。手負、無。無は軽い。軽さは、足りたという形だ。


 重位は光の差すほうへ帯を直した。帯の間の藍糸が、指の腹でわずかに震え、それから静かに納まる。震えは刃の前、静けさは刃の後。


「読む」


 武蔵は言い、控の紙を前に置く。端には藍糸が一本、貼られていた。短い藍は、場を割る線の記憶。線は、長い戦の中でいちばん静かに働いた。


「鳥井屋」


 名は短く、畳の目に落ちる。落ちた名は、そこから動かない。動かない名の上を、沈黙が通る。通ったあとに残るのは、重さだけ。


「取次の名、無し」


 家老が言う。「仲介は空文にて不採」


 空の文は使わない。使わないが、記録には残る。残るため、短く書かれる。


 武蔵は筆を取り、余白に小さく一行添えた。


 > 〈付〉 流レ、作ル者アリ。


 それ以上は書かない。書けば、刃になる。刃は今、要らない。


 *


 原城の中は、白が増えた。白旗、白布、白い灰。灰の上に、まだ湿った紙片が一つ、風で裏返る。紙は厚く、筆の癖が残っている。『久』の崩し。砂が乾けば読めなくなる。読めなくなれば、誰のものでもない。


 伊織がそれを紙に包み、袋に入れた。袋は軽く、指先は重い。重さは、覚えることと同じだ。


「叔父上」


「うむ」


 武蔵は土手の肩に腰を置いた。膝の痛みは輪郭を失い、ただ過去の形になった。形は残るが、進みを邪魔しない。


「勝ちは、死なせないこと」


「はい」


 伊織の返事は短い。短い返事は、長く残る。


 *


 海の石段は湿って、藻の匂いが濃い。霧は低く、波は小さい。浜の端に、少年の足跡が二つ、三つ。そこから先は白い。


 村の女が、祈るように立っていた。祈りは声ではなく、肩の高さで分かる。肩が上がり、下がる。上がるたび、海霧が揺れる。


「海へ行った者は、海に残る」



 武蔵は石を指で押し、苔の水を拭った。指はすぐに冷える。冷たさは、余計な言葉を止める。


「名は、誰が読む」


 重位が背で問う。背で問うのは、刃を抜かぬ問だ。


「読む者だけが、読む」


 武蔵は言い、帯の間の藍をちらと見た。藍は夜の色だが、朝の霧の中でも色を持つ。持つ色は、名より弱く、名より長い。


「示現は、初太刀一度」


 重位が静かに言う。「おぬしの十も、一度でよかった」


 武蔵は頷いた。頷きは小さく、確かだ。


「実際、鍔は一度だけ鳴った」


 霧の向こうで、遠い波が石に当たり、金に似た音を一度だけ返した。音はすぐ消え、消えたあとに静けさの形が残る。


 *


 戦が終わると、紙は人より長生きする。紙は武蔵を無傷と記し、重位を無言と記した。無の字は軽いが、重く読めば重い。


 鳥井屋の名は、裁きの紙に上がらなかった。上がらぬ名は、町の口にだけ上がる。口は早く、足は遅い。遅い足で、藍の糸はどこかへ戻る。


 武蔵は紙を巻き、印も綴じ紐も使わず、帯へ差し込んだ。紙は、いつでも読めるところに置くのがよい。読まれぬ紙は、刃物と同じだ。


「帰る」


「はい」


 伊織が立ち、土を払う。土は落ちにくいが、落ちる。落ちた土は線になって道へ戻る。


 重位は振り返らず、海へ一度だけ頭を下げた。礼は短いほど、長く残る。


 陣の道を戻る途中、日が霧の上へ出た。霧は薄くなり、藍の糸が一筋、陽を帯びて見えた。藍は光を吸わない。だが、光の中で、なお藍だ。


「鍔は、一度だけ鳴った」


 武蔵は、もう一度だけ心で言った。言葉は刃ではない。だが、言葉で刃の重さを覚えることはできる。


 台帳の余白は白い。白は未来の色。未来に名を書かぬのは、誰かを生かすためだ。


 海霧は、もう薄い。薄い霧の向こうで、村の女の肩が一度だけ下がり、それからまっすぐになった。まっすぐな背は、長い。


 武蔵は歩き出す。歩く音は小さい。だが、線の上だ。線は戦のあとにも残る。残った線の向こうに、次の季節がある。


 静かに終わる。鳴ったのは、鍔の音——たった一度。


 ◆◆◆◆


 島原の乱終結。


 武蔵は「勝ちは、死なせないこと」という自らの哲学を確認する。


 海霧の中で姿を消した少年(天草四郎への暗示)への言及もある。


 重位は海に向かって一礼し、二人は静かに別れる。


 「鍔は、一度だけ鳴った」—この言葉が、前世での二人の関係を象徴している。

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