095 幕間参の肆~前世編新訳島原の乱~
# 第6話 偽印
> 〈蔵印焼印写 其二〉 印面、枠角丸し。焼入浅く、木目へ沈まず。押し直しの痕、二度。縄結、右上残し。板目、年輪細く並行。——中津方控
昼下がり。板の匂いが畳の上に広がる。押収した箱の底板、浜蔵の戸板、そして札師から借りた見本板を横一列に並べた。
「木は正直だ。手の癖を隠さない」
武蔵は指の腹で年輪をなぞる。水で湿らせた布を伊織が渡し、板目を軽く拭う。濡れると木は若く見え、若い顔は皺がよく見える。
「ここ」
武蔵が一点を押さえる。焼印の輪郭が、板の山でわずかに二重。浅く押し、迷って、押し直した痕。
「……押し直し、二度」
伊織が見本板と見比べる。「札師の板は一度で沈みます。角も立ってる」
「急こしらえの手だな。火も甘い」
武蔵は別の板へ指を移す。戸板の印も、角が丸い。押しの向きも一度、逆。
「向きを迷ってる。急がせる手は、細部を詰めない」
「縄の結びは——右上に余り」
伊織が束を解き、結び目を指で撫でる。「俵も、紙包も、箱も、ぜんぶ右上」
「癖は広がる。広がった癖は網だ」
控の外では、遮断線の土が崩され、また積まれていく音。線は昼も伸びる。伸びれば“演出”は足を取られる。
「札師を呼びますか」
「呼べば、足が付く」
武蔵は見本板を返し、静かに首を振った。「正直な手は、偽に寄せるのが下手だ。噂が先に走る」
「じゃあ、夜に——」
「夜だ」
*
満ち潮の刻。浜蔵の横手に身を入れ、板の裏を爪で探る。薄い段差が指に触れた。押し直しの最初の輪郭が、板の裏へ微かに透っている。
「……迷いの痕ですね」
「頼りの薄さ、だ」
戸内は暗い。上に新しい小箱が二つ、下に古いのが一つ。古い箱は鉋目が細かく、角の欠けに手当。新しい二つは粗く、欠けっぱなし。急ぎの仕事だ。
「印の向き、逆が一本」
伊織が囁き、縄の余りを示す。「右上、固定」
外から砂を踏む音。舟の影が板塀に揺れ、灯が一つ、風で消えて、すぐ戻った。
「戻るぞ」
「押さえませんか」
「今は増やす。証の数を」
*
戻り道。薩摩の若衆の列と擦れ違う。刃は布で包まれ、柄は濡れ布で巻かれていた。重位は列の後ろ、灯を手で覆いながら風を読む。
「押し直し、二度」
武蔵が告げると、重位は目だけで短く応じた。足りた合図。
「十で足りぬ夜が来る」
「場を狭める」
「狭めれば、刃は届く」
それだけで話は終わる。刃の者の会話は、短いほど強い。
*
控へ戻る。伊織が紙を並べ、写しを重ねる。紙包の折り、縄の結び、箱の並べ。板目の写し、焼印の写し——匂いまで一緒に乗ってくる気がした。
「ここ、同じ薄さで二重」
武蔵が筆先で写しの枠を叩く。押し直しの痕が、どちらにも同じ顔で現れている。
「……押した手、同じです」
「板目の間隔も、似が強い」
武蔵は見本板と押収板の端を重ねて撫でた。「似は同ではない。だが、似の上に癖が重なれば——」
「名になる」
伊織が言い切る。筆が紙の上で止まりかけ、また動く。
「所在は、東の入り江」
「舟は二。満ち潮に出る」
「印は甘く、押し直し二度」
短い文が網を編む。結び目が揺れない網だ。
「……名を、記しますか」
伊織が筆を持ち上げた。墨の先が、わずかに重い。
武蔵は少しだけ黙る。名は刃だ。早く抜けば、鞘が割れる。
「もう一つ足す。板の木口——唐津筋の商家で使う木取りに似ている」
「似は導く」
「その先は、一つだ」
伊織が息を呑み、筆を落とす。墨が地合へ吸われ、小さな花のように滲む。
> 〈名付〉鳥井屋
筆はそこで止まった。止めた先に、余白。
「封じる」
武蔵は紙を裏返し、折り目を付けた。折りは封であり、刃でもある。
「今夜、浜蔵の裏。板を一枚、起こす」
「俺が打ちます。布で包んで、一度だけ」
「頼む」
控の外で太鼓が一つ、間を置いて二つ。遮断線がまた伸びる。線は夜を削る。夜が削れれば、噂は歩きにくくなる。
「名は、畳の上で読む」
武蔵は静かに言った。畳は音を吸う。音のない場で、刃はよく通る。
窓の外、風が藍の匂いを運ぶ。俵の糸の色は、名の色に変わりつつあった。名は、刃より重い。だから、抜くときは短く——一度で。
◆◆◆◆
浜蔵の調査で、鳥井屋の急造印鑑と縄の癖を確認。
「押し直し二度」の痕跡が決定的証拠となる。
武蔵と重位の短い会話で信頼関係が深まる。
「十で足りぬ夜が来る」
「場を狭める」—互いの戦術を理解し、補完し合う関係が築かれている。
夜の偵察で、鳥井屋の正体がほぼ確定した。
◆◆◆◆
# 第7話 相場
> 〈米価書留 抜〉 近月、唐津・口之津の相場、昼夜にて表裏。米上り、鉛・硝同じく。浦々の荷留、日毎に改む。——蔵奉行覚
昼の風は乾いて、紙の端がわずかに反った。控の卓に、三種類の紙が並ぶ。米の書留、火薬と鉛の受渡帳、舟の通行札。
「数字、静かですね」
伊織が指で段をなぞる。数字は踊らない。静かに段を作り、段は階になる。
「昼の唐津で米が一、夜の口之津で二」
武蔵は米価の列を指で押さえ、隣に硝石の数字を重ねる。「昼の口之津で鉛が一、夜の唐津で二」
「昼夜が裏返ってる……誰かが『裏返してる』」
「手がある」
相場は潮に似る。だが、この速さは潮だけでは作れない。荷を留め、札を遅らせ、噂を前に出す。小さな遅速が、一日の表裏をひっくり返す。
「舟の札、同じ字崩しです」
伊織が二枚重ねる。『久』の払いが上へ逃げる癖。鳥井屋の帳面と同じ逃げ。
「逃げもまた、癖」
武蔵は短く言い、紙の角を揃えた。「昼夜の入れ替えで、兵糧と火を同時に吊る」
「両方上がれば、長びく」
「長びけば、利は増える」
利を増やす者は、戦の外に立つ。外に立つ者は檄を要らない。要るのは札と印と噂だけ。
*
薄暮。唐津筋の問屋の庭。表向きは米、裏口に鉛の小袋。砂は踏み固められ、車輪の道がゆるく曲がっている。
「鳥井屋殿は」
問屋は肩をすくめた。「忙しゅうて」
「忙しい者は、だいたい二ヶ所にいる」
武蔵は俵口の糸に触れる。生成り。港の藍とは違う。
「相場を伺いたい。昼夜が裏返る理由を」
「潮でございましょう」
「潮は、夜に米を持ち上げない」
問屋が笑いを飲み込んだとき、庭の奥から声。
「潮と同じで、狭めると流れは速くなります」
鳥井屋久左衛門。地味な衣、堅い帯。手は白すぎず、縄の硬さを知っている。
「狭めるのは、札と噂だな」
「ええ。荷は嘘をつきませぬが、人は嘘を運びます」
「長くすれば、誰が勝つ」
「皆でございます」
鳥井屋は即答した。「働きも銭も、均しく回りますゆえ」
「死も回る」
笑みが薄くなる。薄さは刃の背に触れた感覚。
「原城は、堅い」
「堅いなら、外から削るがよろしい」
「内からは」
「言葉で」
「軽いな」
武蔵は庭の端の俵へ視線を送る。縫い糸は生成り、右上残しではない。ここは“表”。
「浜蔵の板、押し直しが二度」
「……夜は急ぎますゆえ」
鳥井屋の声音は崩れない。それが逆に、重い。
「荷は嘘をつかぬ」
彼は繰り返し、庭の灯を手で覆った。風が通る。
「なら、灯は消えやすい」
武蔵の言葉に、鳥井屋は一礼した。背の顔は静かで、逃げる気配がない。逃げない者は、歩く。歩けば、足跡を残す。
*
帰陣。重位が若衆の稽古を締めていた。刃は包まれ、汗の白布が灰を吸う。
「相場で刃は抜けぬ」
武蔵が言うと、重位は帯を軽く叩いた。
「刃は当て所がいる」
「当て所は角。角は、もう狭い」
「なら、通り道を細くする」
「札と噂の道を、だな」
短い往復。十呼吸と同じ長さで足りる。
「明夜、十」
重位。
「明夜、裏庭」
武蔵。
*
控へ戻り、武蔵は紙を三角に折った。折りは封でもあり、刃でもある。
「伊織。裏の庭だ。俵の糸を見る。表は生成りだ」
「裏は藍」
「藍は、夜に出る」
伊織が余白に小さく記す。
> 〈付記〉昼夜の表裏=札で作る。
窓の外で潮の音が高くなった。満ちは来る。来るものは、合わせれば使える。
「短く終わらせる。死なせないために」
武蔵の独り言に、伊織が静かに頷いた。
◆◆◆◆
鳥井屋久左衛門との直接対決。
米と火薬の相場を昼夜で意図的に操作し、戦争を長引かせて利益を得ていた商人の正体が明らかに。
「荷は嘘をつきませぬが、人は嘘を運びます」—鳥井屋の言葉に、戦争で儲ける者の論理が現れる。
武蔵は「短く終わらせる。死なせないために」と自らの戦争観を示す。
重位との価値観の共有も深まった。




