094 幕間参の参~前世編新訳島原の乱~
# 第4話 隣接口
> 〈隣接之口割之覚〉 中津組、北塀東角ヨリ二間幅ニ遮断線掘進。薩摩組、同角ノ上手、短刻一打ヲ以テ援。太鼓三、貝一。——軍奉行記
隣接口は評定所の裏手。畳は薄く、灯は一本。ここでは声も“薄い”。薄い声が、戦の芯を決める。
武蔵は図を置いた。昨夜、土に指で引いた線を紙に写し、印に墨を足す。線は北塀の東角から二間幅で伸び、角の真下に白い余地。そこに、丸を一つ描く。
「ここが、刃の場だ。——短い刻だけ」
向かいに東郷重位。脇に薩摩の若衆二名。重位は丸の位置を指先でなぞり、止める。
「短い刻、とは」
「十呼吸」
「十か」
頷きはない。けれど、空気が一度だけ動く。
家老が咳を一つ。小評定は始まり、そして終わった。決まりは少ない——中津は掘る。薩摩は角上で十呼吸だけ刃を置く。太鼓三、貝一。人は増やさない。
「伊織」
「はい」
押収品目録が畳に滑る。藍糸、縄結右上残し、印焼甘し。紙の地合いは厚く、同じ字崩しが三枚続く。
「夜の荷出し、満ち潮の刻です」
「浜蔵は」
「東の入り江。小舟が二」
重位が短く言う。「角へ十。太刀は長め。——穂先、上げるな」
若衆が一度だけ頷いた。頷きも“十”に合わせて短い。
*
夜。土は冷え、隣接口の空気は薄い。掘り手が肩を並べ、楯が伏せられ、二間幅の黒い溝が伸びる。
「印から——十」
武蔵が指で数え、息を整える。太鼓が三つ、間を置いて落ちる。貝が一度、短く。
角の上に、重位の若衆が揃った。肩が沈む。刃はまだ出ない。
「今」
刃が一度だけ開く。短い、速い、無音。十呼吸の集中。光の筋が薄く残り、闇に融けた。
「前へ」
武蔵の声。掘り手の肩が前へ出る。土が外へ吐かれる。縁が肩の高さまで育つ。
上から石が遅れて降る。角に集まるはずの落石は、静かな“上手”に迷い、落ち場所を探す。その間に線はさらに一間伸びた。
「戻れ」
重位の引き声。若衆は影に戻る。息は乱れない。
「二間半」
伊織が報せた。暗がりの奥、浜の灯がわずかに揺れる。小舟が一つ、岸を離れる気配。
「目録を増やす。縄の結び、印の焼き——今夜のうちに写せ」
「承知」
筆先が夜の湿りを吸い、太い字になる。太い字は、後で匂いを思い出させる。
塀の上で鉄砲が一つ。音が軽い。
「空が混じってる」
伊織が呟く。
「焦りの音だ。急ぐ代わりに、数える」
武蔵は縁の厚みを指で測る。厚みは刃になる。刃は線の上で道具に変わる。
「東郷殿」
角の陰。重位が立っていた。月の光が顔の半分だけ照らす。
「十で足りない夜が来る」
「なら、十で足りる場を作る」
重位は目だけで笑った。声は出さない。代わりに、指で空を一度切る。鍔音は鳴らさない約束だ。
「夜明けに、もう十」
「承る」
*
明け方。遮断線は塀の影の下に食い込み始め、楯を立てれば頭が隠れる高さになった。塀上の灯は昨夜より少ない。見せ物の幕が一枚、剥がれた。
「空の音、増えてます」
「演出は足がない。線に追いつけん」
武蔵は浜の匂いに目を細める。「満ちは、約束どおりに来る」
「次は、荷ですか」
「紙と印と、藍糸。——名は畳の上で読む」
伊織が余白に小さく書いた。
> 〈付記〉十呼吸×二間=同期。
朝風が薄い灰をひと刷毛、線の上へ流した。灰は軽い。だが、線は残る。残った線が、城を細くする。
「よし。今夜、浜蔵の板を一枚——起こす」
「私が打ちます」
「布で包め。音は短く、一度」
短い返事。短い約束。短い刃。——短いほど、強い。
◆◆◆◆
夜戦での「十呼吸作戦」開始。武蔵が指揮する遮断線掘進と、重位の短時間集中攻撃が見事に連携。角の上で重位の若衆が十呼吸だけ敵を牽制する間に、武蔵の部隊が塹壕を二間前進させる。「出る勇より、戻る智を重くする」重位の教えが光る。押収品の調査により、敵の補給ルート(鳥井屋)の手がかりを掴む。
◆◆◆◆
# 第5話 空発
> 〈紙包量目規定 覚〉 黒色火薬一包、二匁。器量に依り一分の狂いを許す。包紙は三度折、左巻にて捻り、麻糸一重にて結ぶべし。——廻米方控
昼は薄く晴れ、塀の上の黒が乾いた。遮断線の縁はさらに高くなり、楯を立てれば胴が隠れる。中津の持場に、押収の木箱が運ばれてきた。
「よく揃ってるな……」
伊織が蓋を外し、思わず息を漏らす。紙包が整然と並び、縄の目が均しく光っている。
「一包ずつ、量る」
武蔵は秤を持ち上げた。皿の上に紙包を置き、針の震えが止まるのを待つ。
「二匁」
「二匁」
「二匁、一分」
「二匁」
「……揃いすぎだな」
武蔵は紙の端を薄く開いた。紙肌は少し厚い。繊維が長く、揉んでもちぎれない。海の湿りに耐える紙。
「折りは三度、捻りは左、糸は麻で一重。結びは——」
「右上に余り」
伊織の指が糸を撫でる。「俵と同じです」
「鼻」
武蔵が紙包の口元を近づける。黒色火薬の甘い匂いは薄い。
「空だ。音だけ増やすための」
「混ぜ方に意志があります。三つに一つ、五つに一つ、間隔を変えて」
「偶然に見せる意志、だ」
底板が僅かに軋んだ。武蔵が爪で触れる。「印の焼きが浅い。角が丸い」
「急いで押した印の癖」
「口径の違う玉も混じってます」
伊織が鉛玉を二つ置く。ひとつは僅かに小さく、ひとつは僅かに大きい。
「同じ場で鋳た玉じゃない。どこかで集め、揃えたふりをした」
武蔵は玉を指で転がす。「指は嘘に触る」
「覚えます。折り、締めの硬さ、量目の揃い……」
「揃い方を、だ。人は同じを繰り返す。それが名になる」
控の外で太鼓が二つ。遮断線が、また二間伸びた合図だ。
「浜へ回す。印と結びを写し、板目と合わせろ」
「はい」
*
浜は静かだった。満ち潮の線が砂に描かれ、足跡の縁を柔らかく飲み込んでいく。浜蔵の戸には新しい釘の銀、板の一枚に焦げ跡。
「押し直してるな」
武蔵が板を撫でる。焼印の輪郭が二重に浅い。火を弱め、向きを迷った手の痕。
「縄の余り、右上」
伊織が囁く。「俵と紙包と箱、全部同じ癖」
「灯を落とせ」
手燭が覆われ、夜の目が深くなる。波の裏で、小舟の舳先がひとつ砂を擦った。
「今夜は押さえませんか」
「押さえない。目録を増やす。——噂より紙のほうが強い」
舟の男が二人、箱を降ろす。足の運びが揃っている。舟で育った足。
「流れでございます」
男が笑い混じりに言った。潮のことか、噂のことか。
「流れは、作るものだ」
武蔵は箱の側面に指を当て、軽く押し跡を残す。明日には潮で消える。だが、今夜の紙には残る。
*
戻る途上、遮断線の縁に腰を下ろす。
「量目は習い性」
武蔵は自分に言い直す。「習い性は名」
「同じ手、ですね」
伊織が紙の端に細く書き足す。
> 〈付記〉左巻・右上残し・二匁揃い。箱配列、三—一—五。
塀の上で鉄砲が一つ、軽く鳴る。焦りの音。
「明夜は、板と印だ」
「承知」
夜風が藍の匂いを運んだ。短い糸でも、匂いは長く残る。
◆◆◆◆
押収した火薬の分析から、敵が空包(音だけの偽装弾)を混ぜて兵力を多く見せていることが判明。
縄の結び方、印の押し方、紙の折り方—すべてに「鳥井屋久左衛門」という商人の癖が現れている。
武蔵は物証を積み重ね、敵の補給網の正体に迫る。
「習い性は名だ」—証拠は人を裏切らない。




