093 幕間参の弐~前世編新訳島原の乱~
# 第2話 席次
評定所では、灯の少なさが身分の段差を際立たせる。厚い畳は上座へ、薄い畳は末座へ。刀の置き角度まで、口数を決める作法だ。
武蔵は末座。隣に伊織が半身を下げて控える。
「……灯が少ないと、影が濃くなるな」
「はい。誰が喋れるか、一目で分かります」
家老の口上が淡々と始まる。
「総じて、原城は堅し。塀高く、切岸深し。鉄砲は少なめ、近づけば落石・悪灰・長物が主」
武蔵は耳で聞き、目は図の“角”へ落とす。あの角、妙に灯の高さが揃っていない。——人影ではなく台の灯だ。
「薩摩」
呼ばれて、東郷重位が座をずらす。細身、だが声に芯があった。
「一所だけ割ればよろしい。初太刀は一度で足ります」
「角を一撃、ですね」
伊織が小声で言うと、重位の視線が一瞬だけこちらに寄った。斬らぬのに斬る視線だ。
「中津」
末座に視線が落ちる。武蔵は紙へ印をひとつ置き、言葉を出した。
「遮断線を先に。二間ずつ接近壕を伸ばす。灯と影は増えるが、人は増えません」
「慎重に過ぎる」
前列から押し殺した声。武蔵は顔を上げない。
「慎重と怯みは別です。間を詰めれば、刃は短くて足ります」
場の空気が一瞬、凪いだ。
「兵は足る。待つは辱」
板倉重昌が、短く切る。示威・短期戦・禁教の威信——言葉にならない理由が背後に積まれている音だ。
「……強襲」
二音で評定は傾いた。重位はわずかに瞼を伏せる。武蔵は否を重ねない。末座の否は、風音になる。
「持場は今夜中に割る」
駒が置かれ、名が読み上がる。鍋島、細川、黒田、小笠原。薩摩は横手。中津は“隣接口”。
武蔵は、最後にひと言だけ差した。
「夜の兵増しは、演出です。松明は台。藁で影を膨らませ、空発を混ぜて音を増やす。数を音で数えぬこと」
家老の応えは、ひとこと。「承る」。採るとも採らぬとも言わない、箱の言葉だ。
*
廊下。板の冷えが足袋から上がる。伊織が囁いた。
「東郷殿の“初太刀一度”、やはり強すぎますか」
「場が合えば足りる。こちらで場を作る」
「叔父上の“十”と、東郷殿の“一度”。噛み合います?」
「噛み合わせる。刃は貸してもらう。短い刻だけ」
ちょうどそこへ、重位が若衆を連れて通りかかった。視線が交差する。言葉の前に、承りの温度が伝わる。
「中津は、隣接口か」
「はい」
「ならば——十呼吸、貸そう」
「借ります。十で足りる場に調えます」
重位は頷かない。代わりに、指で空を一度だけ切った。刃筋を確かめる仕草だ。
*
夜。隣接口は、評定所より灯がさらに少ない。土は冷え、楯の影が長い。
「印から十」
武蔵が息を整える。太鼓が三つ、間を置いて落ち、貝が短く鳴る。
角の上——重位の若衆が開いた。刃は短く、速く、声を要らない。十呼吸。長くも短くもない集中の極。刃の筋は薄く残り、すぐ消えた。
「今!」
武蔵の声に、掘り手が肩を沈めて前へ。土が溝の外へ吐き出され、縁が肩の高さを得る。
「二間!」
伊織の報せ。上から落ちる石は遅れ、散った。空発が混じる軽い銃声。焦りの音だ。
「戻れ」
重位の引き声。若衆は軋みもなく影に帰る。出る勇より、戻る智を重くする動き。
「……十で、足りますね」
伊織が息を吐く。
「足りる場に、今夜はなった」
武蔵は印をもうひとつ置いた。
*
小評定。灯一本。家老が短くまとめる。
「中津、掘進二間にて良。薩摩、角上援撃十呼吸」
重位が図に目を落とす。
「十で足りぬ夜も来る」
「来れば、場を狭める」
「狭めれば、刃は届く」
短い往復で十分だった。伊織が押収品目録を差し出す。
「俵は藍糸、結びの余りは右上。焼印は甘く、押し直しの痕が二度」
重位の視線が若い声に移り、値踏みなく“置かれる”。
「浜蔵は東の入り江」
「舟が二。満ち潮の刻に動きます」
「……なら、角の上は十だけでいい。兵は増やさぬ」
家老が頷き、墨で印を結んだ。
*
明け方。遮断線は塀の影の下に食い込み、楯を立てれば頭が隠れるほどになっていた。
「空の音が増えました」
伊織の耳は鋭い。
「演出は、足を持たない。線に追いつけない」
武蔵は土の端に指を置く。冷たさが、数をくれる。
「次は、荷だ。紙と印と、藍糸——名は畳の上で読む」
伊織が頷き、余白に小さく記す。
> 〈付記〉十呼吸と二間を同期。
短い文が、戦の芯になった。太鼓が一つ、日を告げる。
◆◆◆◆
評定所での作戦会議。
武蔵は末席ながら、敵の兵力水増し工作を見抜いた分析を披露。
重位の一撃必殺と武蔵の段階的攻略、一見対立する戦術だが、重位は武蔵の冷静な判断力を評価する。
「十呼吸だけ刃を貸そう」
「十で足りる場に調えます」
短い言葉で、二人の協力関係が始まった。
武蔵の養子・伊織も重位の格を認める様子を見せる。
◆◆◆◆
# 第3話 灰の朝
> 〈手負注文 抜〉 正月朔日 梯上り之者 肩口より右脇へ石打込 手負。
> 同 楯持之者 悪灰にて目明かず 引退。
> 同 先陣小頭 鑓付 即死。
> 中津組 軽傷三。
朝は灰色で始まった。海の気が陣の衣へ染み、息をつくたびに塩が舌に上がる。まだ太鼓は鳴らない。だが、音のないところにすでに戦の匂いは立っていた。
「刻だ」
板倉重昌の声は短い。短い声が、長い隊を動かす。梯が肩に上がり、木の軋みが連なる。
武蔵は列の端で、楯の影を払いながら足場の土を見た。
「右、土押し。左、楯二枚、前」
「了解!」
伊織が走る。灰が視界を迷わせ、そこへ最初の“悪灰”が降ってきた。黒い粉が空気を奪う。
「むせるな、目を閉じるな!」
上から遅れて石。落ちてから音が届く。音が届く頃には、肩の骨が折れている。
「上、臼っ!」
誰かの叫び。臼の角が梯先の男の肩を潰し、木が片側から折れた。
「退け!」
武蔵の声は強くない。だが楯持ちの耳へ届く。伊織が楯を立てて後ろへ引く。引くのは難しい。前へ出すより、勇気が要る。
そのとき、膝の違和が針になった。土中の石か、踏み損ねた角か。
「叔父上!」
「立てぬ」
武蔵は正直に答え、掌で土を抑える。「……だから見える。上の灯、高さが揃わん」
伊織が目を細める。「台の灯、胸、腰……藁台」
「そうだ。角の手前、死角が生まれる」
太鼓が二つ、間を詰めて落ちる。上の投げ物が重くなり、石の数がいよいよ増えた。
「押すな、詰めろ!」
前列の声が途切れ、旗が煙の向こうで揺れ、そして消えた。
「……殿!」
誰かが名を呼ぶ。名はすぐに黙した。
退却の合図は太鼓で来た。だが太鼓は遅い。兵は互いの背中で合図をとり、楯が下がり、梯が倒され、泥が跳ねる。
*
日が傾く。陣は灰を吸って重い。控の畳に“手負注文”が置かれ、筆先が震える。
「中津」家老の声が乾く。「言うなら、汝がやれ」
武蔵は頭を下げた。伊織の息が短く入る。重位は黙っていたが、その沈黙は冷たくない。
「明夜より、遮断線を伸ばす。二間ずつ」
「一所は割れる」
重位が言う。「初太刀は一度。十呼吸、貸そう」
「借ります。十で足りる場を、こちらで作る」
言葉は短く、それで足りた。
廊下へ出ると、伊織が小声で問う。「叔父上……本当に十で?」
「十に足りるよう、線で詰める」
伊織は頷き、押収品目録を差し出した。「藍糸、縄結右上残し、印焼甘し。紙は厚手。近場の蔵です」
「名は書くな。名は風を呼ぶ」
「承知」
*
夜。武蔵は陣の端で足袋を外した。膝の腫れは思ったほどではない。痛みは輪郭を持ち、輪郭は数に変わる。数に変えれば、扱える。
「明夜、浜蔵を見る。満ち潮の刻、小舟が動く」
「俺が行きます」
「二人で行く」
遠く、塀の上の松明が増えた“ように”見える。見える戦に、見える手で応じる必要はない。
「二間」
武蔵は土に線を引き、小さな丸を置く。「ここに“十”を置いてもらう」
そこへ重位が影から現れた。月の光が顔の半分だけを照らす。
「十で足りぬ夜が来る」
「十で足りる場所を作る」
重位は頷かず、指で一度だけ空を切った。鍔は鳴らない。今は、鳴らさない。
「夜明けに、また十」
「承る」
短い約束が結ばれた。
*
夜更け。伊織が押収の箱を撫でて言う。「量目、妙に揃ってます。空包の匂いも」
「覚えておけ。量目は習い性。習い性は名だ」
「……名は、まだ書かない」
「そうだ」
遠くで太鼓が一つだけ鳴った。遅い太鼓は負けの音に似る。だが、負けではない。勝ちは、明夜から作る。
武蔵は土へ描いた線の端を指で押さえた。冷えが戻る。冷えが戻れば、考えが動く。死ぬ者を減らせる。それを、勝ちと呼ぶ。
灰の朝は終わり、灰の夜が始まる。夜の中で、藍の糸が細く光っていた。
◆◆◆◆
強襲戦の朝。悪灰(石灰)と落石の嵐の中、攻撃軍は苦戦する。
武蔵は膝を負傷しながらも冷静に戦況を分析。
板倉重昌が戦死する中、武蔵は責任を問われる。
「言うなら、汝がやれ」—家老の厳しい言葉に、武蔵は自らの戦術で次の夜戦を請け負うことになる。
重位は黙って武蔵の決断を見守り、十呼吸の協力を約束する。
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