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089 幕間 其の弐 試練

 綾野亮と佐藤健吾が設立したゲーム開発会社「株式会社Valtein」は、順調に成長を続けていた。

 大学在学中からスタートしたこのプロジェクトは、彼らの努力と才能、そして情熱によって大きな成果を上げていった。


 最初にリリースしたゲームは、スパイをテーマにした駆け引きと謎解きの要素を取り入れた作品で、プレイヤーが潜入工作や二重スパイの立場を体験するものだった。

 リリースと同時に話題を呼び、業界内でも注目の的となった。

 緊張感ある展開と、複雑なストーリーがユーザーの心を掴み、好評を博したのである。


 次々と新しいプロジェクトが立ち上がり、会社の規模は次第に拡大していった。二人は大学を卒業し、全力でヴァルテインに取り組んでいた。新しい仲間も次々と加わり、オフィスは活気に満ち溢れていた。亮はゲームの技術面でチームを牽引し、健吾はリーダーとして経営と人材管理を担当していた。

 最高のチームワークを誇り、誰もがヴァルテインの未来に期待していた。


 しかし、そんな彼らに突如として襲いかかってきたのは、世界的なパンデミックだった。


「俺たちの会社もヤバいな…」健吾が、ヴァルテインのオフィスで亮に語りかけた。


 世界中でパンデミックが広がり、経済も停滞。

 その影響はヴァルテインにも容赦なく及び、売り上げは激減し、プロジェクトも次々と延期を余儀なくされた。

 それ以外にも大きな要因があった。

 パンデミック直前に事業拡大のため、社内には新卒や中途採用で多くの社員を雇い入れたのだ。


 亮は黙って健吾の話を聞いていた。

 亮も、この厳しい現実を受け止めていたが、何をどうすればいいのか答えが見つからなかった。


「でも、俺たちは諦めないだろ?」健吾は力強く続けた。「銀行から融資を受けて、何とか乗り切ろう。お前のゲームは確かだ。俺たちの会社は必ず復活できる」


 彼らは銀行から多額の融資を受けて、何とか会社を維持する道を選んだ。

 ヴァルテインのメンバーは以前より多かったが、パンデミックの影響で収入は減少していた。

 それでも、雇った社員たちを解雇することはできず、彼らの生活を守らなければならなかった。


 会社の状況は次第に厳しくなっていったが、健吾と亮は最後まで諦めなかった。

 仲間達と力を合わせれば、どんな困難も乗り越えていけると信じていた。

 そして、希望の光が見えはじめた。

 融資を得て事業を継続していく中で、亮の新しいゲームは徐々にユーザーを獲得し始めたのだ。

 彼の情熱と才能が詰まった新作ゲームは、多くの人々の心を掴み、再び彼らにチャンスが訪れたのである。


「俺たちならやれるさ。どんな逆境でも乗り越えられるんだ」健吾は静かに言った。


 彼らは再び歩みを始めた。ヴァルテインは苦境に立たされていたものの、二人の絆と努力によって再び輝きを取り戻していく。


◆◆◆◆


 しかし、パンデミックが終息に向かう頃、彼らにはさらなる試練が待っていた。

 新たに雇った社員たちが次々と会社を去り、自分たちで新しい会社を立ち上げ、ヴァルテインの社員たちを引き抜くという裏切りが起こり始めた。


 その引き抜きの中心には、紅月翔太という元社員がいた。

 彼は健吾と亮の信頼を得ていたが、パンデミックの間に資金横領を行い、その資金を元手に会社を設立したのだ。

 彼は元同僚たちに資金を振りまき、ヴァルテインの有能な人材を引き抜くことに成功した。


 横領の事実は亮には伏せられていた。


「俺たちが守ってきた社員たちに、こんな形で裏切られるなんて…」健吾は愕然としていた。

 世界的パンデミックの間、なんとか守ってきた社員たちに次々と裏切られ、ヴァルテインは急速に傾き始めたのだ。


「どうしてこんなことに…?」健吾は深い絶望感を滲ませた声で呟いた。彼の心は、その裏切りによって深く傷ついていた。


「なんでこんな目に遭うんだ? みんな、一緒に夢を追いかけてきた仲間じゃないか…。なんで、あいつらは俺たちを裏切るんだ…?」


 健吾の声には、これまで感じたことのない失望が滲んでいた。彼は亮に向かって問いかけるが、亮もまた答えを持っていなかった。

 亮自身も仲間たちの裏切りに心を痛めていたが、それでも冷静さを保ち続けていた。


「健吾、落ち着いて。まだ全員が離れたわけじゃない。少ない人数でも、まだ何とかなるはずだ。僕たちはまだ終わってない」


 亮は冷静にそう語りかけたが、健吾の表情は変わらなかった。亮の言葉に耳を傾ける余裕が、健吾にはもうなかったのだ。


◆◆◆◆


 その後、健吾は明らかに変わっていった。

 以前のような情熱を失い、口数も減り、会社の経営にも積極的でなくなっていった。

 彼の目には、深い疲労と絶望が刻まれていた。


「もう限界だよ、亮…。俺にはもう耐えられない…」ある日、健吾はとうとうそう言葉を漏らした。


 亮は驚いた表情で彼を見つめた。


「何言ってるんだよ、健吾。僕たちはまだやれる。ここで諦めたら、今までの努力が無駄になるじゃないか」


 健吾は力なく笑った。


「お前は強いな、亮…。俺は、もう無理だよ…。全部、裏切られて…俺には、何も残ってないんだ…」


 その言葉に、亮は何も言えなかった。健吾の心がすでに限界を迎えていることを、痛いほど感じ取っていた。


 亮はそれでも、健吾を励まそうと試みたが、これまで背負ってきた重さが限界に達していることを理解せざるを得なかった。

 彼らの間には、これまで感じたことのない溝が生まれ始めていた。


◆◆◆◆


 綾野亮は、薄暗いオフィスの中で一人深い溜息をつく。


 親友である佐藤健吾からの連絡が途絶えて数日が経ち、心の中に渦巻く不安は日に日に膨れ上がるばかりだった。

 いつもなら、メールを送ればすぐに返事が来るはず。

 仕事のことで健吾から頼られることも多く、二人の間には何も隠し事はないと信じていた。

 しかし、その信頼が揺らぎ始めていた。


「健吾、どうしたんだ…?」


 スマートフォンを握りしめ、画面に表示されたメッセージアプリをじっと見つめる。

 送信済みのメッセージは何度も確認していたが、健吾からの返信は一向に届かない。


 最後に届いたメッセージは数日前「少し休むよ」とだけ書かれていた。


「少し休む…?」その言葉の裏には、どんな感情が隠されていたのだろうか?


 亮は居ても立っても居られず、健吾のマンションに向かうことを決めた。

 様子がおかしいのは明らかだ。

 いつも前向きで、どんな状況でも立ち止まらない人間だった。

 最近の仕事の疲れや、会社の問題が影響しているのかもしれないが、それ以上に何か深い理由があるような気がしてならなかった。


◆◆◆◆


 健吾のマンションに向かう途中、亮は様々な思いに囚われていた。彼らは「ヴァルテイン」を共に立ち上げ、夢を追いかけてきた。すべてが順調に進んでいるはずだった。しかし、パンデミックによる業績の悪化、仲間たちの裏切り、そして健吾の変化が、二人の未来に影を落としていた。


 健吾の表情に以前のような輝きはなく、目には深い疲労が刻み込まれていた。

 その変化に気づいていながらも、手を差し伸べることができなかった。

 いつも冷静で、感情を表に出さない亮だったが、今はその冷静さが自分を苦しめる。


「もっと早く動くべきだった…」


 自責の念に苛まれながら、健吾のマンションに到着する。

 玄関の前に立ち、何度もチャイムを押す。

 しかし、返事はない。

 部屋の中からは、まったく音が聞こえない。


「健吾、いるの? 僕だ、亮だ! 開けてよ!」


 しばらく待っても応答がない。

 焦り始め施錠されているドアノブをガチャガチャと回す。

 不安が胸を締め付ける。

 亮は迷わず非常事態だと説明してマンションの管理会社に連絡し、ドアを開けてもらうことにした。


 ドアが開かれると、部屋の中は静まり返っていた。

 リビングには未処理の仕事の書類が散らかっており、健吾のノートパソコンが開かれたままだ。

 すべてが中途半端な状態で放置されている。


「健吾…どこにいるんだ?」


 不安を抱えながら、亮は奥の部屋に足を踏み入れた。

 そして、寝室のドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、ベッドに横たわる健吾の姿だった。


 心臓が止まるような感覚が、全身を駆け巡る。


 健吾は静かにベッドの上に横たわっていた。

 まるで眠っているかのように見える。

 しかし、その静けさが異様で、亮の頭は真っ白になった。


「健…吾…?」


 震える声が、薄暗い部屋に響く。

 返事はない。

 一緒にいた管理会社の社員は慌てて携帯を取り出しているが亮の目には入らなかった。


 ゆっくりと健吾に近づき、その冷たい手に触れた瞬間、胸の中で何かが崩れ落ちた。


「健吾…嘘だろ…?」


 亮はその場に崩れ落ち、無力感に打ちひしがれた。

 涙が自然に溢れ出し、彼の頬を伝って床に落ちた。

 親友を失った痛みは言葉にならず、心の中で叫んでも、その声は誰にも届かない。

 健吾の冷たい手を握りながら、彼はただ静かに泣き続けた。


 何時間が過ぎたのかも分からない。亮は、健吾の手を離し、重い足取りでマンションを後にした。


 虚無感が心に広がり、無意識に動いているだけだ。


「僕がもっと早く気づいていれば…何かできたかもしれない…」


 自責の念が胸を刺す。

 健吾が苦しんでいたことに、気づいていながら見て見ぬふりをしていた自分を許せなかった。

 パンデミックや会社の問題だけでなく、健吾自身が心の奥底で抱えていたものに気づくことができなかった。

 彼を救う手段があったのかもしれない。それが何であったかは、もう知るすべはない。

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