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7話










 家に帰ると、自室に向かい、僕はベッドに横になった。


 加奈は僕の近くにいてくれると思っていた。

 加奈は僕の人形になってくれると思っていた。僕の両の手の平の上で、ころころと転がっていてくれるものだと思っていた。


 けれど、そんなことはなくて、糸が外れた彼女は別の道を歩み始めていた。


 恋をしていたのか? と問われれば、それは是であり否であった。僕は加奈のことが好きだった。あの天真爛漫な笑顔と、綺麗な横顔が好きだった。だけど道行く恋人のように過ごしたかったかと言えば、それは違う。


 この手の上に置いておきたかったのだ。

 まるでショーケースに飾られた人形のようにひっそりと、誰の目にも触れないように、僕だけの人形でいてほしかった。


 ふっと笑ってしまったのは、自分の中にある自制心のせいだった。


「人間を人形として傍に置いておきたいなんて、馬鹿げている。狂っている。歪んでいる」


 だけど、人形だったら、ずっと傍にいてくれるんだ。壊れることもない、どこかへ行くこともない、反抗することもない、許さないこともない、怒ることも悲しむことも泣くこともない。

 変わることもない。


「だけど、力ずくでそれをしなかったのは、この自制心のせいだ」


 この自制心は、または意識ともいった。歪んだ欲望を受け入れることを拒絶する、この意識のせいなのだ。

 父の厳格な精神はここに受け継がれている。僕は父のことが嫌いだったが、それでも親子なのだ。否応なしに、似てしまうのだ。


 例えば何かが違っていれば、僕はこうはなっていなかった。

 父の性格がもう少し穏やかであれば、母が今も健全でいてくれれば、こんなことにはなっていない。こんなにも無様に理性と欲望の間で揺れる自分ではなかったはずだ。


「自制心さえなければ……」


 なければ?

 なければ……。

 ……。


 僕は大きく息をついた。

 気がつくと、夜も随分更けてしまっている。


 台所に向かうと、ラップをかけられた料理があった。優樹さんが作ってくれたものだろう。


 それを見たら、優樹さんに無性に会いたくなった。

 玄関には、まだ優樹さんの靴があった。


 優樹さんがこの家にいるのは、お手伝いとしてだ。台所にいない時は、洗面所で洗濯をしてくれているはず。


 いない。

 または、使われていない部屋の掃除をしてくれているはずだ。二階にある僕の部屋の隣が、その物置だった。


 いない。

 過去に一度だけ、台風で家に帰れなくなったとき、優樹さんは客用の部屋に泊まったことがあった。きっとそこにいる。


 いない。

 僕は怖くなった。


 靴を残して優樹さんが消えたことにではない。夜も遅いのに、優樹さんがこの家にいるということに、だ。


 優樹さんは、母に似ている。きっと父もそんな優樹さんの穏やかな雰囲気に誘われて、お手伝いを依頼したのだろう。優樹さんのような若い人をお手伝いとして雇うのは珍しく、僕は訝しんだことがあったが、父の人徳だろうと思っていた。


 探していないのは、あとは父の部屋のみだった。

 父の部屋に僕は訪れたことがない。父が苦手だったし、そんな父の匂いが色濃く残っている父の部屋には、近づくことさえ拒んでいた。


 けれど、近づく。

 鼓動が早まっていく。

 近づいてはいけない。

 見てはいけない。

 脳が警鐘を鳴らす。


 だけど僕は、蜜に吸い寄せられる蝶のように、ふらふらと父の部屋の前にやってきた。


 父の部屋の扉は、都合よくも少しだけ開いていた。


 僕はそこから中を覗く。

 思わず声を漏らしそうになった。我慢できたのは、何となく予想できた結末だからだろう。


 目の前では、優樹さんが全裸。

 父の上で腰を振っていた。


 その様があまりに現実に即した生々しいものだったので、僕は言葉もなくそれを見守った。


 動物的で、幻想的で、狂気的で、魅惑的で、その情事に魅せられてしまった。


 優樹さんは僕が見たこともないような魅惑的な表情をしている。優樹さんは僕が感じたこともないような蠱惑的な汗を撒いている。優樹さんは僕が受けたことのないような情熱的な双眸で父を見ている。


 僕は――何もできない。

 ただただそれを見つめていた。


「にしても、君がいてくれて良かった」


 行為が一段落すると、父はそんな言葉を口にした。

 優樹さんはただただ微笑んでいる。その表情は、恋する乙女のものだった。


「私もあなたがいてくれて良かったわ」

「君は変わった。昔はそんなではなかったのに」

「あら? 昔の私の方がお好み?」

「そんなことはない。私は今の君の方がとても魅力的に感じるよ。変わってくれて良かった」


 優樹さんは照れたように、はにかんだ。


「とはいっても」


 父は言った。


「私が君を変えたんだがね」


 それはとりとめない会話の一言だったはずだったが、僕は引っかかりを覚えた。一字一句聞き漏らさないように、神経を集中させる。


「変なこと言うのね。間違っていないけど」

「そうだ。何も間違っていない。私は君とは十二年前、君の大学時代に出会い、こうして愛し合っているのだからね」


 心臓が高鳴った。


「ええ。そうね。あなたはその時、奥さんを亡くして、雨の中傘も刺さずに泣いていたわ」


 母が死んだのは、確かに十二年前だ。

 でも、優樹さんが初めてここに来たのは、今から数えて八年前だ。そこで彼女は初めて僕と父と出会ったのだ。僕もその時に立ち会ったのだから、よく覚えている。

 何かが、おかしい。


「ああ」


 しゃくりあげるような、不気味な音が響いていた。それが父の笑い声だと気づくと、僕はただただ戦慄した。


「よくもあの時は、私のことを振ってくれたよ……」

「え? 何の話? あなたのことを振ったことなんて一度もないわ。この恋が覚めたことなんて、一度もないの」

「ああ、そうだったね」


 ひたすらに愉快そうな父の声を聞いて、僕は思い出した。


 忘れていた。

 意識的に、忘れていた。


 あの、病院の地下の部屋にある、機械のことを。

 何かが音を立てて崩れていく音がした。砂上の城が崩れ落ちるように。重なった書籍が雪崩落ちるように。


 ――そして崩れた先の黒いものを見た。


 僕は父の部屋を離れ、自分の部屋に戻った。

 自分の部屋に戻り、僕は鏡に映る自分の姿を確かめた。


 何も変わっていない。

 そこには日々の喧騒に疲れた高校一年生の優等生がいるだけだ。彼は父親に厳しく躾けられた。世間体を大事にするように、普段から一番の成績を取るように。


 彼はそれをずっと、ずっと準拠してきた。脇道に逸れることなく勉強し、立ち止まることなく模範的に生きてきた。


 鏡の中に映る彼は、にやりと笑った。僕の見たことのない笑顔だった。


「おまえは馬鹿だなあ」


 何を今まで守っていたんだ?

 今まで何をしていたんだ?


 下らない。

 ああ、下らない。


 登り上げた階段が、霧となって消えたような気がした。

 縛られていた鎖が、無残に砕け散って行くのが見えた。


 もう、誰も僕を止めるものはなかった。


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