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6話











 加奈は順当に試験に合格し、僕たちは同じ学校に通う高校生になった。


 特に示し合わせたわけではないが、僕と加奈は同じ時間に同じ場所で出会い、一緒に自転車に乗って学校に向かった。

 高校に上がったところで、僕の世界は変化することはなかった。しかし、こうして朝、加奈と登校できるというだけで、一日を生きる希望には十分だった。


 加奈とはクラスが別になってしまった。

 加奈は持ち前の明るさや器量のよさで、あっという間にクラスの中心人物になった。頭の固いエスカレータ組が多くて受験組が浮きやすい中で、素晴らしい社交性だった。加奈の周りにはいつも友達がいた。


 高校生になると、加奈の美しさは自然に開花していた。

 子供っぽい性格はいまだ健在だったが、仕草の一つ一つには愛嬌が生まれていた。身だしなみもしっかりとしていて、加奈が笑顔で横を通り過ぎると、足を止める男は決して少なくなかった。


 そんな美人な新入生の噂は瞬く間に学校中に広まった。

 中学時代、結局一つしかもらわなかったラブレターや告白も、一ヶ月も経つ頃には二桁を超えていた。


 いつからだっただろう、加奈はラブレターや告白を受けたことを僕に報告しなくなっていた。最初の方は満面の笑みで見せびらかしていたというのに、五月も終わる頃には思いついたかのように一言、会話の折に混ぜるくらいになっていた。


 朝の登校時に加奈が話すのは、専ら学校の先生や友達の話だった。


「よしくんは変わらないね」


 加奈がそう言ったのは、六月の曇天の日だった。


「そうかな?」

「そうだよ」


 自転車置き場から歩いて校舎へと向かう。

 実際、僕は自分の不変性を自覚していた。人間とは多くの人間と触れ合って、自分の欠点を自覚することで、変わっていく。直そうと発奮する。

 他人と触れ合いもせず、自分の欠点も理解していない僕が、おいそれと変わるわけもなかった。


 あるいは、僕はすでに君嶋佳人として、完成されているのかもしれなかった。


「じゃあ、かなちゃんは変わったの?」

「よしくんはどう思う?」


 加奈はその場で一回転した。スカートが風に舞い上がってめくれる。中身はぎりぎりで見えない。

 加奈はいまや、女子高校生というカテゴリにしっかりと収まっていた。身だしなみを怠らず、常に外からの自分を意識し、移動する方向を集団という単位で決定する。


「かなちゃんは、変わったよ」


 正直に言った。

 加奈は変わったのだ。多くの人間が時代の変遷から逃れられないように、加奈も例外ではなく変わった。女子中学生から、女子高校生に。


 それが嫌なのは、僕がまだ何も変わっていないからなのか。歳が変わることで変化する心境を、どこかに忘れてきたからなのか。


「かなちゃんは、変わった」繰り返す。

「そうか。それが、よしくんは嫌なの?」

「……」

「そっか」


 加奈は寂しげに微笑んだ。

 その笑顔に、僕も寂寥感を覚えた。加奈はもう、僕から離れていくのだろう。

 その時の感情は、母が死んだときに感じたものに似ていた。





 高校生になっても、僕は父に部活動は許されなかった。とはいっても、そのことについて強く反発したわけではない。諦念とでもいうのか、僕は昔から父に反論をぶつけることをしなかった。


 加奈がや他の高校生が部活動に勤しむ傍らで、僕は父の診察や手術を観察している。他の人間から見たら、滑稽にも見えるのだろう。


「おまえももう高校生だ」


 二人きりになると、父の声は低くなる。


「わかっているだろう。ここが、人生の岐路だ。だらだらと過ごすか、目的を持って動くかで余生は大きく変わってくる。おまえはどちらが望みだ?」

「別に、どっちでも」


 自分でも曖昧すぎるというのはわかっている。

 父はため息をついた。


「おまえが医者の、私の息子で良かったな。でなければ、前者の生き方を惰性で選び、ろくな生涯を送ることができなかっただろう」


 父の息子でなかったら、そもそもこんな風にはなっていない。


「おまえは敷かれたレールの上でしか走ることのできない人間だ。黙って私の言うとおりにしているんだな。そうすれば人並みの生き方くらいは身につけられる」

「それでもいいよ」

「それしか選べないんだろう」


 父の言うとおりに、父が望むように。

 別に僕の人生、これでもいいと思っている。




 ある日――夏休みも間近に控えた夏の日の朝だった。

 加奈はいつもの時間に、いつもの場所に来なかった。


 風邪を引いたなら携帯電話の方に連絡があるはずだし、どうしたのかなと訝しみつつも、僕は遅刻しないぎりぎりの時間まで待って、それから学校へ向かった。


 自分のクラスへ向かう途中、加奈のクラスを覗いてみた。


 加奈はいた。

 クラスメイトの女性たちに囲まれて、笑っていた。その顔には罪悪感といった負の感情はまるで見当たらなかった。


 自分のクラスの自分の席につく。息をつきながら机の中に手を入れると、中に封筒が入っているのがわかった。


 一瞬たりとも希望に満ちたことは想像しなかった。むしろ、悪いことが起こる予感がしていた。この封筒を開いたら、大切なものが両手からこぼれ落ちていくような――


 封筒を机の上に出し、中身を改める。

 差出人は、加奈からだった。

 加奈の丁寧な字で、そこにはこう書かれていた。


『これから、朝は一人でいきます』


 全てが変わっていくのだ。

 僕を置いて。




 変わらないものがあれば、変わるものがある。僕だってそれくらいわかっている。現状なんて、試みないと維持できないのだ。


 だけど、急激なうねりに巻き込まれているような感覚に、戸惑った。ただ、中学生から高校生になっただけだ。たった一年、人生を歩んだだけだ。それなのに、取り巻く世界ががらりと様相を変えた。


 正直に言うと、変わらない僕は怖かったのだ。


 僕は放課後、加奈を呼び出し、話を始めた。

 人気のない廊下で、向かい合う。


 加奈はもう以前の溌剌とした少女ではなくなっていた。軽く化粧をして、スカートを短くして、黒髪を肩口で揃えて。胸部は目に見えて膨らんでいて、肢体は女性特有の肉付きの良いもので、加奈はもう女性なんだと嫌でも意識させられた。


 考えてみれば女子高校生として当然の振る舞いだったのだが、僕は何故か衝撃を受けていた。


「どうしたの、よしくん?」


 加奈はにっこりと微笑んだ。それは女性の笑みだった。僕の知っている子供の面影を残した笑顔ではなかった。

 僕は少し気後れしていた。


「いや、どうして急に一緒に行くのをやめたのかな、って」

「だってさ、よく考えてみてよ。今までの方がおかしかったんだよ。幼馴染だからっていつも一緒にいるなんて、おかしいでしょ?」

「僕はおかしいとは思わないけど」

「私はおかしいと思う」


 二人の思惑は一致しなかった。

 意見が食い違ったことなんて、今まで何度もあった。しかしその度に僕たちは仲直りをしてきた。仲直りの仕方だって知っている。僕が謝れば、加奈は仕方ないといったように笑ってくれる。


「ごめん――」


 ――僕は。

 この時はまだ、信じていたんだけど。


 加奈がため息とともに視線を明後日の方向に投げたのを見て、察してしまった。


「私、先輩と付き合ってるんだ」


 そこで僕は加奈が中学三年生の頃、初めてラブレターをもらった時のことを思い出した。あの時は結局、加奈は告白を断った。よく知らないから友達から始めましょう、と言って。その後の進展はなかったらしい。


 どうして今、そんなことを思い出したのかはわからない。

 動揺しているのだ。


 加奈は優しい笑顔で続ける。


「先輩はサッカー部のキャプテンで、すっごくかっこいいんだ。それに、少し女の子に慣れていなくて、可愛いの。大人なはずなのに、すぐ顔が赤くなったりするの。付き合ってくださいって前から言われてたんだけど、ついこの間オーケーを出したんだよ」


 僕と彼女の間を一陣の風が走り抜けた。

 僕は何も言えなかった。


「それに、ほら。今まで一緒だったけど、私たちだっていつまでも一緒にいるわけじゃないし、どこかできっと道は別れるんだよ。だからいつか、っていうのが今なだけ。仕方がないことなんだよ。これもその一歩っていうか……ってなんで言い訳っぽくなってるんだろ」


 加奈は綺麗に笑った。

 僕は笑わなかった。


「よしくんにはよしくんの道があって、私には私の道がある。そういうことでしょ。ね?」


 自分が何にショックを受けているのか、わからなかった。


 加奈に彼氏ができたから?

 彼氏がかっこいいから?

 加奈を盗られたような気がしたから?

 加奈が女性になったから?

 僕は成長できていないから?

 告白を逃したから?

 加奈のことが好きだったから?


 どれも違う。

 僕は――どこかで思っていたんだ。


「それじゃあ、私、行くね。ゆうくんのサッカー、終わっちゃうから……」


 加奈が僕の横を通って、下駄箱に向かって歩き始める。

 その時初めて、加奈の背が僕に追いついていたことを知った。


「待ってよ」


 僕は無理矢理声をひねり出した。

 何を言おうか、考えてもいない。


「もう少し話したい、っていうか……」

「何を?」

「……それは」

「それは?」

「……」


 ため息が聞こえれば、それは加奈のものだった。


「よしくんさあ、」


 加奈は振り返った。ちょうど、僕も振り返った。

 加奈は僕が見たこともないような顔をしていた。悲しんでいるような、哀れんでいるような、見下げているような。今までの加奈からは想像もつかないような表情。


「目の前にいるの、人間だよ」


 加奈はそういって、この場を去っていった。


 冷水を浴びせられたような気がした。僕も、今まさに思ったところだからだ。それを加奈が前から知っていたとばかりに口にした。


 ショックを受けているのは、僕の手を離れていったからだ。


 ずっと一緒にいてくれると思っていた――が。

 僕を傷つけないと思っていた――が。


 変わることのない、僕の人形だと思っていた人間が、僕の手から離れていったことが、ひたすらにショックだったのだ。


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