5話
母が死んだのは、僕が四歳の頃だった。
幼稚園に入って少し経った頃だった。
母のことはあまりよく覚えていない。が、よく笑う女性だったことはなんとなく覚えていた。それはきっとアルバムのどの写真を見ても、向日葵のような明るい笑顔を見せていることも手伝ってのことだろう。
母が今も生きていれば、僕ももう少しマシな子供に育っていて、父もあそこまで厳格な人にはならなかっただろう。きっと食卓には家族三人の笑顔が溢れ、僕にはやんちゃな下の兄弟もいたのかもしれない。
でも、そんな未来は僕が物心つく前からすでに存在してはいなかったのだ。
母が死んだ日のことを僕はよく覚えていない。
母は僕を迎えに来る途中の路上で、交通事故にあって亡くなった。
幼稚園の送迎バスで降りるいつもの場所に母が来なくて、陽が暮れるまでずっと待っていた。
そのことだけは明確に覚えている。
座って、立って、歩いて――それを何度も繰り返して、母が来るのを待っていた。のんびりとした母だったから、『ごめんね、買い物してたら遅れちゃった』なんて笑いながらやってくるのを待っていた。
でも、やってきたのは青い顔をした父だった。
母は結局、僕を迎えには来なかった。
代わりに、空の上から、誰かに迎えられてしまった。
母は葬儀場で焼かれた。
わからないことだらけだった。僕は泣くことができないくらいに、わからなくて、幼かった。
集まった親戚がなんで泣いているのかも、母の笑顔がどこを探しても見つからないのかも、全て。
ただ、母がいない。
それだけは脳内に残響していて、僕に現実を突きつけていた。
母が誕生日に買ってくれた人形を握りしめて、子供心ながらに思ったことがある。
――母が人形だったらよかったのに。
母が人形だったなら、死ぬことなんかなくて、ずっと僕と一緒に居ることができて、車に轢かれることもなくて、僕は愛情を一手に受けることができて、そもそもずっと死ぬこともなくて――
どうして人間は人形じゃないんだろうなあ、なんて、その時に初めて思ったのだ。
一年が経った。
僕は中学三年生となり、受験生となった。
とはいっても、通う中学校は中学、高校の一貫校を謳っているので、受験とは名前だけのものらしかった。素行の悪い生徒、学力向上が見込めない生徒を一方的に切り捨てるための、儀礼なのだという。
そして、切り捨てられた人間の代わりに、一般入試で他の中学校から優秀な生徒を募る。
「私さあ、よしくんの学校受けることにしたよ」
三年生になっても、僕と加奈の関係は変わらなかった。時々通学路で出会うと、僕の自転車に加奈が乗る。僕は自転車にかかる負荷が、時間が経つごとに少しずつ大きくなるのを感じながら、ペダルを漕いでいく。
「へえ。かなちゃんって頭良かったんだっけ?」
「甘くみてもらっちゃあ困りますよ。これでもクラスで一番、学校でも十番以内なんだからね」
得意げな声だ。
うちの高校の学力は県内でも最高位に位置する。そのため各中学校から優秀な人間が集まってくる。それでも落とされるのだ。中学からのエスカレータ組での受験の方が数倍も楽だった。
「それじゃあ、今度から一緒に通えるね」
僕は喜色を隠しながら言った。
「ねえー。楽しみだなあ」
僕は前方に何もないことを確認してから、加奈を振り返った。
加奈の体は最近変わり始めていた。僕との身長差も前ほどではなくなったし、胸も膨らんできた。大きかった制服はピッタリになった。笑顔を向けられて、ふとした拍子に僕が胸を高鳴らせることも、増えてきた。
ずっと思ってきたことだが、加奈は美人だ。彼女の母親も美人だったし、血筋だろう。今までは短い髪やその子供っぽい性格から男子達に見向きもされなかったが、最近になってその魅力に気づく男が増えてきた気がする。なんとなく、男子がどんな感情をもって加奈を見るのか、わかるのだ。
「そういえば、なんで髪伸ばしてるの?」
「めんどくさいから。こうするとね、美容院のお金が浮くんだよ。その分で漫画買うんだー」
そんな風に嬉しそうに言うものだから、加奈に色恋沙汰はまだ早いらしい。美人とは磨くものだと思っている。加奈はまだ原石止まりなのだ。
「まあ、手入れは短い時よりも面倒なんだけど」
「長いと髪を洗うのも大変だよね」
「そうなの。それに、こっちの方がかわいくない?」
「そうだね。そう思うよ」
正直に返すと、加奈は嬉しそうに「えへへ」と笑った。
「よしくんの学校ってどうなの? 楽しい?」
「楽しいっていうか、どうだろう。確かに高いレベルでの授業は面白いけど……」
「そうじゃなくて」加奈はため息をついた。「ほら、食堂とか、購買とか、色々あるでしょ。あとは部活動とか、学校のふとした風景とか」
「食事関連が先なのか」僕は呆れつつも、「とは言っても、高校とは建物が違うからなあ。行ったことはあるけど、その雰囲気の詳しいところまではわからないよ」
中高一貫だからといって、中学生と高校生を一緒くたにされてもらっては困る。建物の距離以上に、そこには絶対的な壁が確かに存在するのだから。
「そうなのかあ……。モチベーションの足しにしたかったんだけどなあー」
加奈は呆けた調子でつぶやいた。それから直ぐに嬉しそうに、
「でもでも、制服は可愛いんだよ。勿論、見たことあるでしょ?」
「そりゃあね」
「可愛いよねえー。絶対あれを着て学校に通うんだあ」
うちの制服が憧れの的になっているという話は聞いたことがあるが、加奈もそれが目当てだというのが僕には意外だった。
「かなちゃんもそういうのに興味あるんだ」
「失礼な。あるに決まってるじゃん。女の子だったら一度は夢見るものでしょ。あれを着て、青春するんだあ!」
えいえいおー、なんて無邪気に口ずさむ加奈に、僕は少し意地悪をしたくなった。
「まあ、頑張ってよ。倍率凄いらしいけど」
「え」
背後の加奈の動きが止まった。
「よしくんよしくん」震えた声が耳に届く。「あのさ、コネとかない?」
「……」
僕は答えなかった。
高校に進学するための試験は、僕にとっては楽だった。中学三年生になっても学力に衰えはなかったし、そもそも加奈が入学するかもしれないのに、落としてなんかいられなかった。
後に僕は苦もなく合格するのだが、その時落ちた元同級生は全体の一割ほどだった。それも何かしらの理由で納得のいく一割だった。
受験期になると、加奈と休日や放課後に一緒に勉強する機会が増えていった。こういう時に近所に住む幼馴染というのは強みだ。加奈は本気で合格したいと思っていたし、僕もできる限りそれをアシストしたかった。
加奈は確かにその学力に磨きをかけていた。いつも子供のような仕草をしているのに、その頭には色々なものが詰まっていた。僕には及ばなかったが、クラスメイトの誰よりも明晰な頭脳を持っていた。
「ふー」
加奈はそういって机の上に身を投げた。
一月の中頃、僕たちは僕の部屋で一緒に勉強に励んでいた。
僕の通う学校は、一月の中旬に中学校からの進学組が、一月の下旬に別の中学校の受験組がそれぞれ試験を受ける。
僕はつい先日に試験があったのだが、先述通りの結果なので、加奈の勉強に付き合っていた。
「疲れたあー」
頬を机に押し付ける加奈は、小動物のようだった。
「お疲れ」僕は彼女の解き終わったばかりのテキストを見て、「これだけできれば、うちの高校も合格できるんじゃない?」
「そうかなあ。私の学校には私以上の人、結構いるんだけど」
「じゃあ彼ら全員入学できるんじゃない? 少なくとも、僕の元クラスメイトよりは全然良い成績だと思う」
「そっかー」加奈は、ふにゃ、と効果音が出るような柔和な笑顔を作った。「よしくんがそういってくれるなら、安心かな」
加奈は学業や部活動の成績に執着しなかった。誰々に勝ちたい、という風に考えたことは多分ないのだろう。それが誰とでも軋轢を生み出すことなく付き合うことのできる加奈の強みだ。
そんな加奈の幼馴染であることを嬉しく思う。
そういえば、と加奈はカバンから一枚のピンク色の封筒を取り出した。
「これ、なんだと思う?」
どこか誇らしげな顔だった。僕を猫だとでも勘違いしているのか、その封筒を僕の目の前で右に左に振っている。
「なに? 給食の代金でも入ってるの?」
「そんなもの持ってこないよ」
「僕にくれるの?」
「あげないよ」
「じゃあなんなの?」
「へっへっへー」
よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、加奈はその封筒を裏返す。そこには綺麗な字で、三島加奈さんへ、と書かれていた。
「え?」僕は思わず目を瞬いた。「なにそれ?」
「なにそれ、ってもう。よしくんたらとぼけちゃってえ」
加奈はにこにことしながら、
「ラブレターに決まってるじゃん」
ラブレター。
ラブレターってなんだっけ?
僕は聞き覚えのない単語にしばらく考えてしまった。ラブレターっていうのは……。えっと、恋文のことか。
「本当に?」
僕は加奈の手からその封筒を奪い、まじまじと眺めた。
確かによく見ると、その封筒は洒落たデザインで、差出人の名前もついている。真面目な人間が出したラブレターといったところか。
「もう、返してよ。私だってまだ読んでないんだから」
「いつもらったの?」
僕は自分の動揺が極力表に出ないように努めた。少しでも気持ちを緩めたら、変な声が出てきそうだった。
「今日だよ。仲良しのゆうちゃんが預かってきたの」
「へえ」
「ねえねえ、すごくない? ついに私の美貌に時代が追いついてきたんだよ。皆が私の魅力に気づき始めているんだ」
屈託なく笑ってからは照れたように、「黙ってないで、なんか言ってよ」と僕の背を軽く叩いた。
どうやら加奈は、『ラブレターをもらったこと』に喜んでいるようだった。誰が、はその口ぶりからは全く意識していないように感じられる。
それに少し安心して、加奈のことを見る。
加奈はもう平均以上の美しさを身につけていた。一日一日、会うたびに体から発せられる色気が濃くなっているように感じた。まるで羽化する前の幼虫のようだ。羽が開いた時、加奈は美しい相貌とともに飛び立つのだろう。
蛹のままの僕を置いて。
寂しいとか、悔しいとかじゃなく、まあ、それも確かにあるのだが、一番の感情は羨望だった。
「よしくんは? よしくんはラブレターとかもらったこと、あるの?」
僕はクラスでもなかなか人と話すことがない、浮いた人間だ。そんな人間が好かれるわけもなかった。
「ないよ」
「うっふっふ」大層嬉しそうだ。「よしくんに勝ったー。これでもう小さいとか子供だとか言わないでよね」
「そういう反応が子供だっていうのに……」
「なにい」
むっとする加奈を他所に、僕は封筒の封を切った。「あ」加奈の声を無視し、その中にある手紙に目を向ける。口を開いた。
「三島加奈さんへ。突然のお手紙、失礼します。覚えていますか? 僕は――」
「わー、わー! なんで音読するのさ!」
加奈に手紙をひったくられた。
音読しながらも一字一句逃さずに手紙を読んでいた僕は、奪い返されても別に慌てない。内容は奇を衒ったりすることない、一般的なラブレターだった。
「もう。そういうデリカシーのないところがねえ」
ぶつぶつと言いながら、加奈は手紙を封筒にしまって、カバンの中に入れてしまう。
「あれ? 読まないの?」
「読まないよ。だってよしくんがからかうんだもん」
「じゃあなんで出したの?」
「自慢したかったからですう」
べー、と舌を出す加奈は、いまだ少なからず腹を立てているのだろう。
「じゃあ、どっちもどっちじゃないか」
確かに人の手紙を勝手に見た僕は悪いが、自慢するためにわざわざ持ってきた加奈も、それなりに悪いんじゃないか。
天真爛漫な加奈と直に話していて、僕もようやく動揺から覚め、落ち着いてきた。
「で?」
「で?」
「繰り返さなくていいよ。返事はどうするの?」
「うーん」加奈は唸った。「即答はしないかなあ。この人とはあんまり話したことがないんだよね。クラスも一緒になったことがないし。それに付き合うっていうのがどういうことかわからないし」
「落とした文房具を一緒に探してあげたんだって?」
「うん。だってすっごい悲しそうな顔で廊下をうろうろしてたんだもん。無視はできないよ」そこまで言うと、加奈は「あれ」と首を捻った。「でもよしくんがなんで知って……って、ああ!」
加奈は言いかけて、声を上げた。
「さっきの手紙、全部読んでたの?」
「僕からすれば、朝飯前ですよ」
「もー! よしくんのばかあ!」
加奈が飛びかかってきて、僕の頬を引っ張る。僕はほとんどされるがままだった。
そこに、
「あらあら。相変わらず仲がいいのね」
優樹さんが部屋の扉を開けて入ってきた。手にしたお盆にはお菓子とジュースが置かれている。
「ゆうひひゃあ」
加奈に頬を引っ張られているので、情けない声しか出なかった。
優樹さんはくすりと笑い、お盆を机の上に置く。そこにある問題集を見て、にっこりと微笑んだ。
「お菓子とか、ここに置いておくから、暴れてこぼさないでよ」
加奈も僕もばつの悪い顔をして、お互いから離れた。
優樹さんは笑顔のまま、
「それで、何をそんなに楽しそうに話していたの?」
「優樹さん」
加奈が弾かれたように立ち上がった。
「よしくんが私のもらったラブレターを勝手に見たの」
「かなちゃんが自慢したいとか言うからじゃん」
「へえ」
優樹さんは一度驚いた顔をして、それから笑った。
「加奈ちゃん、かわいいもんね。そりゃ男の子がほうっておかないよね」
「本当に? 私、かわいいのかな?」
「ええ。最近どんどん大人っぽくなってきてる。きっと高校生になる頃には、十人が十人振り向くような、美人さんになってるよ」
加奈は嬉しそうに、「本当?」とはしゃいでいる。
「本当よ。だからね、佳人くんもうかうかしていられなくなっちゃう」
優樹さんはにっこりと微笑んで、僕のことを見た。
僕はなんとなくそのことがわかっていたから、反論しなかった。それに、加奈が美人だというのも事実だ。
「それじゃあ、勉強頑張ってね」
手を振り、優樹さんは去っていった。
その背を見送り、加奈はため息をついた。
「優樹さんって、美人だよね」
「そうだね」
「私もいつかあんな風に素敵な大人になれるかな」
加奈は優樹さんを同じ女性として尊敬しているようだった。優樹さんを見つめるその顔は、いつも羨望の色が濃く映っている。
「なれると思うよ」
僕は正直に返した。
二次関数的に伸び上がる加奈の魅力は、恐らく高校生になったとき、美人の領域に達することになるだろう。
「もー」
加奈は少し朱に染まった顔でこちらを振り返った。
「よしくんはたまにそうやって恥ずかしいことを言うんだから」
「だって真実だし」
「そっか」
加奈は照れたように笑ってから、机の上のジュースを口に運んだ。
僕もそれに倣ってジュースを飲んだ。果汁100%のオレンジジュースは、喉にいがいがした感覚を残して僕の体を流れていった。




