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4話









 ――人形のように。


 父の話は終わったらしく、機械を再びいじり始めている。今度は先程行ったのと逆の作業だ。

 機械から光が消え、電源が落ちる。


 アキちゃんはすぐには目を覚まさなかった。


「扉を開けろ」と父に命令されたので言われた通りにすると、扉の前には優樹さんが立っていた。


「終わったんですか?」


 朗らかな笑顔とともに、優樹さんが言う。

 父は頷き、「後処理は頼んでいいか?」


「はい。わかりました」


 父は言い残すと、優樹さんの横を通り、部屋から出て行った。


 何も支持を受けなかった僕は、とりあえず優樹さんを観察する。

 優樹さんはアキちゃんの傍らに立ち、そのままアキちゃんが目を覚ますのを待っていた。


「ん……」


 しばらくすると、アキちゃんは身じろぎを始める。

 目を覚まして、起き上がる。寝起きの子供のようにしばらく呆然としていたが、はっとした表情をして、口元のよだれの跡を拭った。


「気分はどうですか?」


 優樹さんが近づいていき、手にしたお盆の上から、水の入ったコップを手渡した。


「え、っと……」


 アキちゃんはおずおずとした仕草で、けれどしっかりとコップを受け取った。

 僕はすでに、彼女が以前の彼女ではないことを悟った。


「……私」アキちゃんはコップを優樹さんに返し、「どうしてこんなところにいるんでしたっけ?」

「覚えていない?」

「覚えている……けど、変な感じです。私はなんで襲われた、なんて勘違いをしていたんでしょう? 私はあの時、逃げ切れたのに……」


 不思議そうに首をひねるアキちゃんを見て、僕は手術の成功を確信した。

 アキちゃんの記憶は、嫌悪していた部分だけ綺麗に塗りつぶされていた。かといって、今までの自分との整合が取れていないわけではない。あくまで、『今まで自分は勘違いをしていた』、とそういう風な認識になっただけなのだ。


 優樹さんは慈愛に満ちた表情で、アキちゃんの頭を撫でた。


「少し混乱していただけよ。だけど、もう大丈夫。先生が治してくださったからね」


 されるがままのアキちゃんは小さく頷いた。


 それから優樹さんに促され、部屋の外に出て行った。その際に僕と目があったけれど、先程みたいな反応はなく、ただ不思議そうに眉根を寄せられただけだった。

 優樹さんもアキちゃんに連れ添って出ていく。


 一人残された僕は、部屋の中心にそびえる機械から目を話すことができなかった。


 子供の頃、いつも思っていた。


 どうして他人はいつも思い通りにならないのだろうか、と。


 人形は僕がいじったそのとおりに動くというのに。

 人形ですらできることが、その親である人間にはできないのだ。


 僕はそれが滑稽に思えた。


 同時に、こうも思った。

 他人が全員人形になって、世界が僕の玩具箱になればいいのに――なんて。くだらない妄想だ。


 だけど、そんな下らない妄想もこの機械が実現してくれる。全員ここに座らせてしまえばいい。全員、僕を崇めるような記憶を植え付けてしまえばいい。


 そうすれば。

 誰も僕を傷つけない。

 そこにあるのは理想郷だ。


 と、そこまで考えて、僕は首を横に振った。

 何を考えているんだ。そんなこと無理な話だ。誰にも見つからないで、他人をここに一人一人呼び出して、記憶を改竄する――そんなことができるものか。これではアキちゃんを襲った下衆な人間と同じではないか。


 妄想は妄想だから、野望は野望だから、存在することができる。そこに手を伸ばしてあまつさえ掴もうとするから、人間は地に落ちる。


 僕は部屋から出た。

 名残惜しそうに部屋の機械を見つめてしまうのは、意識のことなのか、無意識のことなのだろうか。

 この時の僕はわかるはずもなかった。





「記憶を消すことはできない」


 夕食時、優樹さんの作ってくれた食事に手をつけながら、僕はそれとなくあの機械のことを父に尋ねた。

 父は特に不審に思うことなく答えてくれた。


「人間は行動の大半を無意識に委ねている。よって、人間の記憶の多くは無意識に蓄積される。意識はあくまで意識だった行動のために存在しているに過ぎない」


 僕は黙って聞いていた。


「例えばここで、おまえは実は犬だったのだ、と言ったとしよう。おまえは犬になるか? ならんだろう? だが、一瞬は意識的に考えたはずだ。『僕は犬なのか? いや、こうして両手を使って食事をし、二本の足で大地を踏みしめ、同種の言葉を理解している。よって僕は犬ではない』といった風に。無意識で撥ね付けるにしては、情報量が多いからな」

「だから、意識を失った人間は容易に言うことを信じるようになるの? 催眠術みたいに?」

「そうだ。あまりそういう下等なものと一緒にされたくはないがな。こっちはそれを任意に引き起こすことができる」

「ってことは、記憶の思いのままに操れるってことだね」

「勘違いするな。記憶を消すことはできない。そんなことはなかった、と言い切ることはできない。できるのは、ダメージの少ない方向に移動させることだ。例えば、それは夢だと教えたり、別のことをしていたと思い込ませたり。そうでなければ――」

「そうでなければ?」


 父の目がこちらに向いた。久しぶりだったので、身が竦む。

 僕はテーブルの上から幾分か身を乗り出していた。


「おい」

「ごめんなさい」


 僕はすぐに謝った。

 父は食事中のマナーには厳格だ。いや、食事と言わずあらゆることで、僕は父に教養性を叩き込まれた。間違えたらすぐに謝罪をする、というのもその成果だろう。


 父は先程『おまえは犬だ』と言った。父はそれをもののたとえで使ったようだが、僕は本気で訊かれていたら、首をすぐに横には振れなかっただろう。それは意識、無意識の話ではなく、こんな風に調教された自分が、犬より上だとは思えなかったからだ。


 父は食事を再開しながら、


「とにかく、これは画期的な技術だ。おまえも私のあとを継ぐ身なのだから、今のうちにその技術の一端でも身につけるに越したことはないだろう」

「はい」


 食事を終えた僕は、食器を台所にいる優樹さんの元に届けた。

 優樹さんは笑顔で受け取って、そのままそれらを洗い始める。


 僕はその横顔を見つめた。

 優樹さんが僕の家に来てから、もう六年が経つ。最初は父が院長である君嶋脳外科の看護師としてここに通っていたのだが、何をきっかけにしてかは知らないが、こうして我が家のお手伝いをしてくれるようになった。


 優樹さんはまだ二十代後半で、若さも保たれてはいるが、亡くなった母によく似ていた。

 僕は母の顔を覚えてはいない。十年前、僕が物心着く前に亡くなってしまった。けれど部屋に飾ってある母の笑顔に、優樹さんの笑顔はよく似ていた。


「今日は何を話していたの?」僕がいつまでも台所から出て行かないので、優樹さんは口を開いた。「いつもより、よく話していたじゃない?」

「なんでもないよ。ただ、今日の手術のことで」

「ふうん。後継を嫌がってるかと思えば、結構乗り気じゃないの。学校の成績も良いみたいだし。お手伝いとして、鼻が高いわ」


 優樹さんはコップを水ですすいだ。


「別に、中学レベルじゃつまずかないよ」

「佳人くんの通っている中学校は高レベルだって聞いたけど?」

「高レベルの中学レベルじゃあ、つまずかないんだよ」

「かわいくないなあ」


 言いながら、優樹さんは水に濡れた右手で僕の頭を撫でてくれる。

 なんとなく気分が良くなった僕は、気になっていることを聞いてみた。


「優樹さんはさあ、あの手術をどう思う?」

「あの手術、って今日の?」

「うん」

「うーん、とねえ」


 すべての食器を水で洗い終えた優樹さんは、棚から布巾を取り出しながら首を捻った。


「雇われてる身からしたら、あんまり大きな声でそういうことは言えないんだけど、私は良い手術だと思うよ」

「でも、何か人間倫理に反していないかなあ。記憶をいじるってことは、人間を変えてしまうってことだし」

「うーん」優樹さんは唸って、「まあ、佳人くんの言うことわかるけど、私は人権とかよりも大切なものがあると思うな」


 僕が首を捻ると、優樹さんは笑った。僕の好きな笑顔だった。


「例えば、今日のアキちゃん。彼女、一年もあんな風に人間を拒絶していた。だけど、帰るときには嘘みたいににこにこしながら帰っていったの。見てたでしょ?」


 確かに僕はアキちゃんが家族に連れられて帰って行くのを見た。僕や他の人間に怯えていた姿はそこにはなく、家族の間にも一切の悲壮感はなくって、ただ笑顔のみが広がっていた。


「あの笑顔を見たら、私はこの手術が間違っていたとは思えないの。確かに記憶を変えてしまうのはあまりよくないことで、だから公にすることができない手術だけど、人を幸せにすることができる」


 今度は僕が唸る番だった。

 僕を止めているのは、その倫理観だった。確かにアキちゃんは笑っていたが、それは本当にアキちゃんが笑っていたのだろうか。記憶を替えられた、別の人格が笑っていただけではないのだろうか。


 逆に言えば、僕を止めているのは常識、それだけだったとも言えた。


「大丈夫、佳人くんはお父さんそっくりだから。明晰な頭脳できっとすぐに答えを出せちゃうよ」


 父に似ている――。

 一番言われたくない言葉だった。


 あんな、息子を息子とも思っていないような人間に似たくもなかった。

 優樹さんとは長い付き合いだ。僕の考えていることなど、お見通しだっただろう。笑顔を作って、僕の頭を撫でた。


「まあ、佳人くんは若いんだから、ゆっくり考えたらいいと思うよ」


 悩んでいる僕に、優樹さんはそういって笑った。父の食事皿を取りに、台所から出て行ってしまう。


 僕は唸ったまま、自分の部屋に戻った。


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