3話
「い、」アキちゃんは動揺したようだった。「いや……」震える声が僕の耳にも届く。
機械はそんなアキちゃんと僕の心配を他所に、ぐるぐると回転し始める。中心を軸にして、綺麗な円運動。発される黄色い閃光。
しばらくすると、異変に気がついた。
アキちゃんの震えが止まっている。更には全身が弛緩したように、椅子に体重の全てを預けている。あれほどまでに持っていた警戒心の欠片もそこには存在していない。
気絶でもしたのだろうか。
「さて」
アキちゃんの手を触り、反応がないことを確認すると、父は厳かに口を開いた。いつも僕と接する時に見せる、低い声だ。
「これから手術をする。おまえにはその説明をする」
「……患者の目の前で?」
「見てのとおり、気を失っている。その心配はない」
僕は思わず笑ってしまいそうになる。一体世界のどこに気絶させた患者の目の前で、手術の説明をしだす医者がいるだろう。
会話をしている間にも、機械は回転を続けている。機械に覆われてアキちゃんの顔色は窺い知れないが、隙間から唯一見えるその口は、弛緩しきったように半開きになっていた。
父はお構いなしに話し始めた。
「この患者は心に深いトラウマを負っている。それが医者にかかる理由だ。先日、夕闇の濃い時間、学校の帰りに男達に連れられ、性的暴行を受けたようだ。それ以来、人間、特に男に対して多大な恐怖心を抱くようになってしまったようだ」
僕は息を飲んだ。
その苦しみ如何は、男であり、そんな経験もない僕には想像することすら難しい。しかし、アキちゃんが僕を見て極端に怯えていたのは事実だ。僕という男が、ひたすらに怖かったのだ。
「学校生活すら満足に送れないようだ。自分の部屋で引きこもり、家族ともコミュニケーションを取るのが難しいらしい」
「それは……」
何か言おうかと思ったが、浮かんだ言葉のどれもが同情に溢れているものだったため、口を閉じた。
父はそんな僕の様子に、鼻を鳴らした。
「そうだ。医者に同情は必要ない」
医者は患者の境遇に同情するのではなく、その境遇から救ってあげるのが仕事だ。だとしたら、この場合の治療とは、人間不信のトラウマを治すということになる。
「でも、おかしいんじゃないの?」
「何がだ?」
「トラウマだったら、心の問題だ。ということは、脳外科のうちではなくて、心療内科の分野じゃないの?」
父は一度頷き、
「先日と言ったが、この少女は一年もの間、この調子だ」
「……」
ということは。
「この仕事は、心療内科の人間が投げた案件だ。投げた、というのは語弊があるか。一年間、治せず、緩和すらできなかったトラウマだ」
「一年間じゃあ、短すぎるんじゃないの? もっと長い期間で治すものじゃあ……」
心療の分野はシビアな世界だ。モニターを見て治った治らないが判断できるわけではない。患者がダメだと言えばダメだし、大丈夫だと言ってもダメなことは多い。
父は頷きもせずに、だが、と言った。
「患者の高校生活は三年間しかない。一年間はそれでも長すぎる」
「だとしても。そのお鉢がうちに回ってくるのはおかしいんじゃないの?」
心療と脳外科ではまるで畑が違う。
父はそんな僕の質問には答えないで、機械を振り返った。
「この機械、どのような処置が施せると思う?」
こんな機械を見るのは初めてだった。予想がつくはずもない。
僕が答えないでいると、父は、冷たい声で言った。
「直接脳に処置を加えることができる」
「え?」
「もっと正確に言うのならば、脳に刻まれた情報に手を加えることができる。言っている意味がわかるか?」
僕はわかった。わかったから、何も言えなかった。
脳の器官をいじるわけもでもなく、脳に直接介入することができる。脳に蓄積されたデータの方に干渉できる。
「つまり、人間の記憶を操作することができる」
ぞくり、と寒気に襲われた。
全身に鳥肌が立つ。
記憶というのは、その人間そのものだ。人間はあらゆる経験の記憶に沿って、行動を決定していく。周りの環境の記憶によって、人格が形成されていく。それぞれの記憶が、彼ら自身なのだ。
記憶とは過去だが、未来を決めるのはそんな過去だ。
過去があるから、未来がある。
例えば。
それをいじくることができるのならば。
――。
――――。
「とは言っても、これは世間的にはいまだ実験段階の機械とされている。しかし、開発者はこれが完成形だと言う。どういうことかわかるか?」
「……」
僕は首を横に振った。
「公にすることができないのだ。危険性が高すぎる。例えばこれが一般の人間に渡るようなことがあれば、何が起こるかわからない。大犯罪すら生ぬるい事態が起こりうるかもしれない。だから、この機械は実質存在しないことになっている」
「じゃあ、なんでここにあるの?」
「これは危険だが、それだけ多くの人間を救うことができる。過去の傷によって前に進むことができなくなった人間に、道を示すことができる。私の人間性が認められたからこそ、国に認可されたのだ」
握った手の平に、うっすらと汗が滲んでいた。僕は自分が何故か激しく高揚していることに気づいた。
理由は明確にはわからない。ただ、手にすることができないと諦めていたものが、目の前にあるような気がした。
父は僕がただ驚愕しているだけだと思っているようで、僕に向けていた体を機械に向け直した。
「今からの手術とは、少女の記憶を改竄、トラウマを治療するものだ。治療法自体は難しくない」
言いながら、父は僕に見えるように機械のボタンを押していく。「機械の手順さえ覚えていれば、あとは言語伝達力の問題だ」
父はそれからも多くのボタンを触り、
「そして最後にこのボタンを押す。そうすると、患者の記憶に介入することができる。そうして問題の記憶を改竄する」
僕は父の動きに目を凝らした。一切の動きを漏らさないように努めた。
「何か質問は?」
その機械の存在によって、手術前に考えていた疑問の多くは氷解した。僕は「ないよ」と答えた。
「そうか」
父はそんな僕をいつもの、路傍の石を見るような目で見つめ、
「それと、このボタンを押してからは口を開くな。患者に悪影響が出かねない」
僕は殊勝に頷いた。
父はそれを確認すると、最後のボタンを押した。
途端、ドーナツ型の機械が発光する色を変えた。黄色から、青色へと。
アキちゃんの体がびくんと跳ねる。一度、痙攣したかと思うと、静かになった。
「アキちゃん、聞こえるかい?」
父は医者の顔になると、朗らかな声で尋ねた。
アキちゃんには意識がないはずだ。だから先程の僕と父の、一歩間違えれば危険な会話に反応を示さなかった。
しかし、アキちゃんは今回、父の言葉に反応した。その小さな口がゆっくりと開かれる。
「はい……」
感情の一切こもっていない声色だった。怖さも、怯えも、怒りも、憎しみも、喜びも、何もない無色な声が零れ落ちる。
「そうかい」父はそれを確認すると、「君は自分が誰だかわかっているかい?」
「私はあ……、冬野アキ」
「そうだ。あっているよ。では、生年月日は?」
アキちゃんは年号と月日を口にした。合っているらしく、父は頷く。
「では、そんな君が今、一番気にしていることは何かな?」
「私があ……気にしているのは……」
そこでアキちゃんの弛緩しきった半開きの口から、涎が一筋落ちて顎を伝っていった。人間の粘液は、若干の粘り気を見せて、床に落ちる。
僕は言いようのない身の震えを感じた。
アキちゃんの口は言葉を紡ぐ。
「襲われたこと……」
「襲われた? 誰にだい?」
「男の人……四人いた……私は……汚された」
「それが君の一番気にしていることかい?」
「……そう」
アキちゃんは父の質問に淡々と答えていた。その口ぶりはまるで他人のことを語るようだ。答えているのは、アキちゃん自身ではないように思える。
僕の位置では機械に阻害されてアキちゃんの表情を窺い知ることはできない。けれど、その茫然自失とした声から判断するに、赤の他人が見てはいけないものになっているだろう。
「そうか。それは辛かったねえ……」
父は一度頷いてから、明日の天気でも話すような気軽さで、
「――でも、それは勘違いなんだ」
「え……」
アキちゃんから吐息が漏れる。
僕も思わずアキちゃん同様の声をあげそうになった。
「君は男の人たちなんかに襲われてはいない。君の体は汚されてなんかいない」
アキちゃんは黙って聞いている。
「君はあの時、自分の力で立って逃げたんだよ」
「……」
「怖い男の人たちに会って、怖くなってしまったんだね。怖くて、そんな風に考えてしまったんだ。だけど、実際は逃げることができたんだ。だから、君は襲われてなんかない。汚されてなんかいないんだ」
父の言葉は毒のようだと思った。意識のない彼女の脳を侵す、毒だ。
でも、僕はその行動に嫌悪感を抱かなかった。むしろ、引きつった顔で笑っている自分に気づいたくらいだった。
「そう……」
アキちゃんはあくまで無機質な声で答える。
「そうなんだ。だからその点において、君の気にすることは何もない」
「はい……」
アキちゃんは頷いた。新しい事実を受け入れていた。
「さて、次に一番気にしていることは?」
「……隣の席の山口君のこと」
「そうか。じゃあ大丈夫だね」
父は機械の一つのスイッチを押した。
すると、機械の発する色が青から黄色に戻った。
父はこちらに振り返る。
「見ていたか?」
「勿論だよ」
僕は湧き上がる興奮を隠し、答えた。
父は機械に手を置きながら、話し始める。
「人間には意識と無意識が存在している。考えている時とそうでない時、といった方がわかりやすいか。人間は起きている間、常に意識していると考えているが、それは違う。人間は圧倒的に無意識である時間の方が長い。例えば今、おまえは私の話を意識して聞いているか?」
医者にそぐわぬ哲学的な話だな、と思いつつも、
「どういうこと? 聞こうとは思っているよ」
「違う。『僕は父の話を聞くぞ』と実際に思って聞いているか、ということだ」
「そんなこと、いちいち思ってないけど」
「それではおまえは私の話を意識してはいない、ということになるな」
僕は呆れてため息をつきたくなった。
「じゃあ、僕は父さんの話を聞いていないってことになるの? でも、一日経っても忘れる自信はないよ」
「それが、無意識というものだ」
僕は自分の体が強ばったのを感じた。
「意識的には聞かなくても、無意識では聞いている。だからおまえは私の言うこと、言ったことを鮮明に思い出すことができるだろう。もう一つ例を挙げるか。おまえは食事をするときにいちいち、右手をあげて箸を操ってこの米を掴み――なんて考えないだろう。つまり、これも無意識での行動というわけだ」
「結局、何が言いたいの?」
「人間はほとんどの行動を無意識で行っている。つまりは無意識という、自分の意識の範囲外のものによって、動いているというわけだ」
一理ある、というのがこの父の論説に対する僕の意見だ。というのも、反論する材料がないからだ。僕は歩くときにいちいち『右足を出して、左足を出して』なんて考えたことはない。それが無意識が存在するために為せる技だと言うのなら、父の言うことももっともだ。
「全てを意識すると人間の脳では処理をすることはできない。そこまで優秀ではないのだ。だから人間には無意識というものがあり、意識する必要のない情報を代わりに処理してくれている。
ここで、この少女について考えてみる」
話が具体性を帯びてきた。僕は集中を強くする。
「この少女は意識に関わらず、外界を拒絶していた。自分がどう考えようと、どう思い込もうと、意識の外の――無意識がそれを拒むのだ。だからカウンセリングで治せなかった。人間の行動のほとんどを管理している無意識が拒むことを、意識的に治すことなんてできるはずがない」
だったら、と父は言う。
「無意識に直接教えてやればいい。人間の無意識に直接言葉を投げかけ、その記憶を改ざんしてしまえばいい」
「つまり、その機械は……」
「そうだ。この機械は、人間の意識を剥奪するが、全てを剥奪することはない。意識の部分だけを眠らせ、無意識の部分は起こしたままにすることができる。自分ですらどうにもできない、深層心理に働きかけることができるのだ」
僕はイメージした。
例えば、人から胡散臭い話を聞いたとき、人間はどうするか。“意識して”その言葉の意味を考える。そして過去の記憶や目の前の情報を組み合わせて、真偽を判断する。そういえば、ニュースで詐欺の話を聞いたな、この話も似ている、だからこれは詐欺に違いないといった具合に。
だが、その意識がなかった場合、どうなるのか。それは、防御する壁がないのと同じことだ。判断する意識がなければ、その情報はそのまま吟味されずに脳に染み込んでいく。簡単に言えば、全てを信じて記憶するということだ。
つまりこの機械は記憶を――人間を変えることができるのだ。
自分の思いのままに。
まるで、そう。
――人形のように。