1話
僕は小さい頃から、一人でいることが多かった。人と多く関わろうとはしなかった。そのためか、自分でもわかるくらいにひねくれた人間に育ったものだと思う。
僕は成長して、地元の幼稚園、小学校を経て、今は中高一貫の私立中学校に通っていた。
あの鬱屈した幼少期から何かが変わったかと言えば、何も変わってはいなかった。僕は相も変わらず表情や所作に影を落とすような生き方をしている。
問題なのは、それそのものではなく、変えようとも思っていない自分自身の思考なのだろう。
「人形遊びはもういいのか?」
とある朝のテーブルにつくと、父がこちらに目を向けずに尋ねてきた。
父は僕が幼少の頃、滅多に家から出なかったことを嘆いていた。外で友人たちと遊戯に興じるわけでもなく、家に篭って人形とばかり会話をしていた僕を、どこか汚いものでも見るように見下げたこともあった。ことあるごとに人形遊びはやめろと口を酸っぱくして言われた。今だって時々、思い出したかのように訊いてくる。
「もう中学生だよ。そんなことしないさ」
「まだ中学生なんだ。そんなことしないんだったら、何故部屋の人形を捨てないんだ?」
父は鼻を鳴らしてご飯を口に運ぶ。
僕はむっとしながらも、父に倣って食事に手をつける。食事はいつもと同じだった。いつもと同じように、美味しかった。けれど砂を齧っているように無味乾燥に感じるのは、確実に仏頂面の父のせいだ。
「おまえはもう中学生だ」父は繰り返す。「正しいこと、やるべきことがわかってくる頃だろう。幼少にいつまでも引きずられるな」
僕はそれに不承不承ながら頷き、話を変えるように、台所で食器を洗っている我が家のお手伝いの優樹さんへ笑顔を向けた。
「今日もおいしいです」
と声をかける。優樹さんはいつものように笑ってくれた。
食卓の上で顔を付き合わせる家族二人の間に親子らしい会話はなかった。いつだってそうだ。父が僕に興味を持つことなんてない。せいぜい医院の後継にふさわしい人間にしようと目を光らせているだけだ。
人形遊びだって、対外的に格好がつかないから禁じようとしているに過ぎない。いい歳の息子が、未だに世間一般では少女の趣味と勘違いされている人形遊びに現を抜かしていることが恥ずかしいのだ。息子より世間体の方が大切なのだ。
父は僕のことを息子とは思っていない。
僕も父のことを家族だと思ったことはない。
僕は早々に食事を終えると、テーブルの横に置いたカバンを手に取り、家を出た。
外に出て振り返ると、そこには一般的な二階建ての一軒家が建っている。そしてその隣には『君嶋医院』と書かれた看板が置かれている、大きな建物が隣接している。
医者の息子――それが僕の立ち位置だ。
僕は地元の公立小学校を卒業してから、ほとんど無理矢理に公立の中学校ではなく勉学で有名な私立学校に入学させられた。それも全て、父が思う医者の後継を育てるためだ。僕の意志はまるで反映されていない。
僕は父の操り人形だった。
自分の自転車に跨り、学校へ向けて出発した。
一年間も通えば、最初は汗水たらしていた片道一時間の自転車通学も苦ではなくなってくる。人間嫌いの僕としてはむしろ何も考えなくていいこの時間が、一日の中で最も至福の時であるともいえた。
眩しい日光に目を細めながら、しばらくこいで行くと、
「あ、よしくーん」
と横から声をかけられた。
ちょうど渡ろうとしていた信号が赤に変わったので、僕はペダルにかけていた足を地面につけた。
声のした方に視線を投げると、歩道の少し先のところから、一人の少女が走ってくるのが見えた。
「かなちゃん」
僕はそう言って、手を振った。
いまだ幼さの抜けない顔と体型の少女は、三島加奈といった。僕とは同い年で、今は中学生。付き合いは幼稚園の時からで、その頃からずっと変わらない笑顔で僕と接してくれる。
唯一といってもいい、僕が心を許す人間だ。
加奈はぱたぱたと慌ただしく走って僕の前までやってくると、目の前で息を大きく吐いた。サイズの合っていない大きな制服は、地元の公立中学校のものだった。
「やったー」
息を整えると、加奈はガッツポーズを取った。いまだ色恋沙汰に疎い彼女は、父親に連れられた床屋で切ったような、色気のない短く黒い髪を風に靡かせている。その風貌は、無邪気なポーズも相まって男の子に見えた。
「今日はよしくんに会えたから、運がいい日だ」
にっこりと快活に笑う。
眩しくて、僕は目を逸らした。
「運がいいって……僕にそんな効能はないよ」
「そんなことないよ。あのね」舌足らずな声で、目を輝かせながら、「朝、よしくんに会うとね、絶対いいことがあるんだよ。この前は給食にカレーが出たし、その前はかけっこで一番になったんだ」
「それはいいことなの?」
僕に言わせれば、日常のほんの些細なことに過ぎない。
それでも加奈はぶんぶんと頭を横に振った。水を弾く犬みたいだな、と思った。
「いいことなの。きっとよしくんに会えなかったら、こんなことにはなってないよ。よしくんはあたしのラッキーアイテムなんだ」
「ふーん。でも、ラッキーアイテムって物じゃないの?」
「そうか。うーん、と、じゃあラッキーパーソンかな。あ、パーソンっていうのは人って意味で、この前習ったんだよ」
得意げに頬を上気させている。
「知ってるよ」
信号が青になった。
地元の公立中学校は、僕の通う私立中学校の途中にある。つまり、ここからしばらく(とはいっても十分くらい)、加奈と道を共にすることになる。
僕は自転車の荷台を叩いた。
「今日も後ろ、乗ってく?」
「うん!」
加奈はあたりをキョロキョロと見回した後、元気よく答えた。
中学校の始まった頃は校則違反だと拒否をしていた加奈だったが、こっちの方が自分の足で歩くよりも楽だと知ると、変わり身は早かった。今では周りの確認もそこそこに、嬉々として乗りかかってくる。
加奈を乗せると、僕はペダルを漕ぎ始めた。
ペダルに込める力を大きくする必要はあったが、それは苦になるようなものではなかった。
「かなちゃんさあ」
「うん?」
「ちゃんとご飯食べてる?」
加奈は僕の周りの同年代の子に比べても小柄だった。この前、クラスの中で最も小さいことで友人にからかわれたのだと、口を尖らせて愚痴っていた。
「失礼な」
こつん、と背中に受ける小さな衝撃は、拳骨のつもりらしい。
「ちゃんと食べてるよ。小さいのによく食べるのね、って先生に褒められるんだから」
「それは褒められてはいないんじゃ……」
「よしくんは先に大きくなったからって威張らないでよねー」
背中から加奈の怒気が伝わってくる。微笑ましいものだ。
僕は中学校に入って一年間で大きく成長した。身長はクラスで二番目に大きい。昔は差がなかった加奈とは、すでに頭一つ分以上の差ができていた。
でも、僕が自分で成長したと感じるのは、体格よりも精神面だった。中学生というのは何となく、自分の立場とか境遇とかが理解できてくる年頃だ。小さい頃はどこまでも続いていくまっさらなものだと思っていた世界が、ただの箱庭だと知るのはこの時期なのだ。
加奈には言わないが、きっと僕は加奈より早く大人になったのだ。この世について思いを馳せるようになれば、それは立派な大人だと思う。自分の身の回りのことで、――それこそ給食や体育の内容で――一喜一憂している加奈は、僕に言わせればまだまだ子供だ。
加奈は刺のあった口調を一変させた。
「よしくんは毎日ご飯いっぱい食べてるの?」
「まあ、男子中学生の平均くらいには」
「それってどんなん?」
「うーん。ご飯大盛りをぱくりって感じ」
「それはすごいね」加奈はため息をついた。「そっかあ。でも負けてるとも思わないんだけどなあ。なんで私は小さいんだろうな」
そのままでもいいよ、なんて言うときっと加奈は怒るのだろう。だけど僕は、加奈はこのままでいいと心から思っていた。
肉体面は勿論、精神面でも。
僕は一度息をついてから、
「大丈夫だよ。そのうち、大きくなるよ」
「そうかな?」
加奈は納得していないようだったが、頷いていた。
それからいつものようにテレビの内容だとか、学校の様子だとか、他愛ない会話をしていると、加奈の通う公立中学校が見えてきた。
「ここでいいよ」
加奈に言われ、僕は自転車を止めた。
中学校の正門から住宅三つ分くらい離れた駐車場で、いつものように加奈を下ろす。加奈が登校する時間は早いため、周りに他の人間はあまり見られない。それでも学校の近くで降ろさないのは、自転車通学を許されていない加奈が、先生に見つかると怒られてしまうからだ。
「いつもいつもありがとね」
加奈と僕が通学中に出会うのは、一週間のうちの半分くらいだった。今日が金曜日の今週は、五分の二の確率だった。約束をしていないのにこの遭遇率というのは、高いのか低いのかわからない。
「別にいいよ。僕も学校に行く途中だし」
「そりゃ良かった」
「うん。おまけ。だから気にしないでいいよ。僕はこの時間、嫌いじゃないから」
加奈は笑って、「私もー」
「あーあ」そこで加奈は残念そうに足元の石を蹴った。「よしくんが一緒の中学校だったらよかったのになあ」
僕はそれに答えなかった。
本心は、一緒の中学校に行きたかった。でも、地元の公立中学校はあまり評判がよくない。生徒の素行の面でも、単純に学力の面でも、他の中学校に劣っているのだ。父がそんなところへの進学を許すわけがなかった。
「でも、そうしたら自転車で送ってあげられないよ」
だから、これは強がりだった。
「そうかー。それは嫌かも」
空を仰ぐ加奈の心境はうかがい知れない。本当はどう思っているのか、昔は手に取るようにわかったんだけど。例えば下を向くのはお腹が空いた証だとか。
でも、それはきっと成長の兆しなのだ。
「それじゃ、僕は行くよ」
ペダルに足をかける。
「うん。またねー」
加奈は満面の笑みで、手を振ってくれた。
僕は自分の学校に向けて自転車を漕いでいく。
僕は加奈の登校時間に合わせて家を出ているというのに、加奈との遭遇が一週間の半分以下だというのは、やっぱり少ない気がした。