表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/15

11話











「土曜日は遊べないよ」


 金曜日の帰り道、明日どこかに行こうと誘う加奈の申し出を僕は断った。


「えー、なんで?」

「用事があってさ」

「そうなの? それならしょうがないか」


 加奈の誘いを断ったのは、これが初めてだった。そう考えると、僕は加奈という人形と遊ぶことが、本当に好きなのだろう。加奈と一緒にいる日々が好きなのだろう。それは加奈が好きということだ。


「でも、日曜日は空いてるから、一緒にどこか行こうか」

「え!」


 加奈は露骨に驚いていた。それから、ふにゃと蕩けた笑みを浮かべる。


「よしくんから誘ってくれるなんて、すごく新鮮だなあ」


 意識したことはないけど、そういえばそうだった。


「嫌だった?」


 加奈は「違う違う」と首を横に振った。


「嬉しいんだ。よしくん、自分から誘ってくれないし」

「そうだったね。でも、僕はかなちゃんのことが好きだから」


 加奈の顔が面白いように真っ赤になった。


「嬉しいなあ。そんなこと普段のよしくんは言ってくれないもん」

「じゃあ改めて言うよ。僕はかなちゃんのことが小さい頃からずっと好きだった。それは今も変わらない。かなちゃんは僕の唯一なんだ」

「ど、どうしたの? あーもう!」真っ赤のままの加奈は繋いだ手をぶんぶんと振っていた。「私も大好きなの!」

「何、ムキになってるのさ」

「だってよしくんが変なこと言うから」

「じゃあもう言わない方がいい?」

「嫌。でも時々でいい。たまにこういう風に確認してくれるだけで、私は満足だから」


 加奈の伏せた顔に笑みが浮かんでいるのを見て、僕も笑った。





 土曜日、駅前の喫茶店に行くと、そこにはすでにアキちゃんの姿があった。窓際の席で、読書をして待っていた。


「こんにちは」


 そう言って、向かいの席に座る。アキちゃんからの返答はなかった。聞こえてない。本を奪い取ってからもう一度、


「こんにちは」


 そこで初めて彼女は僕を見た。


「あれ? 佳人くん。いつの間にいたの?」

「……」


 自由な人だなあと思いつつ、本を返した。

 注文を取りに来た店員さんにコーヒーを頼み、アキちゃんに向かう。


「で?」

「で、とは?」

「話したいことって何ですか?」


 僕の質問に、アキちゃんはため息でもって答えた。


「あのさあ、出会ってすぐホテルに行くカップルがいると思う?」

「……さあ、いるにはいるんじゃないんですか?」

「デート、って言っていきなりホテルに連れ込まれたら、私は怒る。今、そんな心境だよ」


 僕とアキちゃんはカップルではないし、挙げた例がまだ親しくもないような人間にするものじゃないし、そもそもこれはデートではない。色んな不平不満が頭の中で蠢いたが、僕は黙って頭を下げた。


「ごめんなさい」

「よろしい」


 アキちゃんは優雅にテーブルの上に置かれた飲み物に口をつけた。よくテレビでCMを流している有名な炭酸飲料だった。喉を鳴らしたあと、左手に巻かれた腕時計を見やる。


「遅れなかったね。君は結構時間にルーズなものだと思っていたよ」

「残念ながら真逆ですよ。僕は時間をしっかり守る。少しでも遅れたり早まったりしないようにしてます」

「それもそれでどうかと思うけど……」


 苦笑いを浮かべるアキちゃん。店員さんが僕の頼んだコーヒーを持ってきてくれた。受け取ってそのまま口に運ぶ。


「うわ。そのまま飲むの? 大人だね」

「苦いのは苦いですよ」


 こういうものは素のまま頂きたい性分なのだ。調味料を後から加えるのは、元々の旨みを逃がしてしまうように感じる。

 苦味に眉を寄せて、コーヒーを置いた。


「で?」

「で、とは?」

「話したいことって何ですか?」

「この会話、少し前にしたね。デジャブを感じるよ」


 アキちゃんは飲み物に刺してあるストローを掴み、先端を僕に向けた。


「君は出会ってすぐホテルに――」

「その流れもさっきやりましたよ」


 用件を話そうとしないではぐらかすアキちゃんに、僕は苛立ちを感じ始めていた。しかし、相手も僕と同じようだ。アキちゃんはむっとした顔で僕を睨みつけている。


「読み取れないのかなあ。私がこんなにも普通の会話を楽しみたいと感じているのに」


 よく見知ってもいない以上、さっきのは普通の会話ではないと思う。


「残念ながら、がちがちの理系の人間なんでね」

「つまんないの」


 そっぽを向くアキちゃんは不承不承の体で、


「用件なんてないよ。強いて言うなら、こうやって話すことが用件かな」

「は?」

「そんなに怖い顔しないの」


 得られるものはなさそうだ。いや、それはそれでアキちゃんの健康の証拠になるか。何かもやもやしたものは拭いきれないけど。

 僕は大きく息を吐き、コーヒーを飲んだ。一気に飲んだ。


「にがい……」

「なんかさあ……」


 アキちゃんは遠い目をして、話し始めた。


「君と話したかったんだよ。正しくは、昔の引きこもっていた自分を知っている人と、話したかったの」

「両親は、知ってるじゃないですか」

「お父さんもお母さんもあの話をすると、凄い困ったような顔をするの。高校生の頃の友達には、私がそんな状態だったなんて言ってないし」


 確かに、僕は記憶を改ざんされる前の傷心の彼女を知っている。しかし、それはカルテや父の話、あの部屋で見た事実から基づく断片的なものだ。知っている、という程知っているわけではない。


 それを伝えると、「それでもいいの」と言われた。


「なんで話したいんですか?」

「時々不安になるからだよ。おかしいと思わない? なんで私は勘違いであそこまで怯えていたの? 先生にかかっただけで、どうしてそれがすぐに勘違いってことになったの?」


 僕はアキちゃんの顔をじっと観察した。何かに怯えているようだった。僕は居住まいを正した。


「何かが違う気がするの。勘違いを私がどうしてあんなに信じていたのか。それこそ一年間も、何に怯えていたのか」


 まずいな、と思う。

 アキちゃんの改竄前と改竄後の人格の齟齬が大きすぎて、記憶が噛み合わなくなっている。彼女からしたら、どちらも彼女だ。だけど、改竄後の今では、改竄前のことはまるで別人のように感じられるだろう。


 僕は努めて冷静に、


「気のせいですよ」

「気のせい、なの?」

「そう。あなたはきっと身体的に、精神的に、酷く潔癖な人なんだ。だから逃げる前に少しでも触れられたことが、許せなかった。その結果、自分は犯されたと、自分を貶めたんだ」


 アキちゃんは黙って聞いている。


「あなたの考えていたことはわからないけど、トラウマが自分の妄想だというケースは別に珍しくもない」

「そうなの?」

「勿論発端となる出来事はありますが、助長を自分でしてしまうんです。自分の悪い方向に考えて、どつぼにはまる、ってことですね」


 アキちゃんは頷く。


「そういう人は、総じて完璧主義者なんですよ。今までがうまくいっていたから、少しの綻びも許せない。欠陥を見つけると、自分と切り離して考えたがる。欠陥だと認めてしまうと、一直線に堕ちていく。自分は駄目だ――ああ、そういえばこんなこともあんなこともあった、と言った風にね」

「……」

「あなたは自分を美化しすぎたんです、きっと。その結果、襲われそうになった、という結果を自棄糞に悪化させてしまった」

「そっかあ」


 アキちゃんはどこか呆けた調子で頷いた。

 こんなことがあるのか。あの機械による記憶の改竄は完璧だと思っていたが、そうでもないらしい。確かに父の行った改竄は良かったとは言い切れない。勘違いで済ませるのは、最も簡単だが最も危険だ。齟齬に混乱しないように、もう少し配慮する必要がある。


 アキちゃんはストローに口をつけ、炭酸飲料をすすった。


「そうだよね……」

「そうですよ。だから、深く考えることはないです。現に今は楽しいでしょう?」

「うん」


 アキちゃんは頷いた。「あの塞ぎ込んでた頃に比べると、格段に」


「それならそれでいいでしょ」

「そうだね」アキちゃんは笑った。


 アキちゃんはこうして自分の正当性を確かめたかったのかもしれない。ふわふわと宙に浮く自分自身を誰かに認めて欲しかったのかもしれない。その気持ちはわからなくもなかった。

 誰だって誰かに認めて欲しい。


「ということは、用事は済んだってことでいいんですよね」


 僕は残ったコーヒー飲み干すと、立ち上がろうとした。

 それを「ストップ」制される。


「いやいやいや、おかしくない?」


 眉根を寄せた、困惑した顔で見つめられた。


「何がですか?」

「確かにそれが主だった用件だけどさ。そうじゃないでしょ。君は情事が終わったら、すぐに会計を済ませるの?」

「さっきから、高校生に言う例えではないですよ」

「まあ、座りなよ。そしてもう少し話そうよ」

「僕はもう十分話したと思いますけど」


 こんなに人と話すなんて、加奈と優樹さん以外では初めてと言ってもいいくらいだ。携帯電話で時間を確認すると、一時間程経っていた。


「ほら、もう一時間だし」

「私は、もっと話したいの」

「僕は帰りたいんですが」

「私は! もっと話したいの」

「……」


 この手の人間は一度満足させないと、何度でも押しかけてくる。ここで無理にでも帰れば、帰ったあとの電話やメールは止まらないだろう。


「アキちゃんさあ……」

「ん?」

「なんでもない」


 こうなったら聞くだけ聞いて、後の連絡が来ないように心がけよう。まさかそこまで多くの話題があるわけでもないだろう。

 僕は肩を竦めた。


「どうぞ」

「やった!」


 笑顔になったアキちゃんは、嬉しそうに色々なことを話し始めた。

その話は喫茶店が閉店になるまで続くことになった。






 アキちゃんと会った次の日、日曜日。僕は加奈と約束を取り付けていた。我が家で一緒に勉強しようというものだ。


 加奈は約束の五分前に家のチャイムを鳴らした。

 扉を開くと、笑顔の加奈がそこにいる。今日も今日とて綺麗だ。その透明感のある笑顔には一片の曇りも見られない。


「久しぶり、よしくん」

「久しぶり、って金曜日に会ったばっかじゃないか」

「丸一日会わなかったら、十分久しぶりでしょ」


 それほど毎日会っているということ。

 加奈を僕の部屋に連れて行き、一つのテーブルの上で勉強道具を広げた。昔は有り余ったテーブルのスペースも、埋まってしまっている。


 加奈は筆箱からシャープペンシルを取り出して、


「そういえばね、お母さんがよしくんに感謝してたよ」

「おばさんが?」

「うん。よしくんと付き合ってから、成績が凄い良くなった、って」

「かなちゃんが頑張ったからでしょ」


 こうやって勉強しているのもあるが、加奈は聡明だ。物事の大切なことを吸収することに長けている。


「もう、よしくんにだったら嫁に出しても大丈夫だ、って」


 僕は思わず吹き出して、加奈の顔をまじまじと見た。


「……嫁?」

「うん」加奈は顔を赤くして、「私もよしくんと結婚したいなあ」


 僕の顔も真っ赤になっていることだろう。目を逸らした僕を見て、加奈は少し寂しげな表情をする。


「よしくんは……嫌?」

「いや、じゃない」動揺は隠しているつもりだけど、バレバレのように思える。「将来的には、僕もそうしたい」


 加奈は僕の様子に得心がいったようで、


「あー。よしくん照れてるんだ。可愛いなあ」


 加奈からの頬へのキスを受け、僕は慌てて勉強道具に手をつける。そんな僕を見て、加奈はまた笑った。

 その時、ちょうど良いタイミングで携帯のメール着信音が鳴ったので、僕は逃げるように携帯電話を開いた。送り主はアキちゃんだった。


「誰から?」

「アキちゃん」

「アキちゃん、って昨日会っていた女の人?」

「そうだよ」


 メールの中身を見ると、昨日の礼が述べられていた。当たり障りのない文章が書き連ねてある。

 でも、あれ? 僕は加奈には昨日アキちゃんと会っていたことを言ってはいないはずなのに。

疑問が脳を過る。


「見せて」


 加奈は僕の手から携帯電話をひったくった。いつかのラブレターの時と、状況が逆になっているように感じた。


「なにこれ」

「なに、ってお礼のメールでしょ」

「これがお礼の内容なの?」


 加奈は携帯電話の画面を僕に向けて突き出した。どこか憤慨している様子。訝しんで、メールを再度読み返すと、加奈の怒っているであろう箇所はすぐに見つかった。最後の結びの文だ。


『今度は会ってすぐにホテルに誘うのはやめましょうね』


 昨日の会話を知っている人間ならわかることだが、初見の人間はまず間違いなく誤解するような表現だ。これを当たり障りのない文章と評価した自分は、割とアキちゃんに毒されていたようだ。


「アキちゃんの悪ふざけだよ」

「本当なの?」

「ああ。そういう話題が好きみたいだ」

「……」


 緊縛した空気を察知して加奈の顔を窺うと、本気で怒っているようで、これでもかというくらい眉をしかめていた。こんな加奈は今まで見たこともない。


「……かな、ちゃん?」

「よしくん、楽しそうだったね」

「え?」

「アキちゃんとのデートで、楽しそうに笑っていたね」

「なに、その見ていましたよ、みたいな……」

「見ていたんだよ」


 加奈はいつもとは違う雰囲気を纏っている。いつもの金色の粒子を撒き散らすような暖かさではなく、黒色と灰色の薄ら寒いものだ。

 ギロリ、という効果音の付随した視線には恐怖を感じる。


「私は見ていたんだよ。よしくんとアキちゃんが楽しそうにおしゃべりしているのを。ずーっと話していたよね。それこそ、店が閉じるまで」


 逆にいえば、それまでずっと見ていたということだろうか。

 僕の肌には鳥肌が立っていた。


「いるんだったら、声くらいかけてくれれば良かったのに……」

「私はアキちゃん、って人、嫌い」


 加奈は目を見開いて僕のことを見つめた。


「よしくんにあんなにくっつくとか、一緒に楽しむとか、有り得ないよ。私以上によしくんのことを好きな子なんて絶対にいないのに」


 僕は加奈を落ち着かせるために、その両肩に手を置いて、双眸を見つめ返した。


「かなちゃんは僕のことが好きなんだろう?」

「誰よりも、だよ」

「だったらそれでいいじゃないか。かなちゃんの気持ちにアキちゃんは関係ないんでしょ」


 加奈は僕の人形だ。僕のことだけを、無条件にいつまでも好きでいてくれる。そこに他者の感情や思惑は関係ない。


「よしくんは?」

「は?」

「よしくんは、どうなの?」


 面食らったのは否定できない。加奈は人形なのだ。人形は、持ち主の感情如何は考えない。ただ、持ち主の考える通りに動いていくのだ。それがどうして僕の考えとかを訊いてくる?


「どうなの?」


 ぐいっと身を寄せてくる。


「も、勿論、僕はかなちゃんが大好きだよ」


 女性の中で誰が好きかと訊かれたら、どんな女性よりも加奈を選ぶ自信はある。加奈はその見た目も性格も、僕にとって唯一の女性だ。だけど、今回の声は動揺したものになってしまった。加奈の様子に気圧される。

 紙一重の隙間しかないくらい、加奈は顔を近づけてきた。


「本当に?」加奈の吐息がもろに当たる。

「本当に」


 今度は声が震えることはなかった。

 すると、加奈はそのまま僕に寄りかかってきた。当然、くっつく寸前だった唇と唇は触れ合うことになる。しばらくそんな調子でくっつきあっていた。


「へっへっへー」


 起き上がった加奈はいつもの上機嫌な加奈に戻っていた。金色の綺麗な粒子が辺りに舞っていく。


「じゃあ、許してあげる。私が一番なら、他はどうでもいいや。ただし、これからアキちゃんとはあんまり会わないこと」


 僕の返事が一泊でも遅れると、「わかった?」と念押しされる。


「わかったよ。アキちゃんとはもう会わない」

「あ、っていうか」


 加奈は僕の携帯電話をいじり、何かの設定を変えているようだ。


「メールなんか届かないようにすればいいんだ。着信なんか来ないようにすればいいじゃん」


 返ってきた携帯電話は、言った通りアキちゃんのメールアドレスと電話番号にロックがかけられていた。ご丁寧に僕では解けないようになっている。


「ここまですることはないんじゃないの? 一応、友達なわけだから」


 特に意識した言葉ではなかった。


「友達が欲しいの?」


 だが、加奈は僕の言葉に驚いたようだった。

 そうして加奈が驚いたことで、僕も自分の言ったことの意味を理解した。


「……そういうわけじゃないけど」

「なら、いいじゃない」加奈は笑顔で、「私はよしくんがいれば、友達なんかいらないよ」


 学校で加奈の周りにいるのは僕だけだ。加奈はその見た目の美しさへの嫉妬と、先輩をにべもなく振ったという畏怖によって、女子たちから嫌煙されていた。だけど、僕がいるからそれでいい。


「そうだね……」


 僕も、加奈がいればそれでいい。


「かなちゃん、今日、泊まっていってよ」

「うん。わかった。お母さんに連絡するね」


 自分の携帯電話を動かしていく加奈を見ながら、アキちゃんには申し訳ないことをしたと思う。届かない連絡に気を病まないでくれればいいけれど。


 何が必要で何が不必要かは、一目瞭然なのだから。


 一目瞭然なのだ……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ