10話
僕は優樹さんを僕の理想とする母親に変えた。
優樹さんはいつも笑顔で僕を出迎えてくれ、僕が弱音を吐いたときには優しく抱きしめてくれる。良い成績を取ったら手放しで喜んでくれて、時々だらしない僕を優しく叱ってくれる。そんな母親だ。
父が植え付けた間違えた記憶は、上書きすることをしなかった。だが、父とそういった体の関係を持つことに忌避の感情を抱くようにはした。父の体に触れた手で僕を抱きしめるなんて、気味が悪い。
講演会から帰ってきた父は、しばらくはその変化に気づくことはなかった。しかし、段々と何かがおかしいことに気づき始めている。疑いの目で僕を見る父を、僕は内心で嘲笑っていた。
優樹さんは父の人形ではない。
優樹さんは僕の人形なのだ。
ある日、僕と加奈はデートのために待ち合わせをしていた。
加奈は僕の彼女というより、僕の人形だ。従来の女性のように、逢瀬を重ねて経験値を貯めていく必要性は全くない。だが、加奈がそれを欲していた。加奈に与えた記憶は、僕のことが好きになるというもの。加奈にとって好きということは、一緒にいたいということなのだ。それを拒否するつもりはなかった。
待ち合わせの公園に向けて、僕は歩いていく。少し時間には間に合うかどうか怪しいが、相手が相手だし、大丈夫だろう。
「あれ?」
たった今すれ違った女性が声を上げた。不思議に思いながらも一応振り向くと、その女性と目があった。
「やっぱり」
女性の方は僕を見て得心がいったようだが、僕はこの女性の正体を掴むことができない。
年齢は二十近くとったところの若い女性だった。薄い化粧は自分の年齢と容姿に自信があることの裏付けだ。小奇麗に明るい色でまとめた服装は、その女性によく似合っている。
「覚えてる?」
「いえ、どなたですか?」
見たところ大学生のようだが、部活動に勤しんでいたわけでもない僕に、そんな所の知り合いがいるとは思えない。
「あー、ひどいなあ。患者の顔は覚えておくものじゃないの?」
「患者?」
僕は首の傾きを大きいものにした。
「そう。私は昔、あなたの医院でお世話になったんだけど」そこで不安そうに笑顔を作る。「あれ? ほんとに違った?」
僕は一人の女性に行き着いた。
「アキちゃん?」
「そう、それ。けど、いきなり馴れ馴れしいね……」
「本名、知らないんだ。看護師の人がそう呼んでいるのを思い出したんだ」
「そうなの? ああ、看護師さんは確かに私のことそう呼んでたもんね。私は冬野アキ、っていうんだけど。その口ぶりだと、やっぱり合ってたみたいだね。あの時、部屋にいた子でしょ?」
僕は頷いた。
「結構外見が変わってたから少し不安だったけど、良かった。あの時は中学生だったの? じゃあ今は高校生かな?」
「ええ、まあ」
正直、面倒くさいなとは思った。
「アキさんは大学生ですか?」
「そう。この近くの大学に通ってるんだ。看護学科だよ」
「へえ」
この調子だと、アキちゃんは完治しているようだ。にこにこと向日葵のように笑うさまは、見ていてこちらも陽気にさせる。
こんな性格だったんだな、としみじみ思ってしまうのは、凄惨な状態のアキちゃんを一度、見てしまっているからだろう。
「君の医院の看護師さん、いたでしょ?」
「優樹さんのこと?」
「多分そう。あの人、凄い綺麗な人でしょう。あんな人になりたいなあ、と思って看護の道を選んだんだ」
「そうなんですか」
道の途中で、アキちゃんは上機嫌でべらべらと話し続ける。勘弁してもらいたかった。
「そういえば、君の名前を聞いてなかったね。なんていうの?」
「君嶋佳人です」
「君嶋、ってことは、先生の家族か何か?」
「息子です」
「へええ。でも、息子でも勝手に患者と医者との会話の場にいていいものなの?」
迷惑そうに、
「無理矢理居させられたんですよ。父の責任です」
アキちゃんは頷いた後、
「あ。敬語は使わなくてもいいよ。私と君との仲だからね」
「そうなんですか」
どんな仲だろう。いつから僕とアキちゃんの仲はそこまで深まったんだ。会話すらしたことがなかったのに。
「ほら、敬語」
「……そうなんだ」
「ねえ、これから時間ある? もうちょっとお話でもしない?」
「これからデートなんだけど」迷惑そうに。二回目。
「え、そうだったの? じゃあ引き止めちゃってごめんね」
アキちゃんは背を向けて歩き出す僕に、
「せっかくだから、携帯電話の番号教えてよ」
僕はため息をつきたいのを我慢して、携帯電話を取り出した。赤外線通信を利用して、アキちゃんの携帯電話と情報を交換する。
「また後で連絡するねー」
アキちゃんは手を振って、僕の進む方向とは逆の方向へ歩いて行った。
堪えていたため息をつき、携帯電話の時間を調べる。集合時間を三十分ほどオーバーしそうだった。
待ち合わせ場所につくと、案の定三十分遅れてしまった。
公園の中心にある噴水のもとに急ぐ。噴水の近くのベンチには加奈が座っていた。大人しく噴水を見つめている様は、本当に人形のようだった。
「ごめん、遅れた」
加奈の下に近づいていくと、加奈の笑顔が出迎えてくれた。
「ううん。全然いいよ。ちゃんとこうやってよしくんと会えたんだから」
加奈は僕の腕をとって、そこにしがみついた。嬉しそうにはにかんで、僕を上目遣いに見てくる。
「でもよしくんがこんなに遅れるなんて珍しいよね。何かあったの?」
「来る途中で、アキちゃんに会ったんだ」
「アキちゃん?」
加奈は小首を傾げた。
「昔、うちの病院の患者だった人だよ」
「昔の患者?」加奈は少し考えた後、「ということは、今は元気になったの?」
「元気そうではあったけど」
あの様子だと、生活には何の支障もないようだ。晴れ晴れとした笑顔は、彼女が昔、外界との接触を拒絶していたとは思えない。
「それなら良かったね」
加奈は見ていて気持ちのいい笑顔で笑った。
「でも、私のデートがあったのに、話し込んでたの?」
「強引なんだよ」
辟易したのを隠さずに言うと、加奈は頷いた。
「よしくん、人間が苦手だもんね」
「かなちゃん以外ね」
加奈は嬉しそうに白い歯を見せて、
「じゃあ行こうか」
大体のデートの行き先、プランは加奈に任せている。今日も僕はにこにこと笑う加奈の隣でついていくのだ。
加奈とのデートを終えて家に帰ると、ちょうどそのタイミングで電話が鳴った。自分の部屋に戻って誰からのものか確認すると、ついさっき会ったばかりのアキちゃんからだった。
通話を開始する。
「はい。君嶋です」
『佳人くん? こんばんは。冬野アキだよ』
「こんばんは。なんの用ですか?」
『敬語じゃなくていいって言ってるじゃん。言うほど歳は離れていないでしょ』
「学生にとって、数年という差は大きいんですよ」
『社会人にとっては些細なことだよ』
「あなた、学生でしょ」
『あーでもほら。私、バイトしてるし。一回りも二回りも歳の離れた人と接してるし』
「へえ。それで、用事は?」
『用事がなくっちゃ電話しちゃいけないの?』
「少なくとも僕とあなたの仲だったら用もない電話はありえないです」
『見た目と違って、お堅い性格してるんだね』
アキちゃんは受話器の先でため息をついたようだ。僕の方が大きいため息をつきたい気分なのに。
『まあ、用件を言うとね。今度会いたいなあ、って』
「僕とですか?」
『そう。このタイミングでそれ以外ないでしょ。暇な日、ある? さっきも言ったけど、もう少しお話したいな、って思って』
「暇な日……」
アキちゃんと話しても得られるものがあるかどうか。だが、アキちゃんは僕が改竄の瞬間を見た中で、最も古い“人形”だ。記憶の改ざんによって何か後遺症のようなものが起こるとしたら、まずはアキちゃんに起こるはず。アキちゃんを観察することが、これからの人形遊びに大切かもしれない。
日にちなんてどうでもいい。大切なのは、会う意味があるかどうかだ。
「今度の土曜日はどう?」
『お、大丈夫だよ。じゃあ、今度の土曜日、駅前の喫茶店に集合ね』
「はい」
会話の終わりを感じ、通話を切ろうとすると、『あ、ちょっと待って』と声がする。
「何ですか?」
『そう、迷惑そうに言わないの。彼女、いるんでしょ? 私と二人で会っても大丈夫?』
「どういう意味ですか?」
『わからないの? 彼氏が知らない女の人と一緒にいたら、普通不安になるでしょ?』
「そうなんですか?」
うげえ、という台詞は僕の返答によるものらしい。
『それ、本気で言ってるの? 佳人くんの彼女は大変だなあ』
「まあ、そんなこと気にしなくていいですよ」
だって僕の彼女は、僕の人形なのだから。僕のことだけを想い、僕のことだけを考える、僕の手のひらに乗る人形なのだから。
『そう? それならいいんだけど。じゃあ、土曜日ね。忘れないように』
「はい。じゃあ今度こそ切りますよ」
『じゃあねー』
僕は通話を終了した。
その会話の終わりを待って、部屋にノックがされる。
「佳人くん。ご飯ができたわよ」
優樹さんの声だ。優しい口調は、僕の心を暖かくする。
「すぐにいくよ」
「ご飯が冷めちゃうから、早く来てね」
優樹さんが去っていく足音を聞きながら、僕は笑う。こんな会話ができることが純粋に嬉しかった。




