9話
成長――と言うのだろうか。
あの時、人形を一つ作り上げてから、僕は色々なものが向上していった。
まずは身長。中学校の時から頭打ちになっていた身長が、急激に伸びた。
学力の面でも、以前は上位層で留まっていたのが、常にトップを取るようになっていた。
周りも学内一の美人を彼女に持ったこと、一番の成績を収めるようになったことで、僕に一目を置き始めた。
全てが円滑に回りだした。今まで僕を縛り付けていたのは、父が植え付けた常識だった。一線を越えた今、僕に怖いものなど何もなかった。一番欲しいものが手に入ったことで、全ての物事に余裕ができた。
反面、加奈はその人望を失っていた。
性格もよく、人気者だった先輩を脈絡もなく振ったことが、他の女子生徒の琴線に触れたらしい。今まで寄ってきていた女子生徒の多くが離れていった。
しかし、加奈の笑顔が曇ることはない。加奈にとって僕が唯一の所有者であり、僕にとっても彼女は唯一の人形だった。二人はお互いが傍にいれば、ただそれだけで良かった。
最初は僕と加奈のカップルに文句を言う人間も多かったが、一年生が終わる頃にはそんな人間は少数派になっていた。僕と加奈は学年の成績の一番、二番を独占し、誰もが羨むカップルとなったからだ。
「よしくんは、もっと綺麗にすればもっとかっこよくなるよ」
加奈はそう言って、僕の部屋で眉の手入れや髪のセットをしてくれた。
格好良くなったところで、僕の一番欲しいものはすでに手に入っているし、これから離れることもない。無意味なことだと思っていたが、そんな調子で学校に行くと、女子生徒の目の色が驚く程変わることに気がついた。
遠巻きにしていた人間たちが、遠慮がちに僕に寄ってくる。僕に少なからず好意を抱いて近づいてくる。体験してみたら、なるほどこれは中々に気分の良いものだった。
周りの人間がどんどん擬似的な僕の人形になっていく。誰もが僕を崇め、僕に尊敬の念を抱く。
学校が、僕の箱庭になった。
僕はこの学校で、神になったのだ。
たった一つの性格が打ち砕かれたことで、たった一人の人間を支配したことで、人生が違う色を見せ始めた。
二年生になって一月も経つと、下級生からの告白も増えていった。
それを断ることが、たまらない征服欲を僕に与えた。優しく断ると、多くの人間は僕に好意をもったまま去ることになる。中には振ることで僕の株が上がるという例もあった。佳人先輩はたった一人の女性を愛するのだ――と。
腹を抱えて笑いたくもなる。ひどいものだ。もはや昔の自分が何を守って何を目的にしていたのかも曖昧になってくる。
僕はここに来て――変わったのだ。
だが、そんな生活に問題がないわけではなかった。
加奈との日々を謳歌するあまり、父の手術を見る時間が減っていたのだ。父はそれに対して立腹のようだった。
「おい」
ある晩の食後、自分の部屋に戻ろうとする僕を、父は止めた。
「なに?」
「最近、医者の後継としての自覚が足りないんじゃないか?」
父には白髪が増えてきた。同時に、幼い時に感じていた威圧感は鳴りを潜めているように感じられた。僕は以前ほど父を嫌ってはいない。忌避の代わりに台頭してきた感情は、もはや憐憫だった。
父は繰り返す。
「どうなんだ?」
「足りてるさ。この前見せたように、成績はトップだ。現役で最難関の医学大学に受かる自信もあるよ」
「そういうことではない。おまえは医者ではなく、私の後継になることに意味があるのだ。私の技術を今のうちに得ておかなくてどうする」
「僕には僕の生活がある。たまに手術は見ているし、最低限のことはしてるんだ。文句はないでしょ」
言葉には若干の刺を含めていた。父に頭を下げ続ける僕はもういない。
「文句どうこうの話ではない。ここが分かれ道だという話はしただろう」
「したね。だからといって僕は努力を惜しんでいるわけじゃない。僕はしっかり前を見ているよ。けれど、別に父さんが前にいるわけでもないしね」
「おまえ……」
僕の言葉を反抗だと受け取ったのか、父は鋭い目つきで僕を睨んできた。僕は昔のように目を逸らしたりはしなかった。少しの苛立ちを込めた視線を返す。
しばらく僕たちは睨み合っていた。
そこへ、
「もー二人とも。喧嘩しないの」
優樹さんが僕らの間に入ってきた。台所で洗い物をしていたからか、濡れた手を拭きながら、
「喧嘩なんて珍しい。何かあったの、佳人くん?」
「別に」僕は父から視線を外した。「ちょっと遅めの反抗期だよ」
「ふん。とにかく今まで通りにしていろ」
父は鼻を鳴らすと、リビングから出て行った。
「反抗期、ねえ」
残された優樹さんは考えるように眉根を寄せた。
「私が見た限り、佳人くんは特に反抗期もなかった気がするの。今出てきてもおかしくないとは思うけど……。でも、佳人くんが折れないなんて本当に珍しい」
「僕だって変わるよ」
たった一つで、人は変わる。
もう、父の思い通りになることもない。
「母親になったことがないから本当のところはわからないなあ」
「優樹さんは僕にとって、母のような存在だよ」
僕は笑顔でそう言った。
優樹さんはくすりと微笑んで、
「佳人くんは、確かに変わったわ。かっこよくなったね。何があったか知らないけど、憑き物が取れたような顔をしてる」
「そう? 優樹さんに言ってもらえるなら、自信になるな」
「佳人くんの良さは、私が太鼓判を押すわ」そういえば、と言葉を継ぐ。「加奈ちゃんと一緒に歩いてるの、見たわよ。仲良くやってるらしいわね」
「おかげさまで」
「遠くから見ただけだけど、お似合いだったわよ。流石にずっと一緒にいる幼馴染だから、気が楽でしょ? そういうの、羨ましいわ」
僕は優樹さんの瞳をじっと見つめた。優樹さんは「何?」と首を傾げる。
「いえ……」
優樹さんは父の人形だ。恐らく、父が死ぬまで付き従うのだろう。父は一人の若い女性の人生を奪ったのだ。
優樹さんは母に似ている。僕は実際、優樹さんに母の面影を重ねていた。母がいたらこんな感じなのだろうな、と寂しさが緩和されていくこともあった。
だから、父にとっても優樹さんは母と同義なのだ。母を失った悲しみを代わりの人形で埋めただけに過ぎない。
思わず口角が釣り上がったのは、恐ろしいことを思いついたからだ。
「例えば――」
「え? どうしたの、佳人くん?」
「父からあなたを奪ったら、父はどうなるんだろう」
僕はもう、優樹さんを人間とは思っていない。一度、素の人格を失った人間は、ただの人形だ。人に操られた人形だ。だったら、もう一度同じことをしても、何の問題もないだろう。
父だってやったことだ。僕がやったっていいはずだ。
「佳人くん? 何を言っているの?」
「いや、なんでもないよ」
僕だってほしい。
父が求めたように。
母の温もりがほしい。
その温もりを僕だけのものにしたい。
「優樹さん、明日もちゃんとうちに来てよ」
明日、父は医師としてどこかの大学の講演会に出席することになっている。丸一日、家を空ける予定だ。だから病院は臨時休業。誰もいない。
誰もいないのだ。
小さい頃、他の人間と遊ぶのが嫌だったのは、人間が僕に実害を与えるからだった。あるガキ大将は拳を振りかぶり、ある我侭な子は親を使って僕のことを攻撃してきた。
それでも僕が傷つく分にはそれで良かった。何よりも許せなかったのは、大切な人形が被害にあうことだ。
あるとき、僕は鞄にお気に入りの人形を入れて幼稚園に行った。憂鬱な生活も、人形があれば乗り越えられると思ったからだ。
誰にも見つからないようにしていたのに、運悪く一人の子供に見つかってしまった。
その子も人形が好きな子だったのだが、僕とは毛色の違った人形好きで、人形遊びと言えばお飯事というより、遊具などを用いて一緒に遊びまわることを好んでいた。
奪われた人形は、砂まみれ泥まみれで帰ってきた。
そういえば人間に怒りをぶつけたのは、あの時が最初で最後だった。あれ以来、僕は人形を自室から外に出してはいない。大切なものは、誰にも見つからないところに隠しておくということをその時に学んだのだ。
他人に触れるから、あらゆるものは汚れていく。
自分の手の上の人形はずっと綺麗なままだ。
優樹さんは父がいない日でも、朝にお手伝いとして家に来てくれた。
「佳人くんを一人にしてはおけないもんね」
笑顔も一緒に持ってきてくれたのだが、
「それだけじゃないでしょ」
「まあ、本当は佳人くんを見張っておけって言われてるんだけどね」
優樹さんは困ったように笑って白状した。
僕も笑った。
「信用ないんだなあ」
「お父さんは佳人くんが心配なのよ。親の愛情を疎ましく思ってると、あとで後悔するわよ」
いたずらっぽく笑われたけど、母親が死んだ僕には多分そんな日は来ない。
優樹さんの作ってくれた食事に手をつける。今日も今日で美味しい。母親の味は知らないけど、きっとこんな感じなんだろう。
「あ、そういえば、父さんに頼まれてることがあったんだ」
食事の途中で僕はさも今思い出しました、とでもいうような調子で言った。
「ん? そうなの?」
「うん。あの……病院の地下にある機械、あるでしょ。それの点検をしておけだってさ」
「そうなの? 私は聞いてないよ」
「僕だけに言ったのか……。まあ、別にいいけど」
嫌悪感を隠そうともせずにため息をつくと、優樹さんが慌てたように笑顔を見せた。
「違う違う。きっと、これも愛情だよ。佳人くんに病院を継いでほしいから、佳人くんに任せたんだよ」
「そうかなあ……」
「そもそもあの機械だって、存在を知ってるのは佳人くんだけじゃない。他の医者には任せられないし、ほら、期待されてるってことでしょ」
「まあ、いいけどね」
食事を終えると、僕は立ち上がり、時計を見た。まだ学校に行くには時間がある。
「今のうちに済ませちゃおうかな。優樹さん、ついてきてくれる?」
「私も?」
「流石に僕ひとりだとちょっと怖くてね。現役の看護師さんについてきてほしいんだ」
「わかった」
優樹さんは洗い物には手をつけず、僕についてきた。僕は病院の方に向かい、地下へと向かった。その扉を開き、優樹さんに先に中に入るよう促す。そして、扉に鍵を閉めた。
優樹さんは一切疑ってはいないようだった。散歩でもするような気軽な調子で、機械に近づいていく。
「でも、佳人くん。点検、って言ってたけど、それができるほどこの機械に詳しいの?」
「うん。興味はあるから」
「興味? 最近お父さんの仕事、手伝ってなかったけど大丈夫?」
「大丈夫だよ。だって点検とか、嘘だもん」
「え……?」
優樹さんはこちらを振り向いた。引きつった笑みでこちらを見ている。
「どういうこと?」
「聞かなくてもわかるでしょ。だってあなたは一度、こういう目に合っているんだから」
「佳人くん。何を言っているの?」
加奈であり、優樹さんであり、どうしてこういう状況になってから慌て出すのだろうか。加奈は知らなかったから仕方ないにしても、優樹さんは看護師としてこの機械の存在を知っている。他の人間とともにこの部屋に入るなんて、悪いことが待っているに決まっているじゃないか。
「あなたは以前に父にここに連れ込まれ、記憶を変えられているんだよ。覚えてないの?」
「なにそれ? 私はそんなことされた覚え、ないけど」
「父がそう言ってたんだ。あなたと愛し合っている時にね」
優樹さんの顔に朱色が注した。
「見てたの……?」
僕は頷いた。
「あなたは冗談に感じていたかもしれないけど、僕は父の言ったことが真実だと断言できる。だってあなたと父は、あなたの記憶のような出会い方はしていないから」
「そんなことない」
優樹さんの表情が、今度は怒りの感情による赤に染まった。
「佳人くんでも許さないよ。そんなことばっかり言って。何、私にも反抗期なの?」
「まあ、認めるわけないよね」
今まで自分の全てを決定づけていた記憶が違うと言われれば、それは勿論違うという意見の方が間違っていると思うだろう。自分を全否定される意見を飲み込むなんて、人間ではありえない。
踏みしめていた足場が実は地面ではなかったなんて、誰も信じたくはない。
「まあ、そんなことはどうでもいいわけだけど」
「どうでもいい、って。どうしたの? 佳人くん、今日は変だよ」
「かなちゃんもそんなこと言ってたなあ。だけど、別に僕は変じゃないよ。これが僕なんだから」
誰かさんが作ったのが、この僕なのだから。
「佳人くん、からかうのはやめなさい。本当に怒るよ。私はあくまで家政婦の立場だけど、佳人くんのことは弟にも、息子にも思っているんだから」
「ああ、じゃあ良かった。意見の一致だね」
僕は笑った。
「優樹さん、僕のお母さんになってよ」
優樹さんは言葉の真意が掴めていないようで、眉を寄せて僕を見つめている。
僕は繰り返した。
「僕のことを息子だって思ってくれているんなら、本当の母親になってよ」
「本当の母親、……ってそれはなれないわ。だって私と佳人くんは血も繋がっていないし」
「血なんて全部赤色なんだからどうだっていいんだよ。本当の愛情をもって僕に接してくれればいいんだ。母親のように優しく抱きしめてくれればそれでいい」
「でも……」
優樹さんの目が僕から逸らされる。
「でも、も。だけど、もないよ。もうここまで来ちゃったんだから。それに、本当の母親云々に、構える必要もないよ」
僕は機械に近づいていって、椅子を片手で叩いた。
「ここに座ってくれれば、それでいい」
優樹さんの顔が青ざめた。ここに座ることの意味を、優樹さんはきっと理解している。
「佳人くん、本当にふざけないで。もし文句があるのなら、きっと治すから。あなたの母親にはなれなくても、私はあなたを愛しているわ」
少し腹が立った。
「嘘つけ。僕は父の付属品だろう? 父が好き――なんて紛い物の記憶に踊らされているだけだろう。僕は僕のことを好きな人間がほしいんじゃない。僕のことだけを見つめる、人形がほしいんだ」
いやいやと子供のように首を振る優樹さんの肩を捕まえ、僕は笑顔で口を開く。
「あなたがほしい。あなたに僕の母になってほしい」
「佳人くん、あなた……おかしいよ」
「なんにもおかしくないよ。おかしいとすれば、それはきっとあなたの方なんだ」
「さっき、加奈ちゃんの話をしたわね。もしかして――」
「そうだよ。かなちゃんはもう僕の人形だ。今頃僕が命じたように、家で勉強でもしてるんじゃないのかな?」
優樹さんの目に憎悪の色が宿る。
「佳人くん、自分がやってること、わかってるの? これは犯罪よ」
「優樹さんは昔、この機械は人を幸せにするって言ってたじゃないか」
「使い方によっては、よ。あなたの使い方は私益に塗れている。それじゃあ誰も幸せにはなれない」
「そうかもしれない。けど、それを言うなら父だって犯罪者だ。僕に道徳を躾た人間こそが、クズの象徴なんだ」
「そんなことないって言ってるでしょ」
僕は優樹さんの限界を悟り、息をついた。「それに」と次げる。
「愛されたいと思うことの何がいけないの?」
僕は何気なく言ったのだが、優樹さんはこの台詞に何かを感じたようだった。反論しようと息巻いていたその口がゆっくりと閉じる。僕を見る目は、憐れむようなそれに変わった。
嫌がる優樹さんを僕は無理矢理椅子に座らせた。
優樹さんは椅子に座らされると、大人しくなった。成長した僕との格闘では勝てないことを知ったのだ。
「佳人くん……」
優樹さんは最期にぽつりと呟いた。
「なに?」
「もう私は逃げられないし、負け惜しみに聞こえるかもしれないけど、最後に言わせて。あなた、こんなことばかりしていると、人形に殺されるわよ」
「人形に?」
思わず鼻で笑ってしまった。
人形は須らく持ち主に従順なのだ。持ち主の意思を尊重して動き、持ち主の幸せを願う。そんな人形が、持ち主を殺すなんて、考えもしたことはない。その従順さこそが、僕が人形を愛する理由なのだから。
「人形で遊んだことってある?」
「まあ、子供の頃にだけど」
「人形遊びの時、人形は何を見ていると思う?」
「それは、持ち主でしょ」
「そう。持ち主よ。他のものには目もくれずに、人形は――持ち主だけを見つめているの」
「それが? 持ち主だって人形だけを見つめている」
「そうね……。そうなのよね」
それを最後に、優樹さんは口を閉ざしてしまった。
小骨の骨が喉に引っかかったような、若干の気味の悪さは残ったものの、だからといって引く理由は全くなかった。
僕は計画を実行した。




