58 再会
そろそろと目を開ければ、そこは既に皇城ではなかった。恐らく此処がアンヴァンシーブルの領主館なのだろう。少し古い造りだが、様式的にはルドベキア王国によくある邸宅に似ていた。
きょろきょろと部屋の中を見ていれば、それに気付いたラファエル陛下がふっと微笑んだ。
「此処は少し重厚な造りだろう?400年前の辺境伯家の邸をそのまま使用しているんだよ。所々修繕してはいるがな」
「成程!だからルドベキア王国でよく見る感じなんですね!歴史を感じる造りだなーとは思ったんですよ」
「領主館だけではない。街並みも昔の雰囲気を残しているんだが、此処からだとよく見えるよ」
彼が窓際で手招きするので、私も其方へと向かう。外を覗けば、今いる部屋はどうやら三階位の高さがありそうだ。近くまで来た所で、彼が慣れた手付きで鍵を開け、外側へと押し開く。少しひんやりとした風に乗って、甘い花の香りが鼻腔を擽った。
「わ……これ、何の香りですか?」
「金木犀だな。ルドベキアには多く自生しているが、我が国ではここにしかない稀少な花だ」
「へぇ……!すごくいい香り……」
どこに植えられているのかと視線を彷徨わせていたのだが、ちらりと彼の方を見ればその視線は懐かしそうに細められ、街並みへと注がれていた。
「……やっぱり懐かしいですか?」
「ん?あぁ……この400年で様変わりした所も多いんだが、昔と変わらぬ所もあるからな。全部を覚えている訳ではないが、やはり見ていると落ち着く気はする」
「何か覚えている場所とか、思い入れのある所って残ってます?」
「そうだな……此処から見える所でならあの広場。あそこでよく幼い頃の兄上と遊んだ気がする」
兄上というのは、400年前の辺境伯の事だろう。彼が指差す先にあるのはなんて事はない普通の広場だが、彼の目には当時の光景が甦っているに違いない。その表情はとても穏やかなものだった。
そんな私達を微笑ましく見ていたアルテュールさんだったが、何かに気付いた様子でラファエル陛下に声を掛けた。
「陛下、どうやら来られた様です」
「あぁ、解った」
彼はすっと表情を引き締め、少し乱れた衣服を整える。と、扉をノックする音が響いた。彼が入室の許可を告げると、やや遠慮がちに扉が開かれる。
入ってきたのは口元に髭を蓄えたロマンスグレーの紳士だ。彼はラファエル陛下を真っ直ぐ見据え、深々と礼をとる。
「失礼致します。お久しぶりでございます、皇帝陛下」
「堅苦しい挨拶はよい。今回は内密な会談という事で、無理を言ったな」
「そんな、滅相もございません。ルドベキア王国と、というのは些か驚きましたが、応接間にて会談を行える様、準備は万端整っております」
顔をあげた彼は、室内に居た私達にも視線を向けるのだが、その瞳は私を見た所で大きく見開かれた。どうしたのだろうかと小首を傾げれば、彼は慌てて視線をラファエル陛下の方へと戻す。
「へ、陛下……!まさかそちらの黒髪のお嬢様は……」
「お前も聞いただろう、ルドベキア王国で先頃披露目された大聖女様だ」
そう聞くや否や、彼は少し覚束ない足取りで私の前に進み出ると、先程よりも深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります、大聖女様……!私はこの辺り一帯を治めております、フェランと申します。この地に再び大聖女様をお迎えする事ができて光栄です」
「フェランさんですね。私はエマです。宜しくお願いしますね」
そう言って微笑めば、彼はとても嬉しそうに何度も頷いていた。400年前の大聖女様はこの地に初めて降り立ったというのだから、この地を治めるフェランさんにとってはとても思い入れがある存在なのだろう。
彼は暫く夢見心地の様な表情を浮かべていたのだが、ハッと我に返りラファエル陛下へと向き直った。
「ルドベキア王国側の方々ですが、実は一足先にお着きになっております。陛下がお越しになられたらお知らせすると話しておりますので、先に陛下方を応接間にご案内してから、あちらの方々をお呼び致しますが、それで宜しかったでしょうか?」
その言葉にどくんと心臓が一つ音を立てた。
アリスさんが此処にいる。本当にもうすぐ逢えるのだと思うと、どうしようもなく心が逸る。
「やだ、エマちゃん。顔真っ赤よ。大丈夫?」
「へっ!?い、いえ!大丈夫です!」
「そう?何かあったらすぐに言うのよ」
心配そうに顔を覗き込むジゼルさんに、私は必死に取り繕って微笑む。本当に、逢う前からこんな調子で大丈夫なんだろうかと自分で心配になってしまう。
どこかそわそわとした心地のまま、案内された応接間のソファに腰掛ければ、フェランさんはアリスさん達を呼ぶ為に退室していく。ちらちらと扉を見る事を繰り返していれば、目の前に居るラファエル陛下がじとりとした目を向けていた。
「エマ……顔が緩みっぱなしだ」
「エッ!?そ、そうですかね?あはは……」
「はぁ……そんな顔をされると、本当に君の婚約者とやらに決闘でも申し込みたくなるよ。実に面白くない。俺の方がエマを見ていた時間は長いというのに」
彼がまた大きな溜息を漏らした所で、コンコンと扉をノックする音に肩が跳ねた。じとりと手に汗が滲み、どきどきと心臓の鼓動が煩いくらいに音を立てる。
扉はゆっくりと開き、フェランさんを先頭にレオポルド陛下、ヴィー兄様と続き――
「アリスさん……っ!」
声をあげた時には既に駆け出していた。そうして、彼の居た扉まで辿り着く前に、私は苦しいくらいに抱き締められていたのだ。それは彼も同じ様に此方へと駆けてきてくれたからに他ならず、久しぶりに触れるその温もりに、匂いに、胸がいっぱいになる。
もう離さないのではないかと思う程に、がっちりと私を抱え込むその腕の中は、世界中の何処よりも安心できる私の居場所だ。やっと帰ってこられたのだと思えば、今まで堪えていた涙が次から次へと溢れてきてしまった。
「ふっ……うぅ……アリスさん、アリスさん……!ずっと、逢いたかったです……!」
「あぁ……俺もだ。無事で良かった、エマ」
耳元で聞こえたその声は、僅かに震えていた。きっとたくさん心配をかけてしまったのだろう。その事が申し訳なくは思いつつも、どうしようもなく愛おしいという想いが募っていく。
もっと触れたい、触れてほしい。
その先まで想像してしまった自分自身に驚き、羞恥で顔が赤くなるのが解る。一度心に浮かんでしまうと余計に意識してしまい、鼓動が益々逸るものだから、アリスさんにも絶対伝わってしまっているに違いない。
アリスさんも何も言わず、ただただ抱き締めてくれる腕は温かくて心地良い。拐われる前のちょっとしたすれ違いも、蟠りも今は遠い事の様で、今はただこの温もりに溺れてしまいたかった。
その抱擁は、長い様で短いものだったのだろうか。勢いよくソファから立ち上がる物音にびくりとし、其方を見やれば、ラファエル陛下が信じられない者を見る様に目を見開き、此方を凝視していた。指差すその手は、明らかに震えている。
「なっ!?嘘だろう!?エマ、これはたちの悪い冗談だと言ってくれ!」
「えっ……?何がですか?」
何の事かと戸惑う私の前に、アリスさんが彼からの視線を遮る様に前に出る。その眉間には深い皺が刻まれていた。
「その者の顔だ!どう見ても奴の血縁だろう!?」
その声には絶望の色がはっきりと見えた。確かにアリスさんの顔立ちは親子だけあってあの人によく似ている。顔だけ見れば驚くのも仕方ないかもしれないのだが、私はつい首を捻ってしまう。
「え?あれ……?言ってませんでしたっけ……?」
「俺は聞いていない!君の婚約者が、ルドベキアの王宮魔術師長という事だけだ!」
記憶を探り、そういえば私を拐ったあの人の息子がアリスさんで、私の婚約者だという事はグエノレさんに言ったんだったと思い至り苦笑を漏らす。
「あー……すみません。でもアリスさんとあの人は――」
「俺は確かにあの男――バティスト・ジギタリスと血の繋がりはあるが、それだけだ。俺はあの男の事が心底憎いし、あなたが危惧する様な繋がりはあの男とは一切ない」
「いや……!それもそうなのだが、そうではなくて……」
言い淀むラファエル陛下に、アリスさんは怪訝な顔をしていたのだが、私はふと一枚の肖像画が頭に浮かびハッとする。
「も……しかして、アリスさんがラウル王に似ているから……?」
ぽつりと漏らした言葉に、二人は同時に私の方を見る。急に視線が集中した事で、私は内心冷や汗をかいていた。
「何故、君があの男の顔を知っている……?まさか、思い出したのか?」
「あっ!いや、そうじゃないんです!実は、ラウル王の肖像画を見たんですよ。アリスさんによく似てたから凄く驚きました」
前世を思い出した訳ではないと慌てて否定するのだが、今度はアリスさんが物凄く真剣な顔で私の両肩を掴むので目を丸くしてしまう。
「ラウル王の肖像画など、公には残っていない筈だ。エマ、お前はそれを一体どこで……?」
「へ?そうなんですか……?あの人に拐われた後、最初に目覚めた時に居た邸に飾られてたんですけど……」
そう言うや否や、彼はヴィー兄様へと視線を向け、二人共難しい顔で頷き合っている。レオポルド陛下もなんだか浮かない表情だ。私だけが何が何だか解らず、おろおろとする中、アリスさんが眉間に皺を寄せて私を見た。
「エマ……お前が見たという肖像画が飾られた邸は、恐らくあの男が潜伏しているとみられる元公爵家の邸だ。もう何年も誰も辿り着けていない、な」
「え……?」
「恐らくあの男が何かしらの魔術を掛けているのだろう。だからお前は、あの邸の内部に行けた唯一の人間、という事だ」
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