閑話 魔術師長の涙
「いやぁ、エマちゃんはとんでもない事をしてくれたねぇ。拐われたかと思えば、まさかリアトリス帝国からの恒久的な和平交渉を取り付けてくるとは思わなかったよ」
エマの行方が解ったと聞き、急ぎやってきたマリユスの執務室。彼が差し出してきた書簡を奪う様に取り上げ、端から端まで読みこむ。
「長らく戦を続けてきたっていうのに、いきなり恒久的な和平だよ?エマちゃん、向こうで一体何をやらかしたんだろうねぇ」
「そんな事決まっているだろう。いつもの様に無茶をして、皇子も皇弟も救ったに違いない」
書簡をマリユスに返し、俺は大きな溜息を漏らした。
エマがあの男に拐われてからもう幾日が経っただろう。マリユスの影達や騎士を使って国内中を探させたが、その行方は一向に掴めず。国外に手を伸ばそうとしていた矢先に、突然舞い込んできたのがこのリアトリス帝国からの書簡だ。
書簡には、あの男は逃がしてしまったが、彼女は帝国の皇城で丁重に保護されて無事だという事。彼女の発案で我が国との恒久的な和平について話し合いたいという旨が記されていた。
彼女の無事が確認出来たのは本当に心の底から安堵したが、よりによって保護されたのは彼女に執着しているラファエル皇子が居るリアトリス帝国だ。何かされてやしないかと、今度はそちらの心配が湧き起こり、心は少しも落ち着かない。
「とにかく、俺は今すぐエマを迎えに――」
「待った待った!君ねぇ、エマちゃんに関して本当ポンコツなんだから困るよ」
踵を返そうとした俺のローブを、マリユスが思いきり掴む。眉を顰めて彼を見れば、露骨に溜息を漏らしていた。
「現状まだリアトリス帝国とは一時的な休戦状態なんだから、正面から王宮魔術師長の君が皇城に行ける訳ないでしょ」
「だが……」
「とりあえず、国境に近いアンヴァンシーブルの領主館で会談が出来るようにするから。君とヴィクトルは参加という事で、日時は追って伝えるよ。くれぐれも単独で動かないように」
そう言ってマリユスは掴んでいたローブを離し、さっさと行けと言わんばかりにひらひらと手を振る。乱れたローブを直し、扉に手をかけた所で、マリユスが思い出した様に声をあげた。
「そうだ、あと一つ。やはりジギタリス家の本邸があった筈の場所には、俺の影であっても今も辿り着けなかったよ。結界に加えて、幻惑の様な術があの頃から持続しているのだろうねぇ」
「リアトリス帝国から逃げたというが、あの男はやはりそこに潜んでいる可能性が高いな」
「周辺には常に騎士を配置して警戒はしているけど、転移出来るからねぇ……あの人」
あの男――バティスト・ジギタリスは前王宮魔術師長でありながら、全く褒められない性癖の持主だった。顔は美しかったが残忍で、狡猾。数多の女達への強姦や、言葉にし難い行為の数々を調べ上げ、告発した俺があの男を魔術師長から引き摺り下ろしたのだ。魔術の実力においても、俺の方が優っていた事もあり、そのまま俺は空席となった魔術師長に納まった。
クズを絵に描いた様な男だったが、あの男はジギタリス公爵家の跡取だ。俺にとっては祖父母にあたる公爵夫妻の嘆願で、本来は収監されるべき所を家から勘当し、国外追放という処分に落ち着いたのだ。
俺はその処分に納得はしていなかったのだが、その後異変が起きた。王都にあるジギタリス家の存在が消えたのだ。
邸があった筈の場所に行こうとするのだが、何故か元の場所に戻ってきてしまい邸には誰も辿り着けない。邸には当時の公爵夫妻に加え、そこで働く者達も大勢居た筈なのだが、彼等の消息は完全に途絶えてしまったのだ。
邸で何かが起こった事は確実なのだが、誰もそれを確かめられない。残る公爵家の直系は俺という事になるのだが、そんな家を継ぐつもりは俺には欠片も無い。
公爵には他に弟が居たのだが、若くして亡くなっており親戚も既に他界していた。故に、俺が継ぐ気がない以上、公爵家の領地は誰も管理する者がおらず、現在は国預かりの地となっているのだ。
俺自身も、母上が倒れた時に助けを求めに一度だけジギタリス家を訪れた事があるが、その時は門前払いだったものの邸の前までは問題なく行けていた。異変が起きてからは何度も確認に行ったが、あれは古の魔術だという事は解るのだが、俺にも解けないものだった。
ずっと、そんな魔術をあの男がどうして使えたのか疑問だった。まさかそれが、ロベリア王国の末裔だったからだとは思いもしなかったのだ。
ジギタリス家自体には何の興味もなくて、あの家の歴史を調べていなかった俺の落ち度だろう。恐らく、あの邸にはロベリアの魔術書が眠っていた筈なのだ。そうでなければ、あの男が知っている筈がないのだから。
「エマは無事だったが、あの男には地獄の苦しみを与えてやらねば気が済まん。ロベリアの魔術についても、会談では話し合ってくる」
「魔術に関しては、俺はあの人よりもアリス……君の力が上だと信じてるよ。リアトリス帝国はロベリアの領土だったんだから、何かしら収穫があるといいねぇ」
「あぁ、そうだな」
執務室の扉を閉め、俺は一つ溜息を漏らす。マリユスには話していないが、ラファエル皇子は400年前の大魔術師の生まれ変わりだ。もし彼が会談に来るのなら、ロベリアの魔術についても知っているのかもしれない。
(だが……彼はエルネストの生まれ変わりでもある……)
あの男がロベリア王国の王家の末裔ならば、俺もそうだという事なのだ。アンジェリク王女の婚約者であったラウル王の血を引いた俺と、果たして彼はまともに話をしてくれるのだろうか。
(しかも、そんな俺がエマの婚約者というのは……彼にとって俺は全てが気に食わない存在でしかないだろうな)
正直俺は、400年前の大魔術師の事はかなり尊敬しているのだ。幼い頃は独学で魔術を勉強していたし、その知識の殆どは魔術書から得ていた。
とりわけ大魔術師の魔術書は、その繊細な魔術はどれも素晴らしく、幼心に憧れていた。まさかそんな彼とこんな微妙な関係性に陥るとは想像もしていなかったのだ。
そうしてその日はそのまま別邸に戻り、ヴィーにも和平交渉の会談について話した。エマの無事を彼もとても喜んでいたし、その話はすぐに別邸で働いている皆にも伝わった。特にクレイルの妹は泣いて喜んでいたらしい。
ずっと沈んでいた別邸も、久しぶりに明るい空気が流れる中、俺はエマの居ない彼女の部屋へと戻った。彼女は居ないのに、彼女の香りがするそこは、行方が解らない間はただただ此処に居る事が苦しかった。今はこの残り香が、甘い疼きとなって胸を苛む。
「本当に……生きているのだな……」
窓際に飾った祝福の花にそっと触れる。これは彼女が拐われた路地裏に残されていた物で、彼女が俺に渡そうとしていたものだという。
彼女がずっと触れていたからか、あれから幾日も経ったというのに全く萎れる様子もないその花は、月光の中で尚美しく咲いていた。
その花弁にぽたりぽたりと雫が落ちる。頬を伝うそれには気付かぬ振りで、部屋の中だというのにおかしなものだと自嘲する。
「エマ……早く逢いたい……」
つまらぬ意地を張るのはもうやめだ。彼女と俺の好いた重さが同じでなくとも構わない。ただ笑って、傍に居てくれるだけで十分なのだ。
そうして珍しく俺に擦り寄ってきたオベールの柔らかな毛並みを撫でる。彼女もよくこうして撫でていたのを思い出しながら。
エマ、お前は今どんな思いでいるだろうか。早く顔が見たい。声が聞きたい。触れたい。抱き締めたい。
願わくば、お前も俺の事を少しでも考えてくれているように。
読んでくださってありがとうございます!
作者のやる気に繋がりますので、面白かったと思って頂けたら下にある☆を押して評価やブクマを宜しくお願いします!