4 救いの天使
薄っすらと目を開けると、辺りにはまだ夜の帳が下りていた。闇に慣れてくると、窓から差し込む微かな星灯の中で自分があの豪奢な部屋の天蓋付きベッドに寝かされているのだということに気付く。
ドレスを着ていたはずだが、今は肌触りが良いワンピースのような夜着に変わっていた。メイドさんが着替えさせてくれたのだろうか。
いろいろと考えなくてはいけないことがあるのに、思考は上手くまとまらない。酷く喉が乾いていた。
(今、何時くらいなんだろう……)
身体を起こすが、時計のような物はこの部屋にはなかったため、今が夜中であること以外は見当もつかない。ふと晩餐会でのことが心に浮かび、自然と気持ちが落ち込んでいくのを感じる。
途中から記憶がないが、直前のラファエル皇子の言葉はしっかりと思い出せるのだから、あれは夢などではないのだ。
(寝て覚めたら、自分の部屋だったらよかったのに……)
ここが酷く長い夢の中だったら、どれだけ良かっただろう。本当だったら今頃、楽しい旅行をしている筈だったというのに。
ただ現実は残酷で、私はこのまま朝になってしまえば、あの綺麗だけど怖い皇子様に婚姻という鎖で死ぬまで囚われてしまうのだ。
理由はさっぱり解らないが、私に執着している様子のラファエル皇子は、私を閉じ込めはしても危害を加えるつもりはないらしい。思い返せばあの召喚された時も、私の手を拘束したというのに、全く痛みは感じなかったことからもきっとそういうことなのだろう。
ただ、彼は私以外には容赦なく手を下してしまえる人なのだ。
自分ではポジティブな性格だと思っているし、友達にも『あんたはいつも楽しそうだよね〜見てると元気でるわ!』とよく言われる。
それでも人の生き死には、流石にきつい。私のせいで失われた命がある事実に、堪らず吐きそうになる。
(このままじゃ駄目だ……どうにかして、ここから逃げないと……)
でも、どうやって……?
部屋には扉は一つだけで、勿論鍵がかけられている。更に部屋の外には見張りの兵士が二人いる事は、晩餐のために部屋から出られた際に確認していた。帯刀している兵士相手に、武術の心得も何もない私が丸腰で勝てるはずもない。かといって窓には格子があるため、そこからの脱出もできない。可能性があるとすれば、明日の婚姻の儀式の為にここから出られる時だろうか。
いずれにせよ、こうしてただ悩んでいても埒が明かない。ここから逃げるにしても、地理も解らない状態ではどうにもならないし、一人では到底無理だろうことは明白だ。そうなると協力者が必要なのだが、もう事態は一刻の猶予もない。
(とにかく、逃げる準備だけはしよう……)
薄手の夜着だけでは心許ないことから、せめて動きやすい格好に着替えておきたいところだ。
天蓋ベッドから出ようとサイドテーブルに手をかけたところで、端にあった呼鈴がちりんと小さく音を立てる。慌てて呼鈴を掴み、そっと音を立てないようにサイドテーブルの中央に置いた。流石にあの音なら気付かれはしないだろうと思ったのだが、少しすると扉が遠慮がちにノックされた。
「あの……エマ様、起きられましたでしょうか?」
「その声は、ミラ?」
ガチャリと鍵が開けられ、心配そうな表情のミラが入ってくる。手に持つ盤には、水差しとサンドイッチらしき物が乗っていた。
「どうして解ったの?」
「そちらの呼鈴には風の魔術がかけられていますから、どれだけ小さな音でも、鳴れば私共のところに伝わるようになっているのです。あの、もし宜しければこちらを……晩餐では、ほとんどお召し上がりにならなかったと伺いましたので」
「ありがとう……!」
そう言われると、私の素直なお腹は途端に空腹だと認識したのか、ぐうぅと大きな音を立てる。可愛いミラの前でこの失態は恥ずかしすぎるのだが、彼女は気付かなかったふりをしてくれているようだった。顔を逸らして、小刻みに震えてはいるのだが。
とにかく、腹が減っては戦はできぬと昔の偉い人が言っていたのだから、ありがたく頂いておくべきだろう。ソファに座り、サンドイッチに手を伸ばす。卵の優しい味わいが、疲れた心と身体に染み渡るのを感じた。
「エマ様……まだお顔の色が優れませんが、体調は大丈夫ですか?」
「まだ万全じゃないんだけど、ミラの可愛い顔も見られたし、元気出たよ」
「かっ、可愛い……!?」
「へっ?なんでそんな驚くの……?ミラ、めちゃくちゃ可愛いからよく言われるでしょ。私、演劇を観るのが好きなんだけどね、舞台の役者さんみたいに可愛いなって初めて見た時思ったんだよね」
「そんな……可愛らしいのはエマ様です……」
小さく呟かれた声が聞き取れず小首を傾げると、ミラはほんのり頬を染め、はにかんだように微笑む。
……うん、まだ私は頑張れる。
可愛いミラの天使のような笑顔は、それだけで心が癒されるのだ。むしろ拝みたいし、こんな笑顔を至近距離で無料で見せてもらっていいのだろうか。
「本当に、殿下がエマ様に一目惚れされたのも納得です」
「一目惚れ、ねぇ……」
「?違うのですか?」
どうやらミラ達には、あの皇子様が私に一目で心を奪われ、すぐにでも妃にと望んだという随分ロマンチックな恋物語に発展しているらしい。
でも冷静に考えてほしい。事前に用意されたドレスやら何やらの存在を。どう考えても一目惚れなどではありえない。
「でも、出会ってすぐ婚姻までしてしまおうだなんて、殿下はエマ様を誰にも渡したくないのでしょうね」
「……ねぇ、ミラは……私があの皇子様と結婚したくないって言ったらどうする?」
「えっ……」
「ごめんごめん!冗談だから、本気にしないで!」
目を丸くし、青褪めた様子のミラに慌てて頭を振る。天使のようなミラを巻き込んで、もし彼女に何かあったら目も当てられないではないか。
彼女の笑顔は私が護らなくては……!
「っ……エマ様……!」
「ひぇっ」
決意も新たにしていると、私の手を包み込むように、ミラの白魚のような手がそっと触れた。
突然の接近イベントに変な声が出てしまうが、こちらを見つめるミラの表情は真剣そのものだ。これが可愛い娘役さんと組んでいる男役さんの見ている世界に違いない。
凄い……これはなんという役得だろうか。
「ここにいれば、平民ではとても望めない贅沢な暮らしができます。綺麗なドレスに身を包み、美味しい物が食べられ、美しい皇子様に愛される……そんな夢物語のような所から、本当に逃げたいですか?」
「……そうだね。それでもここには、自由がないから」
大空を自由に飛ぶこともできない、豪奢な鳥籠の中の鳥になる気はさらさらない。贅沢でなくてもいい、私は私の意思で、やりたい事を思うままに生きたいのだ。
真っ直ぐにミラを見つめると、彼女の握る手に力が籠もる。
「解りました……!エマ様は必ず私がお護り致しますので、私の手を何があっても離さないで下さいね!」
「ミラ……本当にいいの?私のせいであなたが危ない目に遭うのは嫌だから……よく考えて」
「エマ様が自由を望むのなら、私が貴女をお救いしたいのです……!」
その澄んだ瞳に、迷いは一切見られなかった。
「時間もありません……今から私がここから飛べる限界まで飛びますので、怖ければ目を瞑っていて下さいませ」
「へっ?と、飛ぶ……?」
それは一体どういう意味なのだろうかと問いかけたところで、視界がぐにゃりと歪んでいく。訳も分からず、ミラの手に縋り付くと、ぎゅっと目を瞑った。