33 流行り病
「王都で流行り病……?俺は報告を受けていないな」
そう言うアリスさんは、記憶を手繰っているのか、思案顔になっている。
先日膝枕をしてからというもの、それが随分と気に入ったらしいアリスさんは、最近は仕事から帰ってくると膝枕をしてほしそうに見てくるようになったのだ。私としても、アリスさんの柔らかい髪を存分に撫でられるのは嬉しいので、まぁ利害の一致というやつである。
膝枕をしつつ、いつも取り留めのない会話をしているのだが、ふと思い出した今日の話題が流行り病の話だった。
「料理長さんから聞いたんですけど、最初はレモン農家で働いている人の間で高熱、下痢、嘔吐なんかの症状が出たそうなんです。最初は数人だったのが、周辺にも広まり始めたみたいで……幸いまだ亡くなった人はいないみたいなんですけど、アリスさんは何か聞いてるかなと思って……」
「レモン農家、というと王都の南の方だな。……流行り病というものは、皆隠したがるものだ。自分が原因で広まったとなれば迫害されるのは目に見えているからな」
「それは確かにそうかも……」
一つ息を吐き、アリスさんは難しい表情のまま目を閉じる。眉間には皺が寄ったままだ。
「表面化したのがたまたまレモン農家だっただけで、既に感染した者がいる可能性は十分あるな」
「そこのレモン、別邸でもよく食べていたレモンみたいなんですよ。働いている人達もどうしてるのか心配だし、今回の事でレモンの今後にも影響があったらと思うと……」
しゅんとしながらそう漏らせば、労る様に彼の手が私の頬に触れる。閉じられていた筈のインディゴブルーの瞳は、少し不安気に揺れていた。
「行ってみるか、そこに。広まり始めているのなら、そろそろ研究所にも調査の依頼がくる頃だろうが、まだそこまで感染者が多くないのなら、今出来ている分のエルダーフラワーのコーディアルでどうにかなる筈だ」
「いいんですか!?」
「王都の南なら、聖教会から聖女は出て来ないだろうしな……」
「えっ?」
こういう時こそ、聖女の力は活かされるべきだと思うのだが、アリスさんの表情は苦々しく歪められる。
「王都は北に王宮があり、その周辺に貴族を中心とした富裕層の邸が多い。例外として、この侯爵家は緑が多い西の端に邸を構えてる物好きなんだが、要するに基本的には北から南に行く程貧富の差があるという事だ」
聖教会の本部は一度だけ、馬車の中から見たが、王都のほぼ中央に位置していた。聖女はあの中から出る事はほとんど無く、救いを求めに来た心付けのある者だけを癒しているのだそうだ。
流石に大きな戦や、今回の様に病が広がる様な事があれば王宮からの要請に応じて聖女を派遣する事はあるらしい。勿論、王宮からは莫大な費用を出して始めてそれが叶うそうなのだが。
「まだ王都全体に広まってる訳でもなし、聖教会は動かないって事なんですね……」
「あぁ、だから奴等にお前が見つかる心配はないだろうが、問題は流行り病だ。原因もまだ解らんのだから、必ずお前が絵付けしたネックレスをして、エルダーフラワーのコーディアルも飲んだ状態ならば同行を許可する」
「それ、ほぼ完全武装じゃないですか。解りました、勿論万全に備えますから連れてってください!」
私がぐっと拳を握り締めてそう言えば、アリスさんはやや苦笑を漏らした。
「本当は、お前には安全な此処にずっと居てほしいんだが、困っている者を放っておける訳もないからな」
「だって、こういう時の為にアリスさんはずっと研究してたんじゃないですか!病を癒せる手段があるんだから、私も出来る事はしたいです!」
「そうだな。明日、研究員も何人か連れて行ける様、連絡をつけてくる」
そう言うと彼は名残惜しそうに身体を起こすと、本当に軽く、触れるだけの口付けを落とす。その瞳は、驚く程に優しかった。
「準備で遅くなるやもしれん。今夜はもう先に寝ていてくれて構わんぞ」
「解りました……!アリスさんも、無理しないでくださいね」
そうして私からも、激励の意味を込めて触れるだけのキスを返す。アリスさんは何も言わず、一つ頷くと転移の術で消えてしまった。暫く彼が消えた空間を眺めていたのだが、明日の予定を伝える為にソファから立ち上がる。
ミミには一緒に来てくれるように頼もうとしたのだが、その前に彼女の方から同行を申し出てくれたのだから本当に有難い事だ。彼女にもアリスさんからの注意事項を伝え、ヴィーさんにも今回の事を報告する。彼はとても心配してくれてはいたけれど、文様の力を身をもって体験しているので、ネックレスをしていくのなら大丈夫だと安心している様だった。
「明日は頑張らないと……!」
緊張して眠れないかと思ったのだが、ベッドに潜り込めば、心地良い温かさですぐ睡魔に襲われてしまった。
この時はまだ、現地の状況を軽く考えていたのだ。
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「えっ……」
魔術研究所でエルダーフラワーのコーディアルを飲み、アリスさんと他の魔術師さんの魔術で件のレモン農家に転移してきたのだが、目に飛び込んで来た光景に一瞬言葉を失う。
最初に感染が確認された事もあり、ここの主屋に周辺の感染者も集められているとは聞いていたが、想像以上に数が多い。
病院でもないから、ベッドが多くある訳でもなし、感染者のほとんどは床に寝かされていた。世話をする者も満足におらず、吐瀉物がそのまま放置されていたりと環境も劣悪だ。臭いも籠っていて、これでは治るものも治る筈がない。
皆一様に熱に魘され、苦しげな声が至る所から聞こえてくる。この状態で本当に死者がいないなんて事があるのだろうかと疑う様な状況だ。
「これは……想像以上に酷いな……よくこの状態になるまで隠し通せたものだ」
「所長、とりあえず手分けして皆にコーディアルを飲ませましょう……!」
同行した皆は顔を見合わせ頷き合うと、それぞれ水割りを瓶詰めしたエルダーフラワーのコーディアルを片手に散開する。
私も近くに居た人の傍にしゃがみ込むのだが、見ればまだ幼い少女だ。何日もまともに食べていないのではないかと思う程、抱えた身体は痩せ細っている。思わず顔が歪んでしまうのだが、泣いている暇などない。
「病に効く飲み物を持ってきたんだよ。お願い、少しでいいから口を開けて……!」
少女は苦しそうな息遣いをしているが、声掛けに少しだけ口を開けてくれた所でコーディアルを少しずつ含ませる。飲み込んだ事を確認すれば、あれ程苦しそうだった呼吸はみるみるうちに落ち着き、心なしか肌艶も良くなっている様だ。飲ませる前の状態が状態だったので、効果が目に見えて現れているのだろう。
「ん……」
少女の瞳がゆるゆると開かれたかと思えば、驚きに目を丸くしていた。
「えっ!?あんなに苦しかったのになんで!?」
「ちゃんと治って良かったよ」
「あなたは……聖女様なの……?」
その質問に是と答える事も、否定する事も出来ず、私はただ微笑む事しか出来なかった。
「あなたはもう大丈夫。私は次の人を治しに行くけど、落ち着いたらご飯を食べて。いろいろと持ってきたけど、私のお勧めはタルトだからデザートまでちゃんと食べてね」
こくこくと少女が頷くのを見て、私は彼女に軽く手を振り、次の人の対応に回る。だから彼女が、ずっと私の事を見ていた事も、「ありがとう、聖女様……」と小さく呟いていた事にも気付いていなかったのだ。
そうして、私達がこの場にいる全ての人々にコーディアルを飲ませ終わった頃には、すっかり陽も暮れかけていたのだが、皆の顔はとても晴れやかだった。
此処にいる誰一人、欠ける事なく助ける事が出来たのだから。
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