26 夢渡り
ぼんやりとした意識の中、隣にある筈の温もりを求めるものの、触れるのはシーツの感触のみで何もない。ゆるゆると瞼を開けた所で、ハッとして体を起こした。
「なんで!?ここ……私の部屋だ……」
壁に貼られた御贔屓のポスターカレンダーや本棚に並んだ雑誌や写真集、祭壇の如く飾られたお気に入りの舞台写真の数々は紛れもなく見慣れた日本の私の部屋だった。
卓上カレンダーは、あの世界に召喚された時の月のまま変わっていない。私は呆然と部屋を眺めながら、どんどん血の気が引いていくのを感じていた。
あの世界で過ごした日々が、まさか全部夢だった筈もない。出会ったたくさんの人達、交わした会話、それらを私は確かに覚えている。
しゃらりと左腕に光る腕輪が音を立てた。
「まさか戻ってきた……?そんな、嫌だ……アリスさん……」
パーティーの夜に交わした熱も、口付けも、彼が触れた感触もまだ残っているというのに、縋るように触れた腕輪は酷く冷たい。
あれ程帰りたいと思っていた筈なのに、今はここに居る事が、アリスさんに逢えなくなる事が堪らなく恐ろしい。
あの世界で生きる居場所をくれて、共に生きて欲しいと言ってくれたのに、私だけがここに戻ってきてしまうだなんて事は考えてもみなかったのだ。口は悪いし、顔が整いすぎてて怖いと思われがちだけど、本当は優しいあの人を一人残して――
「あぁ……そっか……馬鹿だなぁ私……」
ずっとあの世界で自分をどこか異物のように感じていたけれど、そう思い込んでいたのは私だけで、もうとっくに、私の生きる場所はあちらになっていたのだ。アリスさんだけじゃない。ミミやクレイルさん、ヴィーさん、別邸で働いてる皆さん、皆優しくて温かくて、私を受け入れてくれていた。ここに戻ってきて、その事が痛いほど解ってしまった。
目からはぽろぽろと涙が溢れる。ずっと泣いていなかったというのに、アリスさんの前で泣いてから涙腺が緩みまくっているみたいだ。
そうして声を押し殺して泣いていた時だった。
「何故泣いている?ここは、君が帰りたかった場所だというのに」
指で溢れ落ちる雫を拭われ、聞き覚えのある声にまさかという思いで顔をあげた目に飛び込んできたのは、目も眩む黄金の様な光だ。どうして、何故という驚愕に目を見開く。
「ラ……ファエル皇子……?なんで……!?」
思わずベッドの上から後退ろうとした所で、彼の目も驚いた様子で見開かれたと思えば、勢いよく伸びてきた手に左腕を掴まれる。痛みは感じないのに、全く体は動かなかった。彼の視線は食い入る様に私の腕輪に注がれている。
「これ……は……まさか、またなのか……!?また……?俺、は……あぁぁぁあぁ……!?」
「ラファエル皇子!?えっ、ちょっと……!どうしたんですか!?」
急に頭を抱え、床の上で苦しみ出した彼に、何が起こったのかと困惑して声を掛けるのだが、こういう時にどうすればいいのかが解らない。救急車を呼ぶべきなのだろうかとおろおろとしていた所で、腰の辺りに思いきり抱きつかれてしまう。いきなりの事に振り払おうとするのだが、その手はまるで縋るように震えていた。
「ラファエル皇子……?」
「……ラファエルではございません。私は貴女様の忠実な下僕、エルネストでございます。お忘れですか、アンジェリク様。貴女様はいつも、私を愛おしげにエルと呼んでくださった……」
恍惚とした表情で私を見上げる瞳は、私を見ている様で見ていない。これは一体、何なのだろう。この人は誰――?
「ラファエル皇子!しっかりしてください!私はアンジェリクじゃない、エマです!」
「いいえ、貴女様はアンジェリク様に相違ございません。誰よりも美しいその魂の輝き、私には解ります。あの男よりも、私の方がずっと長く貴女様を見守り、お慕いしているというのに……」
私の腕を愛おしげに撫でていたその手は、痛みを感じる程に腕輪がある手首を締め上げる。思わずその力の強さに顔が歪んだ。
「陛下も酷い事をなさる……氷でできた様な無口で冷酷なあの男に貴女様を嫁そうとされるなんて……あの男と婚約しても、貴女様は少しも幸せそうには見えなかった。だから私は、貴女様を…………う……あぁぁあぁ……!?」
苦しそうに声をあげた彼は、そのままがくりと項垂れる。先程の彼は明らかにラファエル皇子ではなかった。二重人格なのか、それとも――
暫くして気が付いた彼は、痣になってしまった私の左腕に視線を落とし、苦し気に顔を歪めた。
「っ……すまない、俺は君だけは傷付けるつもりはないというのに……」
「ラファエル皇子、あなたは一体……」
「……エマ、君は前世というものを信じている?」
唐突な質問に、怪訝な顔をするのだが、彼の表情は真剣そのもので、それが答えなのだという事は明白だった。
「俺には幼い頃からずっと、前世の記憶があるんだよ。それはたった一人、愛した人の記憶だ。もう何百年も前のその人の記憶を、俺は生まれ変わる度に引き継いでいる」
「えっ……」
「その人の魂が宿っているのが、今の君だ。君は、俺が何百年も待ち焦がれた、唯一人の人なんだよ」
真っ直ぐに私を見据えるグレイシャーブルーの瞳は、凪いだ様に静かだ。ただ、その瞳の奥には確かな熱が揺らめいていた。
「な、んでそんな事が解るんですか……?私が、その人だって」
「それは、ここに居るのが俺と君だけだからだよ。ここは俺の夢であり、君の夢でもある。魂が結び付いた相手とだけ、力が強まる新月の夜にのみ夢が繋がる闇の魔術だ」
「夢……?ここは、夢の中なんですか?こんなに意識がはっきりしているのに?」
夢だというなら、目が覚めれば私はアリスさんの傍に居るという事だ。その事は物凄く嬉しい。だが、彼の言う事には納得できない所もある。
「でも、それなら私は今までこんな夢は見た事ないんですよ。人違いじゃ……」
「否、それは君が此方の世界に来て私と縁を結び、力を取り戻したからだよ。だから君も夢を渡れる様になったんだ。君が覚えていないだけで、俺は君とずっと繋がっていたんだよ、夢の中でね」
その言葉に、ずっと不思議で恐ろしく感じていた事の理由が解った気がした。彼はずっと、夢で私を知っていたのだ。だから私の事をあんなにも知り得ていたのだろう。
「闇属性の力を使ったのは大魔術師と呼ばれていた400年前以来だったから、最初は慣れなかったけれど、夢の中で成長していく君を見ていくうちに、魂の繋がりだけじゃなく俺は君に恋をしたんだ。エマ……君だけが、俺を救えるのだからね」
「あなたを救う……?」
どういう意味なのかと見やれば、彼はどこか悲し気な笑みを浮かべていた。
「何百年もの執着は最早呪いだ。自分のものでは無い膨大な記憶は、人には重過ぎるのだろうね。記憶は転生を繰り返すうちに歪み、壊れ、心を蝕む。愛する君の魂に触れられない事も原因だったろう。……だから、君に出会えた俺は、幸運だった」
そう言って微笑む彼の手は、私の手を優しく取ると、彼の首元へと充てられる。
「思い出したんだ。始まりの記憶で、君の婚約者は俺に呪いをかけた。愛する者の手にかけられなければ解けない呪いだ。未来永劫、君の記憶を抱えたまま転生を繰り返すだなんて俺には無理だ。エマ、君を想うこの気持ちは、記憶は、永遠に俺だけのものでありたい」
私が少し力を加えれば、首が絞まってしまう様な状態で、彼は心底嬉しそうに微笑む。この手を振り解きたいのに、やはり体は動かなかった。嫌だと首を横に振るのだが、彼はそれを許してはくれない。
「だからエマ――俺を殺して」
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